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パコ崎ミャ子
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店名 |
舟和 本店(ふなわ)
|
---|---|
ジャンル | 和菓子、甘味処、喫茶店 |
お問い合わせ |
03-3842-2781 |
予約可否 |
予約不可 |
住所 | |
交通手段 |
都営浅草線浅草駅下車 徒歩8分 浅草駅(つくばEXP)から294m |
営業時間 |
営業時間・定休日は変更となる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。 |
予算 |
¥1,000~¥1,999 ¥1,000~¥1,999 |
予算(口コミ集計) |
¥1,000~¥1,999
¥1,000~¥1,999
|
支払い方法 |
カード可 (VISA、Master、JCB、AMEX、Diners) 電子マネー可 QRコード決済可 |
個室 |
無 |
---|---|
貸切 |
不可 |
禁煙・喫煙 |
全席禁煙 |
駐車場 |
無 |
空間・設備 | 落ち着いた空間 |
利用シーン |
こんな時によく使われます。 |
---|---|
ロケーション | 一軒家レストラン |
サービス | テイクアウト |
お子様連れ |
子供可 |
ホームページ | |
公式アカウント | |
オープン日 |
1902年 |
お店のPR | |
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初投稿者 | |
最近の編集者 |
|
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「秋の味覚をお届けにきました♡」
と、
親友が 「舟和 様の 芋ようかん」を持って来た。
ゆっくりと、声を上げて笑ってしまった。
私も親友が遊びに来ると出先で知って、丁度、「舟和 様の 芋ようかん」を買って準備していたから♡
考えることは、付き合いが長いと似てくる物なのか、もともとの考えが似ているから付き合いが長くなるのか。
取り留めのない女の話に、お茶と「甘いお菓子」は付き物。合間に塩気が話にでも口にでも挟まれば、なお良し♡
そう言う意味では「舟和 様の 芋ようかん」は、イイとこ突いているお菓子と思う♡
しっとりとした質感は、丁寧な扱いを受けて作られて来たと感じる。
その滑らかな表面の反射に、扱うコチラも「ドコから切り取るか」を一瞬迷ってしまう。
一口と切り取るにしても、楊枝なりフォークの進みがミッチリとした重量と密度の濃さを伝えてくる。
切込み、口開けで見えだした中身に連なる瑞々しさが、またサツマイモの香り立つ甘さで微笑んでいる。
口に入れると、しっとりと冷たさが先にあり、その奥で甘さ美味しさが うたた寝をしている。
軽く舌でゆすり、歯先でトントンと、眠気まなこのサツマイモを起こす仕草をチョットだけすると、
むっくりと背伸びをするようなしぐさで、ゆっくりとゆっくりと甘い美味しさが立ち上がってくる。
サツマイモの美味しさは、ゆるやかな動きと余韻の長い甘い響きが魅力と、じんわりと感じる。
「舟和 様の 芋ようかん」をお茶請けにして話すと、内容が穏やかで平和な話題で終始進む。
心が和んで、お茶の泉立つ香りがなおのことくゆんで、心底からの温度の沸き立ちが心地よくなる♡
「はぁ~♡」
「はぁ~♡」
と、女二人、吐き出す息もピッタリ合うと、微笑み合い、また時を忘れて取り留めのない話を続ける♡
・・・。・・・。・・・。
ちょっとと言うか、かなり嫌味な話で、そもそもの人間性を疑われる話を・・・。したいから、してしまう。ははっ~♡
ネットの世界で検索できる「文献」などは、これまでの人類が書き記した物の一体どれくらいかを考えた時、ざっとだけど24800億分の1位の量でしか無いと思う。
それはね、基本、商業ベースにのった物か、流通にのった物か、はたまた印刷物になった物でしかないから。
これ、結構大事で博物館なり資料館にある文献で世に出ていない物などは、アホ程あったりする。
個人が発見したり見聞きして覚えたり、ネットに書き記す作業が機械化したとしても、手作業の部分が残っている限りそれは変わらない。
だから、「全ての物事」をネットごときの検索で済まそうと考えるのは、とっても「無価値」でしかない。
意味分かる?
