食べログ皇統記〜神話から古代へ

出典: 職人!西島兵庫さん

食べログ皇統記〜神話から古代へ

2019年5月1日、徳仁親王が第126代令和天皇として即位されました。 初代神武天皇が即位されてから2679年、これだけの長期間、続いた国家・王朝は存在しません。 日本を語ることは皇統を語るに等しい、令和を迎えるにあたって、その歴史を紐解く『超』マニアックなまとめです。

キーワード
モーニング・朝食
駅前・駅近

記事作成日:2019/10/26

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このまとめ記事は食べログレビュアーによる614の口コミを参考にまとめました。

日本という国は如何にして生まれてきたのか?

今年は皇紀2679年に当たるといわれます。
古代ローマが紀元前753年に誕生し、1453年のコンスタンティノープルの陥落で滅亡するまで2206年、それを超える支配体制は日本の天皇制しかありません。
太平洋戦争等の影響で皇統を語ることはタブーと見られがちですが、日本の歴史を知るには避けられない命題です。
2679年の間には、王朝交代の可能性に始まり、蘇我氏の専横とそれに続く壬申の乱、藤原摂関家による圧迫、武家政権設立による二重権力構造の発生、建武の新政とその失敗、足利義満・織田信長の天皇制に対する挑戦等、数多くの危機を迎え、そして克服してきました。
令和を迎えるに当たり、訳も分からずに騒ぐよりは、今一度、日本という国を見つめ直す機会にしたいものですね。アハハハハッ!

麺屋いちびり

3.64

夜の金額: ~¥999

昼の金額: ~¥999

初代神武天皇の陵・畝傍山東北陵は今の奈良県橿原市にあります。
その最寄駅である橿原神宮前駅近くにある人気つけ麺店がこちらです。

現存する日本最古の史書「古事記」。
その構成は上巻・中巻・下巻より成立し、上巻は天地の創生から神武天皇の祖父・火遠理命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までを記載しています。
中国の歴史書「史記』も冒頭は神話で始まりす。
それに習ったのでしょう、上巻は神話の時代、中巻以降が歴史と見なすのが一般的です。

中巻の冒頭に出てくる神武天皇は初代とみなされる天皇です。
ちなみに、その即位した年を元年として数えるのが皇紀で、今年は皇紀2679年に当たります。
「ゼロ戦」の愛称で知られる零式艦上戦闘機は皇紀2600年(西暦1940年)に正式採用されたことから、零式と名付けられています。

神武天皇は日向国(今の宮崎県)から大和国(今の奈良県)に東征を行い、奈良県橿原に政権を打ち立てたと古事記は伝えます。
その後、127歳の時にこの地で亡くなりますが、その子孫たちが今生天皇に続く系譜だと言われています。

「127歳なんて有り得ない」と考える方も多いでしょうが、残念ながら、その方は今の常識にとらわれすぎている可能性があります。
1年が365日というのは今は常識ですが、当時の1年が何日であったのかはわかっていません。
一説では今の半年相当を1年と考えていたとも言われています。

ですが、神武天皇以降の第2代綏靖天皇から第9代天皇の開化天皇までは、その実在を裏付けるものがなく、存在したのかどうか議論の対象となっています(欠史八代)。
ですが、古事記の上巻に描かれるような神話の時代とは異なり、何らかの伝聞が神武天皇像として伝わっていると思われます。

御陵餅本舗

3.38

夜の金額: -

昼の金額: ~¥999

第10代崇神天皇の陵・山邊道勾岡上陵は今の奈良県天理市にあります。
その山邊道勾岡上陵の目の前にあるのがこちらです。
おそらく、日本古代史の研究家の大半はここで餅を食べたのではないでしょうか。

第10代崇神天皇は実在が確認される最古の天皇です。
初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と崇神天皇の称号「御肇國天皇」はいずれも最初の天皇を意味しており、大和の地において他の勢力よりも優位に立ち、王権を確立した崇神天皇又はその子孫が自身の立場を強化するために、神武天皇から開化天皇の存在を作り出したのかもしれません。

今の奈良盆地の全部ないし一部を手中に収めたヤマト王権にとって幸運だったのは、奈良盆地の自然が当時の人間の手にとって御し易いものであったことでしょう。
この当時、人間の力では大河を御することもできなければ、大きな山や沼を耕作地に変えることもできませんでした。
しかし、大和の山河は当時の人間の力で開発するのに適したサイズで、経済力をつけるのに最適だったのでしょう。
奈良盆地はまさに「古代日本のゆりかご」でした。

