『モネ展:[1]白内障によるモネの苦悩 と 実際の見え方は? 症状は?』コロコロさんの日記

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1回目に、モネの晩年作品を見た時に思ったのは、
同じ年に描き始めた絵なのに、色調の「暗いもの」「明るもの」があったり、
対象の形が「認められなくなっている」一方で、「はっきり認識できる」絵があり、
モネの目には、「実際にどう見えていたのか」
また、白内障という病気は「一般的にどのように見えて」
「どういう経過をたどるのか」という疑問を抱きました。

  ⇒○モネ展:④最晩年の「日本の橋」 モネの心の目は見えていた?! (2015/12/07)


モネの作品の「制作年」と、描かれた絵を比べていて、
モネは、心の目で描いていたのではないかという仮説が出てきました。
モネの心の眼は、「色彩」や「形」は失っておらず
視力の衰えがあっても、「色や形」を描くことができた・・・・
と思ったのです。

もしかしたら、
病気を描くことの表現手段として利用していたのでは?と・・・・



■白内障の理解
白内障とは、通常、どういう見え方をして、どういう経過をたどるのか。
それは個々に違うはずです。
「モネの場合」はどういう経過をたどっていたのか。

また当時の白内障の「診断技術」「治療法」「手術の精度」「治癒率」は?

それらをふまえて、モネが実際に見えている画像は、
キャンパスへどう変換して描き出していたのか・・・
という疑問となったのですが、
モネがどう見えていたかというのは、
モネにだけにしかわからないことだったのかもしれません。

白内障によって、自分が見えている色の世界があっても、
これまでのモネの経験の蓄積から、
違う色で描くことも、できたのではないかと思いました。



■近くは見えていた!
実際のところの視野は、近距離では十分の視力があったとされているそうです。
「絵の具の色は、番号で認識」していたそうです。
また、自身の「筆の運びも、認識できていた」と考えられているそうです。

ということは、モネが選んだ色は、目が見ている色ではなく、
描きたい色の絵の具を、目の近くで選ぶこともできたということです。
「筆の運びも見えていた」とうことは、形をはっきり描くこともできたし、
抽象画のように描くこともできたということです。

モネは、色、形を表現する上で、
黄色がかった色を選び、形を崩すという、
後者の描き方をあえて選んだのだと私は思いました。
今までのような「色や形」で描こうと思えば、描くことができた。
しかし、新たなチャレンジを試みた・・・

さらに言えば、白内障という病気を、
ある意味、天からのプレゼントと受け止めていたのではないか。
白内障という見え方を、自分がこれから描き上げる作品の世界に取り込んで、
新たな境地へと昇華させたのだと私は思いました。

音を失ったベートベンが、それでも作曲ができたように、
モネの中には、これまでの「形」「色」というものは、焼きついていた。
盲目のピアニスト、辻井伸行さんも、鍵盤が見えなくなっても、
鍵盤の位置、音が、体に染み付いているのと同じなのだと思いました。

見えなくなったことを利用して、さらなる新境地に取り組んだのではないかと。

私は、モネは「白内障」という病気を楽しんでいたのではないかと、
思ったくらいです。
白内障はモネにとって試練だったのではなく、
もしかしたら、天からの恵と捉えていたのでは?
とさえ感じていました。



■モネの苦悩
ところが、モネと白内障のことについて調べてみると、
モネ自身が苦しみ、悩み、いらだっている様子が伝えられいます。

たとえばこちら・・・・
「フランス近代絵画の専門店 ギャラリーアイ」によるブログ。
印象派やエコール・ド・パリの作家を中心に
フランス近代アートの作品を取り扱っているギャラリーのブログには、
モネの白内障の経過に関するトピック的なことも紹介されていました。


雑話111「モネの白内障」 (絵画BLOG-フランス印象派 知得雑話)より

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
1908年 視力の低下に気づく。
    その後14年間、治療せず。白内障の手術を恐れていたから

1920年代の手術
  非常に困難。回復にも苦痛を伴う。
  視力を取り戻すまでにも長い時間がかかった。
  ドガ、カサットも最後、視力を失う。
  風刺画家ドーミエも同じような状態で手術を受け失敗