例えば・・・、そうだな・・・、「羊羹」の話で、一つ進めようかな。ははっ~♡
「羊羹」は、なぜに羊の羹と書くのか?の話一つにしても、そもそもの考え方に「学者としての素養」だけだと、結局は分かったふうな雰囲気だけで満足してしまいがちになると言うこと。
その証拠としては、大抵、誰もが「理解」出来る様に噛み砕いで本質を理解して説明出来ないから。
聞いた人が、
「分かった」「理解した」
に、ならないから♡
まず、「羊羹」の言葉がちゃんと出てくるのは、鎌倉時代。
奈良、平安ときた後の鎌倉時代に、鎌倉新仏教の流れで新たに諸宗派が次々と開かれる。
その中でも、「禅宗」の栄西や道元などがそれぞれ思想や文化発展に影響を与えるほど、幕府から武士層や公家社会や一般庶民にまで広がりを見せる。
それは、「食文化」である生きる根源に、ちゃんと「禅宗」は意味を持たせていたから。
「禅宗」は、中国 宋 からの留学僧侶がもたらしたことになっているが、いち早く「蘭渓道隆」に代表される中国人僧侶を「知識や技術」ごと大量に呼び込んで連れてくることに重きがアル。
当然、人々が集まる寺院は「中国風」な文化が著しく著明になり、生活習慣や渡来品の実用化を積極的に多人数の人々に伝え出す。
「食文化」において「禅宗」が果たした役割はとても多く、「喫茶 (抹茶文化)」や「点心 (てんじん 軽食、おやつの習慣)」がある。
「点心 (てんじん と読む。 軽食、おやつの習慣)」は、それまで朝夕の二回の食事の間に食べる軽い食事、小さくて力が出る甘いモノ、温かく身体に熱を蓄えるモノなど、今でいう「点心 (てんしん)」のような軽く小さいモノのことを言う。
「異制庭訓往来 (1366~1372) に、水繊(すいせん)、温糟(うんぞう)、糟鶏(そうけい)、鼈羹(べつかん)、羊羹(ようかん)、驢腸羹(ろちようかん)、笋羊羹(しゅんようかん)、砂糖羊羹(さとうようかん)、饂飩(うどん)、饅頭(まんじゅう)、索麺(さくめん)、巻餅(けんぴん)、温餅(おんぴん) の点心の種類の名が書かれている。
これらの名は、室町後期に成立する「狂言」にも出てくる。
使いを出した主人が、出かけた家来の帰りが遅くなり、「なんぞ、買い食いをしていたのだろう?」と問い詰めるシーンがあり、「思うところ、饂飩、索麺、熱麦(あつむぎ) ぬる麦 あたりだろ?」と問い詰めるが外れる。
そこで、「それならば、『羹』の類だろう?」と言い、砂糖羊羹、おんぜん羹、もんぜん羹、魚羹の玉癇(ぎょかん)、猪羹の勅勘(ちょかん)の名を連ねて話を進める。
「羹」は、スープで甘いモノから塩気のあるものまで、種類があった汁物とされている。
まれに、「羹」を「煮こごり」とか「ゼリー」とか書いてあるものがあるが、まさに「学者論文」で、ちょっとでも料理をして想像力があれば、「煮こごり」とか「ゼリー」とは「冷やす」とか「冷える」なんかの状態があって出来るモノと気が付ける。
当時であれば「冬」や「寒い時」の食べ物。ゼラチンとか無い時代は、冬期、寒冷地の食べ物。日常的ではない。
それに、煮こごりを作るための大量の魚や肉を本当に当時の庶民が塩ゆでにして、「にこごり」を作るだろうか?
