国境が騒がしい今だからこそ行く「元寇」を巡る旅

国境が騒がしい今だからこそ行く「元寇」を巡る旅

700年前、我らの祖先は世界最大の帝国を築いたモンゴルとその属僚と化した朝鮮・中国の侵略に対し、毅然と対応し、打ち勝ちました。 尖閣諸島、竹島といった日本領へのあからさまな侵略行為や、日韓基本条約を反故にするかのような慰安婦問題が頻発する今だからこそ、食べログ視点で元寇を振り返ってみました。

記事作成日:2016/09/07

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このまとめ記事は食べログレビュアーによる5447の口コミを参考にまとめました。

如何にして、侵略から領土や家族を守ったのか。御家人達の奮闘から学ぶ!

元寇にまつわる場所の観光する際に、便利なスポットを、時系列にまとめてみました。

パンストック

「敵国降伏」
元寇で焼失した筥崎宮が再建された時に、亀山上皇が納めた宸筆です。
信心深さが現代の比ではない当時、こうした行為に込められた思いの強さは、見るものの心を揺さぶります。
やはり、元寇の旅のスタートは、ここ、筥崎宮でしょう。

筥崎宮近くのオススメスポットは「パンストック」です。
冷めても美味しいパンですので、この後の対馬行きフェリーにもちこむのもいいでしょう。

パンストック入り口です。
この中に所狭しと、たくさんのパンが並び、人も並んでいます。

パンストックから程近いところにある筥崎宮の楼門(重文)です。
建立したのは、あの「三本の矢」の逸話で有名な毛利三兄弟の一人、小早川隆景です。

その楼門に掲げられている扁額(重文)です。
この「敵国降伏」の敵国こそ、世界最大の版図を築いたモンゴルであり、その属僚である朝鮮と中国でした。

この石造りの鳥居(重文)は、軍師で名高い黒田官兵衛孝高の息子で、筑前藩初代藩主・黒田長政が建てさせたものです。

関ヶ原で大功のあった長政は、12万石から54万石の大名に取り立てられました。
その活躍ぶりは、徳川家康が直接、右手を取って、褒め称えるほどでしたが、父・孝高は「その時、左手は何をしていた?(その左手でなぜ家康を討ち取らなかったのか?)」と問い正した話は有名です。

宸筆を納められた亀山上皇の像です。
この国難に際し、上皇自ら先頭に立って、祈祷を行いました、
当時の危機感の強さが窺い知れます。

元祖長浜屋

この後、九州郵船運行のフェリーの夜行便で対馬に渡ります(博多0:05発、厳原4:45着)。
博多の街で泥酔しては、フェリーに乗り遅れかねませんし、酒臭いのは周りのお客さんに迷惑です(九州郵船運行のフェリーには、個室がありません)。

とくれば、やはりラーメン、博多でラーメンなら、元祖長浜屋でしょう。
なお、海がどれだけ荒れるかわかりませんので、量はほどほどに…

元祖長浜屋の外観です。
近隣には、元祖ラーメン長浜屋や元祖ラーメン長浜屋台といった似た名前のラーメン屋がありますので、要注意です。
もっとも、味の方はどこであっても、さして変わりませんが…

おむすび村 本店

厳原港行きフェリーは早朝4:45分に到着しますが、この時間ではレンタカー会社も公共交通機関も動いていません。
そこで九州郵船のフェリーでは朝7:00まで船内で休憩できます(途中下船不可)。
そんな船内での朝ごはんにおすすめなのが、博多の町一番の人気おにぎり店「おむすび村」です。

オススメは塩さば・とり天・かしわ。
無意識に、きまって、この三つの中から選んでしまいます。アハハハハッ!

おむすびを入手うした後は、フェリー乗り場の隣にある「波葉の湯」で1日の疲れを落とすのがオススメです。

匠

1274年(文永11年)10月5日、対馬西岸の小茂田浜に、軍船900隻、総勢3万5千といわれる元・高麗連合軍が姿を現す…
世に言う、元寇(文永の役)のはじまりです。

厳原に本拠を置く対馬守護代の宗助国は約90騎を率い、小茂田浜で迎撃しますが、上陸した1千を超える元・高麗連合軍の前には多勢に無勢であり、全滅してしまいます。
小茂田浜にはその宗助国達を祀る小茂田神社が建立されており、元寇を巡る旅には、外せないスポットです。

そんな小茂田浜・小茂田神社観光の折に寄りたいのがこちら。
実は兵庫はある事情でレンタカーを借りれず、こちらに訪問できずじまいでしたが、こちらのそばは島内一だそう。
是非、お試しください…

対州庵

レンタカーを入手できず、レンタサイクルでの観光に切り替えた兵庫が、匠の代わりに選んだ対州そばの店がこちら。

対馬名物のいりやきのスープに対州そばをいれたいりやきそばがオススメです。

厳原の中心にあり、とても便利な店です。

宗助国を祀る小茂田神社の代わりに、その子孫である宗義智を祀る八幡神社で足を伸ばしました。
義智は安土・桃山から江戸時代にかけての対馬領主で、朝鮮出兵からその後の関係修復に大きな貢献をしました。