1920年代初頭
  モネは色が識別できない。
  絵具の色をチューブに表示してある色名で選ぶ。


症 状: 白内障がモネの視界を濁らせ、黄色から茶色へと
     まるで汚れた眼鏡をかけているような状態
     モネの色彩の認識に影響を及ぼしていた。

    ⇒モネ「バラ園から見た画家の家」1922年
    ※白内障の影響で色彩の認識が狂い、画面が黄色っぽくなっています

     モネは片目の視力を失い、もう片方の目も10%しか見えない。
     手術を決心するには、家族と友人の熱心な説得が必要。


手 術 : ようやく受けた手術は成功。

   術後のモネ
     両腕を脇につけ、両眼を完全に包帯で覆い、
     頭は動かないように砂袋で固定された状態で、
     仰向けに静かに寝ていなければならなかった。
     この状態は10日間も続く。
     その間モネは薬草茶と澄まし汁以外のものは
     一切口にすることを許されない。

     白内障は取り除かれた。が問題が2つ。

問 題 :1.ものの形がゆがむこと
      これは眼鏡に慣れてくることで徐々になくなる。

     2.色彩のゆがみ 画家にとっては深刻


   ⇒モネ「バラ園から見た画家の家」1922-24年
    ※白内障を除去したせいで、すべてが青く見えた頃の作品


●実際の見え方:
 モネは白内障によって自分が正しくない見方をしていることは認識
 黄色いレンズが青のスペクトルをさえぎっているのを補うために、
 色の知覚がどの程度まで変化しているかはわからない。
 そこで、白内障が取り除かれたとき、色彩の尺度を調整するのに
 しばらくの時間がかかったのは避けがたいことだった。

 その時の状態をモネは
 「赤や黄色は見えず、何もかもが青く見えることにひどく苛立ちをおぼえる」
  と言っている。

 上の青っぽい「バラ園から見た画家の家」はこの時期の作品の典型的なもの。

 モネにとっての不本意な「青の時代」は数ヶ月間続き
 その後黄色がかったレンズのついた眼鏡を使うことによって
 色彩のゆがみはある程度矯正された。

 しかし、両目が白内障にかかっていたにもかかわらず、
 片目しか手術しなかったせいで、モネはもはや両目で見たときのように
 描くことはできず、モネの絵は奥行きの感覚をいくらか失うことになった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

モネ自身の言葉で、見えないことに対する苛立ちを感じさせる
言葉が紹介されています。

ただ、上記で紹介されている白内障を除去したため、
すべてが青く見えているという「バラ園から見た画家の家」は
制作年が「1922-24年」です。
手術が行われたのは1923年です。
1922年に描かれ始めたときは、どういう色で描かれていた絵だったのか
という疑問が残ります。
1922年(単年)に描かれたという「バラ園から見た画家の家」は
白内障の影響による特徴的な黄色主体の絵です。



■絵の制作年について
今回、制作年と手術の関係を追っていて、
これらの制作年というのは、どうやって決められているのか。
その情報は、何が正しいのかという、根本的なことがゆらいでいて、
検証は意味がなくなると思ってしまいました。

上記のギャラリーで紹介された制作年「1922-24年」は、
手術の前後が含まれています。
それなのに、手術後の絵の変化という説明がされています。

他にも眼科医の方で絵を描き、国内外で出展もされ、
イラストも描かれる方のサイトでも
手術の年をはさんだ、前後の絵の変化の説明がされています。
しかし、その絵の制作年が、今回の展示で示された年と違っていました。

:モネと白内障

上記の最後に紹介されている晩年の絵。
白内障の影響があるものと、ないと考えられる2枚を
引き合いに出されています。
この二枚は、下記と同じ《バラ庭から見た家》と考えられます。

両者は同じ構図で描かれていますが、色の違いがあり、
手術前、手術後の眼で見たものだと思うと解説が添えられ、
それぞれの制作年が、(1922)と(1922-24)でした。