ですが、赤ん坊が大きくなってゆりかごを必要としない時がくるのと同じように、ヤマト王権もまたゆりかごを必要としない時がくるのは自然の摂理です。
崇神天皇の作った政権はその成長の結果、動揺の時期を迎えます。

そば切り 蕎香

3.54

夜の金額: ¥3,000~¥3,999

昼の金額: ¥1,000~¥1,999

第15代応神天皇の惠我藻伏崗陵は大阪府藤井寺市にあります。
応神天皇の父・第14代仲哀天皇の陵は初めて奈良盆地の外に築かれた陵ですが、仲哀天皇やその妻で応神天皇の母とされる神功皇后はは実在性に乏しいと言われています。
外征で活躍したと言われる実在性の低い父母から生まれたとされる応神天皇の陵が奈良盆地の外にあるというのは大きな意味を持つと思われます。
その惠我藻伏崗陵近くにある蕎麦の名店がこちらです。

第15代応神天皇の惠我藻伏崗陵は後世の大坂夏の陣における合戦の一つ「道明寺合戦」が行われた場所の近くにあります。
大坂冬の陣で大阪城の外堀を埋められた豊臣方は奈良から大阪へ山道を越えてくる東軍を山道の出口にあたるここで迎え撃ちますが、連携を欠き、後藤又兵衛基次を失ってしまいます。
そう、応神天皇陵は「古代日本のゆりかご」奈良盆地の外に築かれているのです。

古代日本史の英雄・日本武尊(やまとたける)は応神天皇の祖父にあたります。
この頃になるとヤマト王権は奈良盆地の外へ積極的に外征に出るようになっており、日本武尊の伝承はそうした背景があってのものです。
積極的な外征はしていたものの、崇神天皇以来の祖法を守る立場(蟠踞派)からすれば、政権の中心は常に奈良盆地にあるべきでしたが、外征の度に毎度毎度山を越えて出戦しなくてはならない立場(外征派)からすれば、奈良盆地は王都として不適切に感じられていたでしょう。

外征派の中心であったろう応神天皇は伝統的な支配層が多かったろう蟠踞派に対抗するために、英雄・日本武尊の功績を誇張し、その子孫であることをアピールしたのでしょう。
応神天皇は崇神天皇の子孫を倒して政権を取ったとも言われていますが、血の繋がりは別として、王都を奈良盆地外に移した応神天皇によって、ヤマト王権は地方政権の一つから頭一つ出た勢力へと変貌したと言えます。

桂ちゃん

3.75

夜の金額: ~¥999

昼の金額: ~¥999

第21代雄略天皇の丹比高鷲原陵は曽祖父・応神天皇と同じく、奈良盆地の外に位置する現在の大阪府羽曳野市にあります。
おそらくは外征派の中心であった曽祖父の意思を最も強く受け継いだのが、この雄略天皇だったでしょう。
同じく、名店と言われた修行元の意思を強く受け継いだうどん屋がこちら「桂ちゃん」です。
大阪で釜あげならここを外すという選択肢はないでしょう。

応神天皇によりヤマト王権は「古代日本のゆりかご」奈良盆地をでて、日本王朝への道を歩みだしましたが、吉備や筑紫、出雲にはヤマト王権に匹敵する政権が成立していました。
ヤマト王権から見て地方国家であったこれらは婚姻などを通じた連合国ではありましたが、従属関係にはなかったと見られています。

また、ヤマト王権内も一枚岩とは言えない状況で、皇族は皇位を狙い、外戚は権力を手中に収めようと暗躍していました。
雄略天皇もその例に漏れず、兄・安康天皇が暗殺されたことを契機に、兄や従兄弟達、有力外戚の葛城氏を殺して、皇位についたのです。
ですが、この乱暴とも言えるこのやり方でヤマト王権は雄略天皇のもと、一枚岩になります。

足元を固めた雄略天皇は地方政権の中でも最大の吉備に目を向けます。
吉備の乱と言われますが、その中身はよくわかっていません。
わかっているのは、雄略天皇は吉備氏を弱体化させ、ヤマト王権の支配下に組み込み、他の地方政権よりも強大な政権を作り上げたことだけです。
これにより、他の地方政権も圧倒的に強力な雄略天皇率いるヤマト王権に従属せざる得なくなったことでしょう。