渡辺菓子舗

対馬領主・宗家の当主をねぎらうために作られたという対馬銘菓「かすまき」の店です。

小茂田浜で討ち死にした宗助国や朝鮮との橋渡しで苦労した宗義智を考えれば、こうした菓子くらい作らせても贅沢と攻める気はなくなります。

こちらは中心街から近く、朝8:00から営業しているそうなので、朝食代わりにもなります。

山田松月堂

対馬領主・宗家の当主をねぎらうために作られたという対馬銘菓「かすまき」の店です。
上述の渡辺菓子舗が伝統的とすれば、こちらは洗練と言えるのではないでしょうか。

厳原の中心街と空港の中間にあるので、空港利用者はお土産にどうぞ。

レンタカーの代わりにレンタサイクルで万関橋へ向かいました、
もともとは一つの島であった対馬の最薄部を開削して造られた万関瀬戸にかけられた橋です、

日露戦争時は、のちに首相となる鈴木貫太郎率いる水雷艇部隊が万関瀬戸を通り、出撃していきました。
先立つ砲戦で傷ついたバルチック艦隊に夜戦を仕掛けて、大きな戦果を上げ、日本海海戦(Battle of Tsushima)における日本の勝利を決定付けました。

対馬バーガーKiYo

対馬で思わぬ掘り出し物だったのが、こちら「対馬バーガーKiYo」。
オススメは対馬チーズバーガー。

こちらの店は、九州本土には向かわずに、韓国の釜山に出店しましたが、700年前、元・高麗連合軍は、対馬住民に対し、殺戮・略奪行為を行った後、博多湾を目指し、対馬を出港しました。

約10時間の滞在の後、来た時と同じ「フェリーちくし」で厳原港を出港します。

フェリーちくしは700年前のモンゴル・高麗連合軍と同じように壱岐へ到着します。

モンゴル・高麗連合軍は、壱岐守護代・平景資を討ち取り、対馬で行ったような殺戮・略奪行為を行ったと伝えられます。

フェリーちくしは明かりの灯る博多湾へと入ります。

700年前のモンゴル・高麗連合軍も同じような光景を目にしたはずで、第一目標である太宰府へと向かうべく、上陸を開始します。

鮨 久保田

フェリーちくしは博多港に20:10に到着しますが、移動やホテルへのチェックイン等をしていると、街に出れるのは22時近くになります。
そんな時に便利な寿司屋がこちら「鮨 久保田」です。

ミシュラン星一つの実力と、マグロは使わずに地物にこだわるこ主人のポリシーが生み出す鮨が堪能できます。
もう少し、握りの仕上げが綺麗だと、もっと評価が上がるのでしょうが…

鮨 久保田の外観です。
中洲近辺でこの値段なら御の字じゃないでしょうか。

鮨 久保田

モンゴル・高麗連合軍迎撃の重責を背負ったのは、既に部下二人を殺され、領地を蹂躙された怒りに燃える対馬守護・壱岐守護であり、鎮西奉行である少弐資能でした(写真は資能の息子・景資で、筥崎宮展示のもの)。
彼は鎌倉武士の得意戦術である集団での騎射(馬上から弓を射る戦術)の威力を重視し、見通しの良い息の浜に軍を置きますが、モンゴル・高麗連合軍は博多を挟んだ逆側で、日本軍に阻まれることなく、上陸を成功させます。

福岡市博物館喫茶室

モンゴル・高麗連合軍と少弐資能率いる日本軍が激突したのは、金印を所蔵していることで有名な福岡市博物館の辺りです。
ここの喫茶室は大変涼しく、暑さでやられた身体と心を癒すのにもってこいです。

福岡市博物館です。
日本軍の読みとは異なり、今の百道(ももち)あたりに上陸したモンゴル・高麗連合軍は、赤坂あたりで菊池武房率いる300騎と激突します。
日本軍を侮っていたモンゴル・高麗連合軍は、自分たちの弓の射程外から正確に繰り出される長弓による攻撃と、何より統率のきいた集団運用される騎馬部隊に驚きます。
機動力に優れる日本軍に船団との連絡を断たれることを恐れた連合軍は、戦いながら撤退を始めます。

そんな連合軍に、少弐資能率いる日本軍の主力が麁原周辺で追い付き、両軍は激突します。

連合軍は機動力と射程に勝る日本軍相手に、撤退しながらもよく戦いますが、指揮官の劉復亨が負傷するなどして、肝心の指揮命令系統が混乱。
船団まで押し返されてしいます。

連合軍首脳陣は、現有戦力での進行を断念し、撤退を始めますが、日本軍の夜襲を恐れ、夜間航行を強行したため、多くの船が座礁沈没。
そこに荒天が加わり、大損害を被り、文永の役と呼ばれる戦いは日本軍の勝利と終わりました。

