11/9(月) 6:00配信
スポーツ報知
1回2死、二塁打を放ち通算2000安打を達成した坂本は、客席に向かって記念ボードを掲げる(カメラ・中島 傑)
◆JERAセ・リーグ 巨人3―5ヤクルト(8日・東京ドーム)
巨人・坂本勇人内野手(31)が通算2000安打を達成した。ヤクルト戦の初回、左翼線二塁打で史上53人目の大台に到達。3回に19号2ラン、4回に内野安打で163度目の猛打賞も決めた。31歳10か月での到達は史上2番目の年少記録で、右打者では最年少だ。チームは本拠地最終戦を白星で飾れず。坂本はスポーツ報知に独占手記を寄せた。
【一覧表でさらに詳しく!】通算2000安打の年少達成5傑
本当にホッとした。朝起きてから食欲もなくて、打席で足が震えるくらい緊張していた。プロに入った時は2000本というのは正直、目標にもなかった。ヒット数のことは考えたことはなくて無我夢中にやってきた結果かな。本当にここまでいろいろな人に支えられてきた。感謝しています。
本当に本当に、この瞬間を母親【注】にも見せたかった。母もここまで僕がヒット打てるなんて思ってもいなかったと思う。1軍で1本もヒット打っている姿を見せられなかった。小学生のころから一番、応援してくれたのは母親。天国で今、喜んでくれているのかな。オフになったらお墓参りに行って「2000本打ったよ」と報告したい。
打撃は今でも難しい。成功より失敗の方が多いから。僕はどんなに苦しくても、なるべく球場内で解決させたいと思っている。球場から出たら野球のことからはなるべく離れよう、切り替えよう、と。けど家でもバットを握って振ってる時はあるよ。
たくさんの方に影響は受けて今の僕の打撃がある。元々、ヘッドが下がり気味で人と違う打ち方だった。直そうとも思った。けど光星学院高の金沢監督は「直さなくていい。それがお前の良さだから」と言ってくれた。「お前はボールのラインに合わせて打ちにいけ」と。ありがたかった。僕には「上からボールをたたけ」と言うことはなかった。あそこで、もし違う打ち方をしていたら、今の僕はなかった。
プロ入り後、僕の打撃を支えた忘れられない言葉がある。3割を打っている年。ちょっと調子を崩していた時に、初球を打って簡単にアウトになった打席があった。その後、阿部さんに呼ばれて「今のは初球を打つ場面じゃないだろ!」と言われて…。当時の僕は「いやいや。3割打ってるからいいじゃんか!」と心の中で思ってた。若かったのもあるし、野球の流れとか、何も分かっていなかった。ただ自分が「打ちたい。打ちたい」という思いだけだった。
レギュラーに定着して数年後、あの時の阿部さんの言葉の意味が自然と分かった。打撃は技術だけでは絶対にうまくいかない。流れや状況判断も大事なんだ。それを阿部さんが教えてくれた。あのメッセージがなければ、ここまで来られていない。ダメになっていたと思う。阿部さんが現役最後のほうは、何も言われることはなかった。そう思うと少しは成長できたのかな。これは今の若い選手にも伝えていきたいと思っている。
30歳を超えてから今までより体のことに気を使うようになった。家での過ごし方も本当に変わった。昔は家に帰ってお風呂に入って出たらゲームして映画見たり、と自分の時間にあてていたけど今はない。元木ヘッドにも驚かれたけど、実は体がけっこう柔らかくて。ストレッチは必ず試合が終わって家に帰っても行う。何年もずっと続けている。打撃も守備も柔軟性は大事。特に僕は体がショートの中では大きいと言われている。柔軟性が失われた時は動きもきつくなってくると思うから、意識している。
今でもヒット1本を打った瞬間は本当にうれしい。でも野球をしていて一番うれしい瞬間は自分が打ってチームが勝った時。2000本の次は、まずは2500本。でも2000本も1000本打った時から意識してたかと言われたら違う。1000本打った時もその後はもう次の試合、明日の試合のことだけを考えていた。その結果が今の数字にきたと思う。その日の試合で1本打ちたいとずっと思ってやってきている。この気持ちのまま、これからもやっていきます。(巨人軍内野手)
【注】入団1年目の07年6月19日、母・輝美さん(享年47)が病のため亡くなった。翌20日、イースタン戦の予定だったが出場を見合わせ急きょ、兵庫・伊丹市内の自宅へ向かい、悲しみの対面。21日の告別式では涙を流した。また輝美さんは亡くなる前、同年5月12日の同・日本ハム戦(姫路)を車いすで観戦。坂本は母の前で2号2ランを放ち、そのボールを贈った。