こうして日本統一王朝へ大きく歩を進めた雄略天皇ですが、後世には「大悪天皇」という名でも伝わります。
その政権奪取の手法から見ても分かる通り、苛烈な性格だったこともあるでしょうが、彼によるヤマト王権の拡大は、権力や富を奪われた者を数多く生みだしました。
そうした怨嗟の声の多さが「大悪天皇」の伝承を作り出したのでしょう。
やはり。日本の歴史上、大きな役割を果たした天皇と言えます。

ヴァスコ・ダ・ガマ 本店

カレー百名店WEST2019選出店

3.64

夜の金額: ¥1,000~¥1,999

昼の金額: ~¥999

第26代継体天皇の三嶋藍野陵は大阪府茨木市にありますが、大阪府高槻市にある今城塚古墳ではないかという説もあります。
ヴァスコ・ダ・ガマはその高槻市にあるカレー屋です。
店名の由来となったヴァスコ・ダ・ガマが長い航海を経て、インドへの道を開いたように、継体天皇もまた目的を達成するのに、長い時間を費やす必要がありました。

第26代継体天皇の三嶋藍野陵は多くの天皇陵からは離れた、今の大阪府茨木市にあります。
応神天皇の5代後の傍流の子孫、つまり応神天皇の来孫であったが彼が皇位を継ぐことは通常の皇位継承では考えられません。
何かがあったはずなのです。
その証拠に継体天皇は即位から19年もの間、奈良盆地に足を踏み入れることができなかったと言われてます。

第15代応神天皇の外征中心政策はヤマト王権の強化につながり、第21代雄略天皇期には他を圧する力を手にしていたと思われます。
ですが、雄略天皇の後を継いだ第24代清寧天皇の後は清寧天皇の祖父の兄弟・第17代履中天皇の孫が皇位につくなど、皇位継承の制度は定まっていなかったようです。
血による後継は常識ではなく、力による後継が度々あったのかもしれません。

古事記は継体天皇の先代、第25代武烈天皇の悪逆無道さを伝えますが、これも政権を取った継体天皇側が作った歴史の可能性が高いと言われます。
この手は政権奪取の正当性を証明するために何度も使われてきた手です。
何れにせよ、応神天皇以来、政権の中枢にいた血脈はここで絶えたのは事実のようです。
ですが、その血統は継体天皇の皇后・手白香皇女を通じて、その後の子孫、そして今生天皇に受け継がれていきます。

スイス菓子 ローヌ 本店

3.52

夜の金額: -

昼の金額: ~¥999

第38代天智天皇の山科陵は当時はまだ山奥でしかなかっただろう京都府京都市山科区にあります。
ですが、後に千年の都として栄えた山城の地に初めて築かれた天皇陵というのは天智天皇のイメージとピッタリ合うから不思議です。
その近くにあるスイス菓子の名店がこちらです。

第38代天智天皇は歴代天皇の中でも指折りの積極果敢な人物であったようです。
当時、国政は蘇我氏により壟断されつつありました。
蘇我氏は欽明天皇以来、天皇家と強力な姻戚関係を持ち、稲目・馬子といった優れた家長の下、ライバルの大伴氏、物部氏を滅ぼします。
ところが一強となった蘇我氏を継いだ蝦夷や入鹿は天皇の暗殺や聖徳太子の息子などの有力皇族の排除を進め、専横の限りを尽くします。
その蘇我氏を打倒したのが、天智天皇(中大兄皇子)でした。

世に言う「乙巳の変」で、蘇我宗家を排除した天智天皇(中大兄皇子)と中臣(藤原)鎌足は後世に「大化の改新」と言われる政治改革を断行したと言われます。
豪族の連合体であった日本をヤマト王権による中央集権体制(律令国家)に置き換えようという試みは数代にわたって受け継がれていきます。
ですので、律令国家・日本の誕生は天智天皇だけで成し遂げたものではありませんが、そのビジョンを描いたのは間違いなく天智天皇(中大兄皇子)でした。

こうした偉業を成す人間ですから、かなり強引な性格であったようです。
例えば、いとこで天皇であった孝徳天皇との対立では皇太子でありながら天皇の群臣を引き連れ、天皇のもとを去り、哀れ取り残された孝徳天皇は気を病んで崩御してしまいます。
強力なリーダーシップの裏返しではありますが、この果断な性格が後々の災いとなっていきます。

肉食堂 最後にカツ。

3.54

夜の金額: ¥1,000~¥1,999

昼の金額: ¥1,000~¥1,999

第39代弘文天皇長等山前陵は滋賀県大津市にあり、その近くに「肉食堂 最後にカツ」はあります。
古代最大の内乱となった壬申の乱に巻き込まれた弘文天皇は果たして「最後に勝つ」ことができたのでしょうか?