一方、今回のモネ展の図録では、制作年は次のとおりでした。

《バラ庭から見た家》  (1922‐1924)
《バラ庭から見た家》  (1922‐1924)


これらのことからも、制作年というのは、
いろいろな説があるということが考えられます。

美術界において、制作年は、基本的には何を参照することが、
セオリーなのでしょうか?
といういうことまで考えてしまいました。

一般的に認知されている制作年であっても、それに対して異論を
唱える人もいるのでしょうし、後世に覆されることもあります。
そう考えると、何が正しいのかさえもわからなくなってしまいました。




■モネはジヴェルニーの庭がどのくらい見えていたのだろうか?

モネは何を見た?ー晩年の連作をめぐって   
           長沢秀之 武蔵野美術大学油絵学科教授

美術大学の教授が、今回のモネ展を見て、
モネはどれくらい見えていたのかについて、書かれていました。

以下要約
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1923年に白内障の手術をしたあとの視覚異常を矯正するための眼鏡が展示。
その解説文から、
この眼鏡は制作における二重像や青が強く見えてしまう症状を改善するもので、それによってキャンバスと自分の距離、特にキャンバスへの絵具の“付き”をしっかり把握したのだろうと予測する。

ではジヴェルニーの庭の風景、特にその頃描いた
「日本の橋」や「バラの小径」にある風景そのものは
眼鏡を外して見ていたのだろうか?
眼鏡を外して見たとしても、この時の視覚像は二重像になっているであろうし、
眼鏡をかけて見ていたら、これは分厚い凸レンズであるから
遠くはぼやけてしか見えないだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで眼鏡を「外していたか」「掛けていたか」ということについて、
問題にする意味が、私には理解できませんでした。

「日本の橋」は(1918‐24)
「バラの小径」は(1920‐22) 手術をしたのは、1923年です。

「バラの小道」は手術前なので、ここで言うメガネが作成されていません。
「日本の橋」(1918‐24)は、4作品ありましたが、
もしメガネをかけて描いたとしたら、1923年7月以降の1年で、
メガネで見た映像に、すべて描き変えたということを意味します。

見え方が変わったからといって、これまで5年かけて描いてきたものを、
1年間で一から描き直すなんてことをするのかなぁと思ってしまいました。

ということもあり、表記された幅のある制作年を
どう捉えたらいいのかここでも悩んでしまうのでした。

と思っていたら、
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「バラの小径」の連作は手術後に制作されることはなかった。
(註:同カタログ131p)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
という話を引用されていました。

その後、モネの視力回復したことで、新たな見え方から何を発見したのか。
について語られています。こちらは別記したいと思います。




■モネの苦悩
モネは、白内障によって見え方が変わったことで、戸惑いもあったと思います。
しかしそれを逆に味方につけて、新たな境地を開拓していったのでは?
と私は考えたのですが、いろいろな形で、モネの苦悩が残されているようです。

手術後、視力が回復して、数年間に描いたものの多くを破棄したと
言われているので、やはり、見え方の違う絵に対して、
嫌悪感をいただいたということなのでしょうか?

また、描いたものを生前は公開しなかったという話もあるので、
自分としては納得いかない思いがあったのでしょうか?

生前、表に出さなかった理由には、
いろいろな理由があったことを、下記の書籍でわかりました。


モネ (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
著者:クリストフ・ハインリッヒ より

ーーーーーーーーーーー
(p47)より
たとえば《霧のヴィトレイユ》
この絵を購入したのは、オペラ座の怪人のバリトン歌手
「ジャン=パティスト・フィール」
印象派の作品の最初のコレクターでとても気に入り購入。
しかし、友人から「この絵は何も描かれていない」
笑いとばされてしまいすぐに返却したそう。

それによって、どんなにお金を積まれても
モネは死ぬまでこの絵は手離さなかったと言います。

ーーーーーーーーーーーー
(p86)より
またモネの晩年は多忙でみのり豊かな日々でしたが、
晩年だからこそ自分に厳しさを課して制作。
従って凡庸な作品が世に出ることを恐れ多くの絵を破棄、焼却した。
自分の出来の悪いスケッチや習作までもが
市場に出回るのを避けたいと思っていた。