想像力が足りない気がする。
「煮こごり」を入れる「小籠包」とかってどんなにさかのぼっても「1850年」以上は無理だから。
それと、最も古く確認出来る中国の「羹」と言う字は、紀元前の「史記」で、一字で「羊のスープ」を表す。
字をよく見れば理解出来ると思う。
「羹に懲りて膾を吹く」を知っていたら、最初から「羹」の「煮こごり」とか「ゼリー」で火傷などしないと思うけど。
火傷もしてないのに、フーフーと吹いて冷ますって・・・。アホ過ぎる♡
さて、日本に持ち込まれた「羹」は、それらを考慮すると、それぞれの具材に「スープをかけた」モノか、「スープに入れた」モノと考えられる・・・と、言うか、そういうもの。中国に行くと、普通の一般人が立ち寄るお店に、「羹」をスープとしてメニューに書いてあったりする。
なんで、汁物、スープが、今の形の「羊羹」になっていったか?
伝わった当初は、「羊羹」も汁物でありスープであった。
「禅宗」は、今では動物や魚など獣肉を食べないのですが、開宗当初や中国では、今とは違い「食べる物を選り好み」出来る時代でもなかった。現代には無いとされる「禅源諸詮集」(ぜんげんしょせんしゅう)も、別にあるとこには・・・。
その中にも「信者からの供養」に対する考え方も書かれていたりして、「何であれ肉であれ魚であれ供養は受けないといけない」の思想があったりした。
「羊羹」が、汁物として、伝わった当時の日本で再現すると、まず「羊」を手に入れる必要がある。ははっ~♡
当然な話と思でしょうが・・・これは、かなり「無理」がアル話なんですね。実は。
日本に、「羊」は居なかったのです。はい♡
歴史的に確認していくと、「魏志倭人伝」には「羊」はいなかったと書かれていたり、推古天皇7年(599年)に、推古天皇に対し百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)各1頭、白雉1羽、そして「羊が2頭」献上されたと「日本書記」に出てくるが、本格的に庶民が「羊」の存在を知るのは、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に「牧羊場」が開設されるまで待たないといけない。
ちょっとヒントになるのかな?
「羹」の字と意味に引っ張られ過ぎなんですね。実は。
「羊羹」自体が、「当て字」だったとしたら?
実は、「羊肝」と本当は言いたかったけど、当時に「羊羹」と記されてしまったとしたら? そんな意味だったりしたら?
ははっ~♡
「肝吸い」と言う、ウナギ、鰻丼についてくる、独特の吸い物、スープってありますよね?
歴史的にもともと「羹」がどんなモノだったかを詰めていくと、「肝吸い」になっていきます。はい。
「肝」は、古代中国からの歴史と文字をたどると、「魂の宿る部分」で内臓全体を意味していたりします。
時代により「心臓」優位になったり「肝臓」優位になったりしますが、「大事な部分」には変わりはないのです。
「羹」は、もともと神事や地位あるものが捧げたり、食べたりする特別な食べ物です。
「心臓」や「肝臓など」の内臓の部分を「お供えする」形が・・・実は「羹」の始まりです。
そうなると、「羹」は、突き詰めると、ごった煮のスープではなく、「意味の持った、内臓、肝のスープ」のことだと理解できると思います。
では、ここまでをまとめると、
鎌倉時代に中国から「羊羹」が伝わった。
それは、そのまんま「羊」の「汁物、スープ」だった。
しかし、日本には「羊」は居なかった。
「羹」は、具沢山ではなく、厳選した「内臓の食べられる部分」が具として入っていた。
当時も「点心」は、大量に食べる物ではなく、食事の「つなぎ」としての食べ物だった。
「おやつ」レベルの食べ物で、サイズ感も意味合いもちょっと「想像できる」気がしませんか?
手軽で、小ぶりで栄養価が高く、味に「甘い」か「しょっぱい」かのパンチがあるもの。
歴史的検証で学者が「羹」を「肉を入れたスープ」と説明しているのが、実は間違いの始まり。
「羹」は「内臓のスープ」のことなんですよね♡ 実は。
なぜなら「汁」と言う字が「イロイロと入れたスープ」の意味で、当時から「羹」と同列で使われているから♡
「羹」は「内臓のスープ」。
「汁」は、「イロイロと混ぜたスープ」のことなんです。はい。
では、「羹」が「内臓のスープ」であり、「羊羹」が「羊の内臓のスープ」となると・・・、どうなるか?