第39代弘文天皇の長等山前陵は近江国(現在の滋賀県)唯一の天皇陵です。
近江にある理由は大友皇子と言われていた弘文天皇の父・天智天皇にあります。
古代の朝鮮半島は日本と中華王朝に挟まれ、任那や百済といった親日派と新羅という中華派に分かれ、争っていましたが、親日派は劣勢で、ついに最後の牙城・百済も滅ぼされます。
中大兄皇子(天智天皇)は持ち前の果断さで群臣の反対を押し切り、半島へ出兵、後に言う「白村江の戦い」が起こります。

白村江の戦いに敗れた中大兄皇子は中華王朝の逆侵攻を恐れ、近江国の大津京に遷都するとともに、天智天皇として即位したと歴史は伝えます。
恐らくはそれよりも何かにつけて反対する群臣の影響が強い飛鳥の地を嫌ったのでしょう。
天智天皇の独断専行をもはや群臣も止められなくなっていました。
そんな時に彼は当時皇太子としていた同母弟の大海人皇子ではなく、息子の大友皇子を後継者に据えようとします。

大友皇子は有能と伝わりますが、問題は母親の身分が低いことでした。
この頃、天皇の生母は天皇有事の際は代わって即位することがありましたから、母親の身分は重要だったのです。
群臣は反対ですが、あの天智天皇には逆らえません。大友皇子は天智天皇崩御後、弘文天皇として即位したと伝わります。
ですが、あの天智天皇を憚り、沈黙を貫いていた大海人皇子と群臣もこの機を逃しませんでした。

大海人皇子は挙兵し、不破関を抑え、東国の軍勢を従えます。
弘文天皇は筑紫や吉備等、西国の有力豪族に出兵を命じますが、天智天皇の強引さに辟易していた彼らは理由をつけて兵を送りません。
壬申の乱と言われる日本古代最大の内乱は大海人皇子の勝利に終わりました。
弘文天皇は父の築いた大津京と共に歴史から姿を消し、近江の地には彼の陵が残りました。
写真の三井寺は彼の息子がその菩提を弔うために建立したと言われます。

コッコロ カフェ

3.44

夜の金額: ~¥999

昼の金額: ~¥999

第40代天武天皇と第41代持統天皇が共に眠る檜隈大内陵は奈良県高市郡明日香村にあります。
今となっては小さな盆地に広がる集落ですが、日本という国家の中核はまちがいなくここにあったのです。
そんなところでにあり朝食をとるに便利な店がこちらです。

壬申の乱の勝者・大海人皇子は第40代天武天皇として即位します。
負けた弘文天皇が即位したかどうかは諸説ありますが、何れにせよ、正統な後継者から力でもって皇位簒奪したことは前例がなく、参画した勝者の多くは自らの行為に恐怖したでしょう。
この行為を正当化できるのはかつての正統な皇位継承者で内乱の指導者であった天武天皇だけですから、天武天皇以外の勝者は彼に従わざるを得ませんでした。

こうして絶対的な権力を手にした天武天皇は、兄・天智天皇が描いた律令国家の建設に邁進します。
ちなみに「天皇」と言う称号を始めて用いたのは天武天皇であると言われています。
彼の覇業は兄である天智天皇の娘・鸕野讃良皇女との間に生まれた草壁皇子が継ぐはずでしたが、幼い息子を残して若くして亡くなります。
そこで草壁皇子の息子が成人するまでのつなぎとして、鸕野讃良皇女が即位します。
これが第41代持統天皇です。

同じく天皇位についた弟の弘文天皇は悲劇の最後を遂げましたが、持統天皇は父と夫の夢を実現しようと奔走します。
日本初の律令法である飛鳥浄御原令とこれまた日本初の条坊制を布いた都である藤原京は彼女の代に完成しました。
この二つの完成は古代日本の完成とも言える象徴的な出来事と言えます。
父と夫の夢を実現した持統天皇は予定通り、息子・草壁皇子の忘れ形見である軽皇子に譲位しました。

天武天皇と持統天皇、この夫婦の陵は飛鳥の同じ場所に作られています。
彼らはここから彼らの子孫たちと律令制の行く末を見守りますが、こんなにも早く律令制が「終わりの始まり」を迎えることになろうとは思ってもみなかったでしょう。
時代は動いていきます。

※本記事は、2019/10/26に作成されています。内容、金額、メニュー等が現在と異なる場合がありますので、訪問の際は必ず事前に電話等でご確認ください。

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