その背景には、マネの死後、画商が全ての作品を運び去っていく
様を見ていたことに起因している。
ーーーーーーーーーーーーー

想像するに、白内障の色や形の見え方に対して、
作品を処分したのではなく、
白内障いかんにかかわらず、モネ自身が納得できない絵を処分した。
モネが凡庸と思った作品は、白内障前のものでも
処分していたということなのだと思いました。



■白内障の影響
また、この展示の中でも、
晩年の制作において、白内障の影響がどれだけあったかは
定かではないという記載もあり、
これまで一般的に言われてきた、白内障と晩年の作風との関係性について、
いろいろな見解があるのだろうということが示唆されていると思いました。





■再訪の目的
白内障の手術をしたあとも、以前と変わらないような色調の絵を描いている。
モネは白内障によって、ものの見え方はどう見えていたのか。
見えたまま描いていたのか。
自分のイメージを絵にしていたのか・・・・


制作年については、一通り把握できたので、
改めて、意識的に見てみたいと思いました。

また、モネの目を眼科医の目でみたらどう見えるのか・・・
ということも知りたくなりました。


■モネの白内障は、実際にどういう病態だったのか。
■年の経過によって、どのように変化し見え方はどう変化したのか。

■1910年当時の、白内障という病気はどういう病気だったのか
 当時の治療は、どんな治療が行われていて、
 手術の技術は、どの程度のものだったのか。

  1910年代、日本では大正時代にさしかかろうという時代です。
  その時代に、白内障の手術が行われていたことに驚きがありました。
  フランスでは、一般的に(?)行われていたのか
  技術的にはどの程度のものだったのか。

 そんなことも合わせて、モネの病態とともに、
 どういう経過をたどったのかを確認しつつ、
 晩年に描かれた絵を比べようと思ったのでした。



■「モネの」症状は?
病気はなんでもそうだと思うのですが、人によって病態が違います。
特に白内障の症状は、人によってかなり違うようです。

そして、芸術家の目の治療という観点からすると、
それに対して当時の医学は、どう対応できたのでしょうか?

例えば声楽家が、喉頭がんの手術をすると言っても、
ただ、声が出るようになればいいというわけではありません。
スポーツ選手の肘、膝などの手術も、ただ動くように直せばいいという
わけではないはずです。
アーティスト、アスリートの機能回復は、
より高度な精度が求められるわけです。

芸術活動をしているアーティストにとって、
目・耳・声など体の機能は、より鋭敏に働いているわけです。
変化に対して、一般人よりもより、敏感に反応していることが考えられます。
わずかな変化でしかないのに、より大げさにその病状を周りに吹聴している
ということもあるのでは? と思いました。

周りがモネの話をそのまま受け取れば、苦労をしたのだな・・・・
と感じるのかもしれないのですが、実際にモネが見えている視野は、
一般の人から見たら、些細な変化で、とるに足らないもの。
モネが大騒ぎしているだけ・・・・なんてことだって
あるかもしれないと思ったのです。


それもあり得るかもしれない・・・・という白内障の症状について、
東京逓信病院HPに書かれていました。

白内障ではどのように見える?
以下、要約抜粋
ーーーーーーーーーーーーーーー
ただし、白内障による色の見え方の変化はゆっくり起こるために、画家のような特殊な才能を持った人以外は気づくことが少ない多くの方は、白内障手術をして青系の光が網膜まで再び到達するようになって初めて、色の違いを感じるのです。

実際に、白内障になって「世の中が黄色く見える」とおっしゃる方はほとんどおられず、白内障手術直後に「世の中が青白く見える」と皆さんおっしゃいます。

これは赤ちゃんのときの見え方に戻ったのであって、手術のために青白く見えるようになったのではないのですが、ゆっくりゆっくり白内障が進行して色の見え方も気づかないうちに変化していたのが、手術によって急に本来の見え方に戻った為に正しい色なのに違和感を感じるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