まことうどん

元寇の遺構として最も有名な「元寇防塁」。
元寇防塁は博多の西側に多く残っており、その観光の際に便利なのが、こちら「まことうどん」です。

兎にも角にも出汁が秀逸で、かろのうろん・うどん平・牧のうどんもウカウカしてられない…
そんな実力店です。

まことうどんの外観です。
博多市地下鉄の西の終点・姪浜駅からすぐのところにあります。

文永の役で侵略の意図を確信した鎌倉幕府は、再度の侵略に対抗するため、博多湾一体に「防塁」と呼ぶ陣地を築きます。
(これは西南大学周辺にある防塁跡)

その防塁の中でも、最もいい状態であるのが、生の松原にあるこの防塁です。
途中で色が変わっているのは、建築を担当した御家人の違いと言われています。

そして、鎌倉幕府の予想通り、文永の役の7年後、東路軍・江南軍合わせて16万の軍勢が、この博多湾目指し、出発します。
これは後世のノルマンディ上陸作戦に動員された兵力に匹敵する大軍勢です。
世に言う弘安の役の始まりです。

旧南宋軍を主力とする江南軍の到着が遅れたため、先行した東路軍は単独で攻撃を仕掛けるも、防塁に阻まれ上陸できませんでした。
やはり、日本軍は強かったのです。

東路軍は、仕方なく防塁のない志賀島に上陸しましたが、待てど暮らせど、今回の侵攻作戦の主力である江南軍は到着しませんでした。
そうこうしているうちに、日本軍に撃退され、再び洋上に逃れます。

はらほげ

壱岐は文永の役・弘安の役の二度にわたり、モンゴル・高麗連合軍の侵略を受け、多くの島民が殺害・拉致されました。
元寇を語る上で欠かせない土地です。

現在は赤うにの名産地として知られ、ここはらほげでもうに料理をいただくことができます。

志賀島を奪回した日本軍は、続いて東路軍の根拠地となっていた壱岐の奪還を目指します。
先の鎮西奉行で、文永の役ではモンゴル・高麗連合軍を破った少弐資能をはじめとして、少弐一族も総力を挙げて参加します。
(写真は少弐資能の孫・資時)

壱岐を巡る戦いは激戦となり、江南軍の出撃を知った東路軍は壱岐を放棄し、江南軍と合流するために平戸へ向かいます。
日本軍は壱岐を奪回しましたが、大きな代償も払います。

先の鎮西奉行・少弐資能やその孫・資時など、多くの人材を失いました。
ですが、日本軍の奮戦は江南軍の行動に大きな影響を与えます。
先述の通り、江南軍の大半は国をモンゴルに滅ぼされたばかりの南宋軍を主力としたもので、モンゴルの侵略行為につき合わされるのは本意ではありませんでした。
鷹島で防御に徹し、動かない江南軍に迫っているのは日本軍だけではなく、この時期には珍しくもない台風でした。

菊鮨

モンゴル・高麗連合軍が目標とした太宰府の北を守る城が大野城です。
元寇より更に遡ること600年、白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、新羅や唐の侵攻を恐れ、築いた城です。

そんな大野城は町の名前となりますが、そこにある絶品寿司屋が、こちら「菊鮨」です。
モナコでの料理人経験を持つご主人の芸術に酔いしれるひとときが楽しめます。

大野城にある菊鮨の外観です。
もしモンゴル・高麗連合軍が博多に橋頭堡(太宰府侵攻の足がかり)を築けていれば、ここ大野城は激戦場となったことでしょう。
ですが、モンゴル・高麗連合軍はここに足を踏み入れることができませんでした。

台風で船団を失った江南軍は、総大将の范文虎が逃亡したため、統率を失い、捕虜となるしかありませんでした。
ただ、台風が来なくても、戦意の低い江南軍が日本軍に打ち勝つのは無理であったろうと推測されます。

ころしのカレー

当時、九州統治の要は筑前国の内陸に位置する太宰府であり、モンゴル・高麗連合軍の攻撃目標でした。
太宰府の政庁は今の二日市にありましたが、その二日市にあるカレーの人気店が「ころしのカレー」です。

独特なセルフオーダーシステムを導入し、自分好みのカレーを仕立てることができます。

ころしのカレーの外観です。
最寄駅は西鉄二日市駅です。

太宰府政庁跡です。
ここを目標としたモンゴル・高麗連合軍でしたが、ここに到着できたのは捕虜のみでした。

ちなみに太宰府政庁より有名な太宰府天満宮は、ここ太宰府政庁に左遷され、強い恨みを抱いたまま死んだ菅原道真の怒りを鎮めるための神社です。
いくらお参りしても、道真の怒りは鎮まりこそすれ、頭は良くはなりません(笑)。

※本記事は、2016/09/07に作成されています。内容、金額、メニュー等が現在と異なる場合がありますので、訪問の際は必ず事前に電話等でご確認ください。

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