「羊羹」は、「羊の 心臓 ないし 肝臓 のスープ。「羊の肝吸い」となるのです♡
羊の「心臓」なり「肝臓」が手に入らない当時の日本で作るとなると、「模して作る」しか無いです。
いわゆる禅宗の「見立て料理」「もどき料理」は、「結果論」でしかないのです。
時代がさがり、「羹」も「汁物」も同じ話になっていき、いつしか「羹」が消えていきますが、「内臓料理」自体が時代と共に溶けてしまい、ごった煮の一部になり、それだけで「汁物」にする意味合いや「宗教的理由」が変節し消えていくことになります。
さて、ここから、「汁物の羊羹」が如何にして「羊羹」となるかです。
禅宗の僧侶が、寺で「小豆」「大豆」「米」「小麦」などを粉にして練りあげて「羊や猪や魚」の「肉に見立てて」作り上げて蒸しあげ、汁をかけるか汁に入れていて食べていた・・・と、「羊羹の始まり」などで見聞きすると思いますが・・・。
問題点が分かりますか?
はい、「肉に見立てて」の部分です♡
汁に入れる時の、「肉」って、どんな形でしょう?
普通は、切り身や団子とかと思いませんか?
羊の切り身と猪の切り身、煮炊きして区別つきます?
団子にして、魚が肉か区別尽きますか?
ここでも「学者論文」で、意味不明なんですよね・・・。
「知る」か「知った気になる」の分かれ目なんですよね。実は。
当時、禅宗で作った「見立て料理」「もどき料理」の「羹」の各種には、しっかりとした「食べ方」に決まりがありました。
「奥書 食物服用之考 地入」(1442)には、
「鼈羹(べつかん)は、あし、手、尾、くびをのこし、こうよりくふ也。 猪羹はくびよりくふ也。 竹葉羹はしんは(新葉?)をのこして かれ葉をれ葉よりくふ也。 鶏卵羹はふとき方よりくふ也。 海老羹はひげを残してくふ也。 」
と。
これって、粘土細工のように、その肉の形では無くて、そのもの、「羊」なり「猪」なり「葉っぱ」なりの形を作って食べていたことが分かります。おやつのクッキーを遊んでイロイロな形に作る感覚ですよね~♡
「肉の切り身や団子」を模したわけではなく、当初は、それらのそのモノの形態を模していた。
お盆の「キュウリの馬」とか「ナスの牛」みたいに。
で、じゃ、「羊羹」は、言うと「羊肝」で「羊の肝」を模して作られたもの。
「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)(1712年)江戸時代中期に編纂された事典には、「羊肝餅」が本字として「羊羹」が出てくる。
「羊肝餅」の部分で「餅」が、中国では「餅」は小麦の製品で、日本の「餅」は米のと言うのが通説で、そうなると、「羊肝餅」は小麦の製品になると言う論調もあるが、それは間違い。
「羊羹」が伝わり「もどき料理」とした時代も、「和漢三才図会」が書かれた時代も、日本では「餅」は「餅」の意味で使われている。少なくても8世紀には日本では今と同じ意味で「餅」は「餅」の意味でちゃんと使われている。
「和漢三才図会」は日本で日本人が日本人に意味が通じるように書かれていて、「当時の中国の呼び名と意味」と「日本での呼び名 和名と意味」を併記して書かれている。
つまり「羊羹」は、「羊肝」であり、「羊の 肝 (肝とした、心臓や肝臓) で作った 餅 の形態に 見立てたモノ」となる。
なぜに、「羊羹」と言い出したかは、当時、日本には「羊」は居なかったため、「模する動物」を基本的に一般には知られていなかった。ゆえに、その幻の生き物の「肝」を使った物として広まり、後に、「羹」の字と合わさった。
「羊羹」だけが、実は伝わった当時の「点心」の中の「羹」に最初は入っていなかった。
「羊肝餅」と言う、小豆を練り上げて「蒸し」た食べ物であった。
普通は、「小豆を練るモノ」としてイメージすると、「餡子」「あんこ」が思いつくと思う。
「餡子」の発祥をドコにするかは、本当はちょっと神話伝説の類にも入るが、「小倉餡」の由来が「809年頃」に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を、現在の京都市右京区嵯峨小倉山近辺で和三郎という菓子職人が栽培し、砂糖を加え煮つめて「餡」を作り御所に献上したのが発祥とされる。
その他にも「餡」「餡粉」「餡来」「餡子」のいわれは探せばイロイロとあるが、「羊羹」が伝わる前にはすでに、「小豆を練り上げて甘くしたモノ」が既に在った。
その「餡子」を「蒸し」あげたら、何になる?