つまり画家は白内障の見え方の変化にセンシティブだけども、
一般人は、あまり気づかずに進行するということのようです。



■当時の、白内障という病気や手術の技術は?
モネが手術をした当時の手術や、麻酔、抗生物質などについて、
白矢眼科医院のHPに詳細が調べられていました。

  ⇒○モネと白内障 当時までの白内障手術、麻酔、抗生物質、メガネ、消毒 より

1870年 30歳 右白内障(?) ⇒※1
1884年 コカインが局所麻酔として発見 
     手術を恐れ、眼科医を転々とした
1912年 70歳のころ  両眼白内障と診断。

1922年 手術 コカインはあったが抗生物質は無い時代。
     眼球は寒天培地みたいなもので非常に細菌感染しやすい
     手術から逃げ回っていたがフランス首相クレマンソーの勧めで
     白内障の手術をうける。  ⇒※2
1923年 右手術をうけ、右 0.7 左 0.1 に  ⇒※2
     ( 褐色白内障、こちらは手術せず )。
1923年 描かれた作品にから、右:青視症、左:黄視症と推測。


●当時の手術
昔白内障の手術は秘伝とされ、まったく見えなくなってから行うもの
という話があった。 
手術で一時的にぼんやり見えても後は悲惨なことが多かったと考えられる。


1912年(大正元年)に白内障が診断され、約10年悩み
1923年(大正12年)に手術を受ける

この時代の手術、そして麻酔、抗生物質などについて、
次のように紹介されています。


◆手術
○古代インド時代にすでに、鋭利な刃物で水晶体を硝子体に落下させる方法で行われていた。
○ フランスのジャック・ダビエル(1696~1762)が嚢外摘出術。
 カプセルの一部を破り核のみを取り出す方法です。
○レンズすべてを取り出す嚢内摘出術。

現代は、①膜の前の部分を切り取り、
    ②中味を砕いて、吸出し、
    ③人口のレンズを挿入


◆麻酔
1892年 コカインによる浸潤麻酔を提唱し、局所麻酔法を普及。
1922年 手術(麻酔発見から30年後)


◆抗生物質
1922年 手術時、抗生物質なし
1928年 A.Flemingがペニシリン発見(手術の6年後)

1940年代 工業化 各種抗生物質開発

モネが幸運にも抗生物質なしで白内障の手術に成功したのが不思議に思い消毒の歴史を調べました。


◆消毒
1908年ヨードチンキによる手術の消毒が行なわれていたようです。
1912年 70パーセントエタノールの殺菌力効果大の証明
1920年 マーキュロクロムの開発

1922年 手術時 
     手術材料のオートクレイブ殺菌 煮沸消毒 手術用手袋煮沸消毒


抗生物質がなくても、術後の感染症にかからずにすんだのは、
手術器具などの、殺菌、消毒の機械や技術が確立されていた
幸運にがもたらしたと考えられる。

(注)※1 30歳で、白内障というのは、始めてみる情報です。
   ※2 手術年が、1922年と1923年が混在しておりますが、
      元情報のまま記載しています。
      これまで調べていて、手術を2回受けた、3回受けたという
      2つの情報を確認しています。
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また、下記のサイトでも、モネの手術のことについて次のように書かれています
印象派画家クロード・モネを知っていますか?  (とだ眼科通信)

当時、フランスでは近代的な白内障手術が始まっていた。嚢外摘出手術と言われる、メスで角膜を切開し、針で水晶体嚢を切開、推奨体の核を創口から圧出させる方法が行われていた。角膜の傷口を絹糸で縫合することも行われていた。が、抗生物質がなかったため、失敗例も多かった。

1922年(大正11年)82歳で手術し成功、制作を再開。しかし、当時、眼内レンズがないため、度の強い凸レンズをかける必要があり、長時間、絵を描くのは疲れあったと考えられる。1926年 (昭和元年)86歳で永眠。
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モネの時代、産業革命なのどの技術の進歩により、
絵を描くスタイルや、モチーフに大きな進歩が見られました。
同様に、モネの白内障手術も、近代的な医療が始まった
創世記と言えるのでしょう。


