吾輩（わて）の肚（はら）　切裂（きりさ）き見（み）らば　鴨（かも）に蔥（ねぎ）　軟骨入（なんこつい）りの　この捏（つくね）かも : 三里

晝飧（ひるめし）は想定外（おもひもかけ）ぬ『やぶ久』。
何（なん）とも陳腐（ありきたり）な味（あぢ）と風韻（かをり）に、
疑問（くびかしげ）つゝ千駄木（せんだぎ）なる骨董商（ふるだうぐや）に嚮（むか）ふ。
此處（こゝ）で油（あぶら）を販（う）ること霎時（しばし）。

因（ちな）みに、根津（ねづ）・千駄木（せんだぎ）には、
俄頃（にはか）に名聲（な）を得（え）たる蕎麥店（そばや）少（すく）なからず。
小人（それがし）能識（よくしる）肆（みせ）もあり、
大名（な）のみ耳（みゝ）にするばかりの舖（ところ）もあり、、。

女主人（をんなあるじ）演述（い）ふやう：
「近傍（ちかく）の『三里』の鴨南蠻（かもなん）は秀逸（なかなかのもの）」
小人（それがし）應答（いらへ）て、
「僕（やつかれ）、鴨南蠻（かもなん）よりも鴨蒸籠（かもせいらう）を嗜（この）む」

たしかに、
骨董商（ふるだうぐや）より至近（すぐそば）に『三里』なる見世（みせ）。
勿愕（おどろくなかれ）、
店頭（みせさき）には「鴨蒸籠（かもせいらう）」の立招牌（かんばん）。

店内（なか）には東道（あるじ）一人（ひとり）。
注文（たのむ）と同時（ひとし）く、廚房（くりや）まで驀地（まつしぐら）。
桌子（つくゑ）の七味蕃椒（なゝいろたうがらし）を觀察（み）るに、
憂（う）しに發狂（いか）れて"善光寺（ぜんくわうじ）"參詣（まゐり）。

信州（しなの）ゝ職人（ひと）かと推察（おも）ひしかど、
生國（うまれ）は尾州（をはり）とのよし。
程（ほど）なくして運（はこ）ばれ來（きた）りし"鴨蒸籠（かもせいらう）"
蕎麥切（そばきり）は、均一（ひと）しく細（ほそ）く搖（ゆ）らぎなし。

蕎麥（楚者゛）の産地（うぶすな）は蝦夷（えぞ）。
粉（こ）の混合比（まぜあはせかた）は、
蕎麥粉（そばのこ）九（こゝのつ）に麪粉（うどんのこ）一（ひとつ）。
「師匠（おやかた）はなく、獨學（ひとりてならひ）」とのよし。

所謂（よにいふ）「挽（ひ）きぐるみ」、「星（ほし）」とは無縁（ゆかりなし）。
細（ほそ）めながらも腰（こし）があり、しかも、舌（した）に滑（なめ）らか。
温飩（うんどん）と異（こと）なり、
滑（なめ）らかなるを「好（よし）」とするかは、客（ひと）それぞれ。

茲（こゝ）で蕎麥汁（そばつゆ）を窺（うかゞ）ふに、
旨味（うまみ）の奧行（おくゆき）・廣（ひろ）がりが顯著（あらは）。
厚削（あつけづ）り混合節（こんがふゞし）に眞昆布（まこんぶ）とのこと。
東都（えど）の蕎麥店（そばや）は昆布（こんぶ）を避（さ）くるが風習（ならひ）。

昆布溏油（こんぶだし）は、雞（とり）が啼（な）く東國（あづま）では無勢（まれ）。
この邊（あた）り、獨學（ひとりてならひ）の利點（よきところ）歟（か）？
方（かた）や懐石（くわいせき）・割烹（かつぱう）では、
"こちら"のごとく昆布（こんぶ）不使用（つかは）ぬは稀有（まれ）。

蕎麥（そば）に昆布（こんぶ）を用（つか）ひ、
割烹（かつぱう）に昆布（こんぶ）を避（さ）くるは、
どちらも非常識（よこがみやぶり、つねならざること）。
因習（しがらみ）とも斷言（い）へ、精麁（あぢのよしあし）とは另（べつ）。

捏（つくね）には鴨肉（かもにく）に加（くは）へ軟骨（なんこつ）も、、。
火候（ひいれ）も適切（ほどよ）く、心持（こゝち）よき齒觝觸（はあたり）。
一噛（ひとか）みするや、
鮮（うまみ）、臼齒（おくば）から天窗（あたま）まで貫通（つらぬく）。

掉尾（いやはて）の蕎麥湯（そばゆ）を着目（み）るに、
薄（うす）きこと、老舖（しにせ）に異（こと）なるところなし。
愚按（やつがれおもふに）、
徒（いたづら）に濃厚（こ）き蕎麥湯（そばゆ）は邪道（よこしまなるみち）。

掃愁帚（さけ）と餚（さかな）もあり、
居酒屋（ゑざかや）遣（づか）ひにも適切（よい）。
蕎麥切求道派（そばきりをきはめんとするかたがた）に適合（むく）か否（いな）か、
小人（それがし）、不關知（あづかりしらぬこと）。

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