根津の路地裏でひっそり。 : 根津雙柿庵

武蔵五日市の蕎麦屋「雙柿庵」が1年ほど前、東京根津に移転した。
武蔵五日市の竹やぶに囲まれた佇まいはとてもよかった。しかしさすがにちょっと遠かった。
だから都内に移ってくれてありがたい、でも変わってほしくない、という複雑な思いだった。
どこに移転するかと思っていたら「根津」という。いい選択。この店にとても似合っている。
表通りから「え、ここか？」というような路地へ日の暮れ時に曲がっていくと、ぽっと行灯が地面に置いてある。
この風情がいい。

店はカウンター５席、４人テーブル一つ。抑えた照明、室内の装飾はミニマル、微かなＢＧＭ、大変落ち着く。
いつもカウンターで着物に割烹着がよく似合う女将さんとお話ししながらゆっくり食事する。
料理はご主人担当、夫婦二人でこじんまり営むお店です。
８，５００円（税別）のコース一本。主菜を予約時に鴨か蕎麦寿司から選ぶ。（１グループ内で別々のものは注文できない）

いつも通りエビスの小瓶から入る。
武蔵五日市の初期の頃はビールを置いていなくて（ついでにエアコンもなくて）、
夏場に行くときは途中の酒屋で缶ビールを買って飲みながら歩いて行った。今は両方ある。

コースは蕎麦掻きから始まる。女将さんの厨房への声かけでご主人が蕎麦掻きを練るカッカッカッという音が聞こえてくる。
ここの蕎麦掻きは秀逸だ。毎回産地が違う。今日は岩手産。蕎麦の香りの違い、舌触りの違いが毎回楽しめておもしろい。
蕎麦粉の個性の違いは蕎麦切りよりもはるかにくっきりわかる。塩をほんの少し付けながら、ビールと交互に食べる。
切るのと掻くのと、どっちが旨いだろうか、といつも思う。

その間にカウンターで女将さん手ずから経木に塗った味噌を焙ってくれている。
この日は薫り高い柚子味噌だった。日本酒に切り替える潮時だ。
日本酒は常時大七を数種、あとはその時々の稀少な蔵の酒が４種類くらいある。種類は多くないが、選択の趣味はとてもいい。
料理を引き立てる控えめな酒、華やかな吟醸酒、何を選んでも外れはないが、迷えば女将さんが適切にリコメンドしてくれる（相当な飲み手とお見受けする）。

見計らったように酒肴盛合せが２段の小さなお重で来る。
ほんの一口サイズの酒肴が十数種類入っている。
この料理をなんと言ったらよいだろうか。
コース的には前菜の盛合せ、なのだろうが、甘いもの、辛いもの、味の濃いもの、薄いもの、肉、魚、野菜、小さな器の中に星空のような宇宙が広がっている。
一つひとつが凛と主張しながら、全体としての完全な調和。
華美な食材が使われているわけではないが、素材が吟味され、気の遠くなるような手間ひまがかかっているのがわかる。

一口サイズをさらにちびちび齧りながら、日本酒を少しづつ含み、両者の出会いを舌の上で祝福する。
コーナーを丹念についてくる素晴しい変化球の連続、とでも言ったらいいだろうか。
この２段お重は「完璧な酒肴」という形容しか思い浮かばない。
飲まない方は「もったいない」、としか言いようがない。
難を言うと、店がほの暗いが故、せっかくの宝石箱がよく見えない。
カウンター上だけもうほんの少しだけ照度を上げてくださればよいと思うが。

次にかけの更科蕎麦がほんの三、四口ほど。
素麺よりも細い、糸のように細く切った蕎麦に薄口のやさしいつゆで口中が洗われる。
この日は鴨団子がしのばせてあった。

そしてメインの蕎麦寿司である。一転してストレートの豪速球が投げ込まれてくる。
最初は正直言って「コースのメインに蕎麦寿司か？」と思った。だが、普通に思い浮かぶ蕎麦寿司とはだいぶ異なる。
魚はこの日は金目鯛と鰆であった。分厚くてあぶらがのった魚は、素材自体惚れ惚れするほど素晴しいのだが、
それを僅かに〆て、ほんの少し焙ってある寸止め加減が絶妙で、蕎麦と一体となり口の中でほどけ、味蕾がバッと一斉に開花するような感覚に出会う。
ここの鴨（シャラン産）はかつて食べたことがあり、それはそれで美味だが、当分は蕎麦寿司でいきたい。
だが、二切れは残酷だなあ。せめて三切れ食べたい。

次いで出汁巻き玉子に行く。
甘さを抑え、出汁も強すぎない、シンプルなよい卵の味それ自体を前面に出した玉子焼き、これも直球ど真ん中ストレートだ。
それを純米酒のバットでとらえる。バックスクリーンにスカーンと球が飛んで行く。

〆の蕎麦は十割で、つゆは醤油が立った辛口、蕎麦湯はナチュラル系だ。
蕎麦は短めである。たぐる、というより箸でつまんでつゆに浸して食べる。これも酒肴の一種、と考えるべきか。
この日は、ある常連さんがいつも注文されるという湯盛りにしてみた。
これは蕎麦と蕎麦掻きとの中間的な食い物だ。
もり蕎麦をたぐるひんやりとした快感はないが、蕎麦の香りははるかに強くふくらむ。
急がないとどんどん湯に蕎麦が溶けていく。もちろん後で飲めばいいのだが。
蕎麦でなく蕎麦粉の料理だ、と思った。もりとどっちがいいだろうか。
無理に結論を出さなくてもいい。

さて、以上二人でビール小瓶１本、酒を５合ほど呑んでお勘定は税込２６，０００円ほどである。
安くはないが、１日に捌けるお客さんの数、素材、手間を考えれば、リーズナブルだと思う。
しかも敷居を下げる必要のない店だし。
お酒はビールと日本酒、あとは梅酒しかない。
再度申し上げるが、お酒を飲まない方、日本酒がお好きでない方にはこの店の価値は半減する。
よってお勧めしない。
また、ご主人は職人らしく寡黙だが、女将さんは愛らしくお茶目である。
愛らしくお茶目な女将はお好きでない、という方にもお勧めしない。