ちなみに白内障の手術の歴史を調べてみると、
1360年前後、
 日本に白内障手術がインドから中国を経て伝わる。
 手術方法は、鍼で眼球を突き、水晶体を硝子体内に脱臼させる。
 麻酔のない時代、一発で仕留めなる技術を要する。
 抗生物質もないので感染症もかなりの確率でおこったと予想。

1800年頃  
 世界中で、この「墜下法」が行われていたよう。
 当時の成功率は30%前後。その後、解剖が分かってきて、
 角膜を切って、水晶体を取り出す「摘出術」が行われる。

1949年、
 第一の革命:イギリスのリドレー医師が人工水晶体(眼内レンズ)を発明。
 第二の革命:アメリカのケルマン医師が超音波乳化吸引装置を発明。
 この二つが合わさって、ここ20年程の間に、爆発的に術式が洗練。

ということで、モネが手術を受けた1923年は、
第一の革命が起こる前の、黎明期の手術だったことがわかります。

技術革新というのは、二乗曲線を描くもので、
今日では「白内障の手術は簡単」という認識があります。
しかし、現在でも一番多い失明の原因は白内障なのだそうです。

それは、先人達の努力、血の滲むような試行錯誤があって、
日帰り手術が可能なまでに発展してきたのだと言います。
これも豊かな日本に住んでいるお陰で享受できるのだと森眼科医院 院長コラム で語られていました。
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以上のことから、モネの時代に白内障で手術を受けられるのは、
ひとにぎりの特権階級(?)の人たちだったと考えられます。
おそらく、首相がモネに手術をすすめていましたから、
クレマンソーの口添えなどもあり、
その時代としては、最新技術の手術を受けていたのだろうと考えられます。

しかしながら、近代的治療の黎明期。
術後の感染症の危険を抱え、治ったとしても、ぼんやり見えるようになる程度。
手術後の経過は、あまり良好とはいえなかったことが想像されるといいます。


前出の雑話111「モネの白内障」内に術後の管理状態が書かれていますが、
この様子からも、当時の手術レベルが伺えます。

 術後のモネ
 両腕を脇につけ、両眼を完全に包帯で覆い、 頭は動かないように砂袋で固定 された状態で、仰向けに静かに寝ていなければならなかった。この状態が10 日間も続く。その間、モネは薬草茶と澄まし汁以外のものは 一切口にするこ とを許されない。



■プライドのぶつかりあいで手術を受けた?
モネは自ら大装飾画の製作をクレマンソーに申し出て、
描く契約をし、国家的プロジェクトとなりました。

クレマンソーは、古くからモネの友人で、支援もしてきました。
昔からモネのことを評価していたこともあり、
その申し出を受け入れるべく、モネの最後の仕事の場を与えたいと
考えたのではないでしょうか?
しかし、それにあたっては、周囲の反対などもあったと考えられます。
それを押して国家プロジェクトとして立ち上げたのではないでしょうか?

ところが、途中モネは白内障をわずらい、製作期限の延長を、
申し出てきて、困った状態に。
クレマンソーも、無理に押し込んだ手前もあり(推測)、
国家プロジェクトとして動いているからには、
何がなんでも仕上げてもらわなくてはという思いもあって、
強く手術をすすめていたのではと思いました。

さらに、モネが延期、そして大装飾画を思うように仕上げることができず
ついに契約破棄までを考えていることを知りました。
その時、クレマンソーは非情とも思える怒りの手紙を送り、
契約を遂行する責任をモネに解いています。

「いかに年老いていようと、弱っていようと
 芸術家であろうと、なかろうと、
 一人の人間が名誉にかけて誓った約束を破る権利はない
 とりわけ、それがフランスとかわされたものであるなら
   (2007 大回顧展 モネ 年譜 p221より) 

1925年、1月7日、モネが没する1年前に、送った手紙です。
すでにクレマンソーがすすめる手術も受け、
最善をつくしている姿勢を示していてもなお、
このような厳しい手紙を送ったということは、
それ以前のプレッシャーは、いかばかりだったのかと想像されます。