結論にそろそろ入るが、
「禅宗」が「羊羹」を持ち込んだと先に話したが、一般的な啓蒙のために、「禅宗」の寺院を訪れる人々やお布施をくれる人達に、ちょっしたお返しをしていた。
また、当時、飢餓や飢饉で人が集まる場でもあった。
当然、「食べ物」を求めてくる人達に対して、「小豆の粉」を練り上げた食べ物も配った。
それの名が、「羊肝餅」として出てくる。
今でも「羊羹」の色や感触を感じると、「肝」に伝わる気持ち、「元気を分けたい」とかの「祈り」が「羊肝餅」の名前に込められた当時を想像出来ると思う。
当時、日本には居なかった「羊と言う、珍しい動物の肝で作った餅」とした。
そして、「羊肝餅」が、時代と共に、「禅宗」の「羹」の中で空席となっていた「羊羹」の響きと混同されていく。
言葉遊びと言うか、洒落の意味もあったかも知れない。
ただ、当初から「羊肝餅」「羊羹」は、「羹」では無かった。汁物スープでもなく、完全に「餡子」からの伝わりである。
味付けが「甘い」のは、もともと「餡子」からの発祥もあるが、当初は、餡子にも「しょっぱい」味のモノもあったようだ。
鎌倉時代の点心の中に、「羊羹」とともに「砂糖羊羹」の文字があるが、「砂糖羊羹」は日本で生まれたようだ。
これはらの始まりは、「調理の技」の上で「甘味が足りない時に塩を入れる」や「甘味の量が足りない時に、あえて塩味を強めにする」などの行き着く先に出来たモノのようだ。
ただ、時代の流れの上で、「羊羹」は「甘いモノ」として統一されていった。美味しいからね♡
「羊羹」の文字で、「甘いモノ」と完全に認識されるのは意外と伝わってから直ぐで、戦国時代にはすでに甘い食べ物となっていた。
「松屋会記」(1542)の茶席の菓子の名前に「羊羹」はすでにある。
また、慶長8年(1603)に日本イエズス会により刊行されたポルトガル語と日本語辞書「日葡辞書」の中に、
「Satoyocan サタゥヤゥカン 砂糖羊羹 豆と砂糖とで作る、甘い板菓子。羊羹の一種」
「Yocan ヨゥカン 羊羹 豆に荒糖をまぜて、こねたもので作った食物」
と、書かれているがどちらも甘い味わいなのは同じなようだ。
「禅宗」で「羊羹」は始まり、信者を増やすことで一般的に広まることになる。
小豆の粉と甘味、蒸すことで仕上げる食べ物は、手軽さと日持ちする満足感に一般に直ぐに受け入れられた。
珍しい動物の貴重な「肝」入りとする「羊肝」と、「羊の羹」と使われていなかった「羊羹」の言葉が重なった。
見た目もそれっぼくて、受け入れられていった。
・・・種をあかすと・・・、ある年代に日本に入って来た食べ物は、ほぼ「禅宗」の僧侶たちが書き残したモノに多々出てくる。「羊羹」などをはじめ、通説がネットに要領を得ない話でたくさん載っている。簡単に調べられるモノに「重要な話」が書かれていると思うのだろうか?「学者論文」程度の話を鵜呑みにして、人生に潤いが出たのだろうか?
「知識」の世界は、如何にして「謙虚で居られるか」が、その「肝」であり芯である。
「知らない」ことは恥ではない。
「説明出来ない程度を知っていると思い込む」ことが恥なのだ。
上には、ずーっと上が居る。世界は広くて、「知」に終わりなど無い~♡
・・・。・・・。・・・。