有馬（ありま）師傅（シェフ）　野豬肉（ゐのしゝ）羆（ひぐま）　果子狸（はくびしん）　いでその怪味（あぢ）を　忘（わす）れやはする : パッソ・ア・パッソ

食通（たべものにくはしきかた）より誘（さそ）ひありて、
有一日（あるひ）、
豫（かね）て狙（ねら）ひ定（さだ）めし『パッソ・ア・パッソ』に、、。
野味（のゝけだもの）に精通（いとくはし）き方（かた）を含（ふく）め三人（みたり）。

桌子（つくゑ）には亞麻布（あまぬの）ゝ桌布（テーブルクロス）がかゝり、
餐巾（ナプキン）は純白（ましろ）き亞麻布（リンネル）。
金屬洋食器（カトラリ）の類（たぐひ）は粗方（あらかた）"Cristofle"牌（じるし）。
俯（うつぶ）せに配置（お）く"法國式（おふらんすしき）"。

唐茶（さけ）は親方（おやかた）に任（まか）せて見繕（みつくろ）ひに、、。
前菜（アンティパスト）、汁（ズッパ）、粥（プリモ・ピアットとしてリゾット）、
鳥獸肉（セコンド・ピアット）、麪（パッパルデッレ）、菓子（ドルチェ）、
咖啡（エスプレッソ）、小燒菓子（プティ・フール）と云ふ流（なが）れ。

鳥獸肉（セコンド・ピアット）の後（あと）に、
"麪（こなもの）"たる"パッパルデッレ"が供（いだ）され、
半點（いさゝか）も、躊躇（たゆた）ひ、面食（めんく）らふことこともなく、
只顧（ひたすら）貪（むさぼ）り麪食（めんく）らふ。

"前菜（アンティパスト）"の皿（さら）には、
夥（あまた）野獸肉（けだものゝしゝ）が列（なら）ぶ。
"羆（ひぐま）"、"蝦夷鹿（えぞしか）"、"果子狸（はくびしん）"、"穴熊（あなぐま）"、
"鹿（しか）"、"月の輪熊（つきのわぐま）"、"雉肉（きぢ）"、、。

"テリーヌ"風（をおもはす）練物（ねりもの）ゝ類（たぐひ）が多（おほ）く、
原形（もとのかたち）を留（とゞ）むるは、鹿（しか）と雉（きぢ）のみ。
「本州鹿（ほんしうのしか）」とのよし。
"テリーヌ"とせし蝦夷鹿（えぞしか）は一同（みな）絶賛（おほいにほめたゝふ）。

"穴熊（あまぐま）"、"果子狸（はくびしん）"と云ふ珍味（ちんみ）に加（くは）へ、
「野味（のゝけだもの）の王（すめらみこと）」と呼（よ）ぶべき"熊（くま）"も、
練物（ねりもの）として提供（いだ）さる。
"前菜（アンティパスト）"故（ゆゑ）致（いた）し方（かた）のなきところ。

"ヴァーニャ・カウダ"の"つけ汁（じる）"を髣髴（おもは）す湯（ズッパ、しるもの）：
その正體（まことのすがた）は"野豬（ゐのしゝ）リボリータ"。
"リボリータ"とは「再（ふたゝ）び燉（に）こみたるもの」とのよし。
その湯（しる）を吟味（あぢは）ふに、"おでん"を髣髴（おもは）す風味（あぢかをり）。

次（つ）いで"プリモ・ピアット"に相當（あた）る"粥（リゾット）"。
米飯（こめのいひ）、虎鰒白子（とらふぐしらこ）、黑松露（くろトリュフ）、
と云ふ三層構造（みつがさね）。
これに、月の輪熊（つきのわぐま）の膏（あぶら）が加（くは）ゝる。

熊油（くまのあぶら）と白子（しらこ）による、
滑（なめ）らかこの上（うへ）もなき舌觸（したざは）りに陶然（ゑひしる）。
加旃（しかのみならず）、
松露（せうろ）の妖（あや）しき馨（かをり）に肝魂（きもたましひ）を失（うしな）ふ。

"鳥獸肉（セコンド・ピアット）"として、"烤山鶉（やまうづらあぶりやき）"。
倩（つらつら）その火入（ひい）れを窺（うかゞ）ふに、
今（いま）をときめく若手（わかて）のそれとは半點（いさゝか）異質（ことなる）。
骨（ほね）を鷲掴（わしづか）みにして荒々（あらあら）しく貪之（これをむさぼる）。

怪鼠（ばけねずみ）"海狸鼠（ヌートリア）"。
海狸鼠（ヌートリア）の"パッパルデッレ。
癖（くせ）も臭氣（くさみ）もなきは既知（すでにし）るところなれど、
此度（こだみ）の"海狸鼠（ヌートリア）"も前囘（まへ）に同（おな）じ。

"菓子（ドルチェ）"は"やよいひめ"なる草莓（いちご）の冰酪（ジェラート）。
「冰酪（ジェラート）にも熊油（くまラルド）」とのよし。
獸臭（けだものくさゝ）の類（たぐひ）は皆無（つまさきほどもなし）。
むしろ、草莓汁（いちごじる）の臭氣（にほひ）が勝（まさ）るほど。

最後（いやはて）の"小燒菓子（プティ・フール）"も胃腑（いぶくろ）に收（おさ）まり、
客（きやく）は吾儕（わなみ）三人（みたり）のみ。
有馬邦明（ありまくにあき）師傅（おやかた）、　
身振（みぶ）り手振（てぶ）りで熱辯（あつくかた）ること半時餘（はんときあまり）。

曰（いは）く、
「自（みづか）ら狩獵（かり）を行（おこな）はず、
"當店仕樣（こちらむけのあつらへ）"にて、狩人（かりうど）に一任（まかす）。」
「さすれば、所望品（のぞむしな）得（う）るも探嚢取物（いとたやすきこと）。」

また、挑（いど）みて曰（いは）く、
「初訪（いちげん）、再訪（うら）、三度目（なじみ）くらゐでは、
客（かく）の嗜好（このみ）も不明（わからず）、その氣（き）になることもなし。」
「吾（われ）をその氣（き）にさせてみよ！」

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