そうしたプレッシャーを、モネはクレマンソーから
ずっとかけられていたと考えられ、
手術を受けることにしたと考えられます。
もしかしたら、モネにとっては、クレマンソーに対して
誠意を見せるための(?)一つのポーズだったのかも・・・・
と思ったのでした。

モネは、見えていても見えていなくても描くことはできた。
従って、あえて手術を受ける必要もないと考えていた。
手術を受ける期間、描けないブランクを考えたら、ずっと描いていたかった。

しかし、白内障の診断を受けているのに、ずるずると、
見えない状態で製作を続けているモネに対して、
クレマンソーは、相当な厳しい言葉を、投げられていたのではと想像されます。

首相という立場となったクレマンソーのプライド、
国家プロジェクトとして遂行させているクレマンソーの立場。
そして、画家として一時代を担ったモネのプライド。
お互いのプライドがぶつかりあって、モネも手術を決断したのでは? と・・・

大装飾画は、第一次世界大戦の勝利に対する寄贈です。
国家への忠誠、そして、これまで支えてくれたクレマンソーへの
感謝の意味もあったのかもしれません。

そういえば、カルティエの時計、タンクも、
第一次世界大戦で、フランスが勝利した記念の腕時計として
戦車を模して製作されました。

当時は、フランス全体が勝利を祝い、記念の品を製作して国に捧げる。
おそらく、その裏には、フランスという国の威信をかけた、
技術や文化の国威発揚の意味があったのだと想像されます。

その中でも、首相クレマンソーは、モネからの大装飾画の提案を受け入れ、
それを国家プロジェクトとして無理に押し込んだという(←想像)
いきさつなどがあって、
この期に及んで、契約破棄とは何事だ! ゆるさん・・・という
首相としての立場もあったのではないか・・・・

と、いろいろ、想像してみるのでした(笑)


【追記】2016.1.6
wiki pedhia より
ーーーーーーーーーーーーー
モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのはこの大作を完成させるためだったという。作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったが、クレマンソーはモネに対し「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」との書簡を送った。モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ、『睡蓮』の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された
ーーーーーーーーーーーーーー

やはりモネの手術は、大装飾画のためであったことが伺えます。
そして、契約を破棄しようとしたのは、目が見えないことで行き詰まったというよりも、
モネ自身が、満足できる絵を仕上げることができなかったためだ
ということが伺えます。
満足できない作品が没後に残ることよしとせず、作品を破棄していたのと同様、
国家プロジェクトという製作において、不本意な作品を残すということが、
「契約を破棄する」ことよりも、
モネにとっては耐え難いことだったのだと思われます。


【参考】
1132話 あわわ!!ごめんなさい!のオランジュリー美術館モネの睡蓮より

モネの寄贈についてこんなふうに語られています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
俺ももう長くはないな、クレマンソーにゃ世話になった。
奴はこの戦争の英雄でもある。
フランスの終戦祝いに俺のライフワーク『睡蓮』の作品2枚を奴に贈ろう。

しかし、待てよ…今や奴はフランスの英雄だ!
ちっぽけな絵じゃ奴の功績にはふさわしくない。
100mだ!100mの睡蓮の絵を描いてやる!


そして、1922年にはその絵をフランス政府に寄付すると弁護士立会いの下で契約します。

が、どうしても目が見えない…
アカン!描けへん!

モネは筆を折ろうとしますが
今や英雄のクレマンソー
モネとは友人とは言えフランス政府と契約まで交わし
メンゴ!描けんかったわーー へへへー(苦笑)
では済まされません。

それが俺の出来る最後の仕事だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お互いのプライドの裏に、お互いをたたえ尊重し合う
友情のようなものも存在していたのかもしれません。


(続)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【関連】
モネ展:[3]モネの目は何を見ていたのか  私の目から見たモネ (2015/12/24)
モネ展:[2]モネの白内障を「眼科医」の目で (2015/12/24) ←次
モネ展:[1]白内障によるモネの苦悩 と 実際の見え方は? 症状は? (2015/12/23) ←ここ



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