ボタンを付け変えたコートで、気分も変えて~♡ : 青野総本舗

青野総本舗

(あおのそうほんぽ)
予算:
定休日
日曜日

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4.5

¥3,000~¥3,9991人
  • 料理・味4.5
  • サービス4.5
  • 雰囲気4.5
  • CP4.5
  • 酒・ドリンク4.5
2018/02訪問1回目

4.5

  • 料理・味4.5
  • サービス4.5
  • 雰囲気4.5
  • CP4.5
  • 酒・ドリンク4.5
¥3,000~¥3,9991人

ボタンを付け変えたコートで、気分も変えて~♡

実家で、女どもが総出でお雛様を飾り、月の替わりをワクワクして待つ。

「そろそろ、『牡丹餅』が出るわね。青野総本舗に予約しなくちゃね」

それとはなしに言った母の言葉だったが、干菓子、甘酒を飛び越えて、
心は、青野総本舗様の『牡丹餅』を思う。

指先だけ見えていた春が、やっと顔を見せてくれる~♡。


・・・。・・・。・・・。


昭和30年(1955) 頃。


朝食の片づけも終いになり、少し一服でもするかと思っていた。

「おい! 連絡が来て、仕掛けた罠に型のほど良いイノシシがかかったそうだ」
「はい。準備します」

ここで、届けられるイノシシを待とうと返事をしたのだが、一緒に鍋の準備をして来いと言う。

慌てて用意をする。

子供のようにと、言っちゃなんだが「食い物」のことになると喜々となるこの「先生」と呼ばれる老人のドコを味わえば良いかは、一年ばかりたって何となく分かってきた。
しかし、人の評価はアテにはならず、自分の目で見聞きしたモノにはかなわないと、実感する日々だ。

山麓へと揺られる車の中で、隣に座る老人はアレコレと待ち切れないイノシシのことを話し出す。

どれも、これも面白いし、額面通りの受け取りをせずに、先を読みながら聴くと、ハッと気づくことが往々にあり、自分の視点の曖昧さに今更ながらに恥ずかしくなる。

「先生」と呼ばれる老人の身の丈は六尺に届かんばかり。貫目は二十五貫はあるだろう。
眼鏡の奥は、鋭くは見えるが射貫くほどではなく、顔の中心に根をはった鼻は横へと強く踏ん張っている。
唇は厚くぼってりとしてはいるが、ゆるみなく締まっている。

包丁人でもあり、店を切り盛りする父親が「先生」と慕う、この老人。

中学を卒業後、実家の料理屋を手伝うべく包丁の修業も7年となったころ。
父親が「少し日本料理にも幅を持たせた新しい店を出したい」と言い出した。
鼻っ柱の強さから店の先輩と上手くいっていなかった、井の中の蛙になりつつある俺に、
「ちょとばかし、外でも見回してこい」
と、この「先生」と呼ばれる老人の住む鎌倉に奉公に出された。

父親の店で、鎌倉での奉公話が出た時、周りの大人、特に酸いも甘いも嚙み分ける旦那達が
「おやめなさい」
と声をそろえて言い出した。
それが、逆に折られたことない鼻っ柱の強さが自慢の坊ちゃん育ちに、少し火を着けた。
「みんなが、鬼だ悪だ怖がるのなら、俺が正体を見定めてやる」
そう、思った。

奉公初日、
「この魚のアラを使って、一品こさえて見ろ」
と言われ、掃除が驚くほど行き届いた広く綺麗な台所で、
「まぁ、普通は吸い物、汁物、アラ炊きに、煮物位なモノか」
一人思案にくれたが、しかし、初日に当たり前ではその後の座りも悪いと思い直し、自分自身が、ちんまいアラの骨が気になることもあり、さっと茹でた後、骨を刻み、大きい身はこそげるだけこそぎ骨をとり、残った骨でたっぷりと出汁をとった。
こそいで集めた身は、乾煎りしスリゴマと紫蘇、刻んだ梅干しとあえた。
骨でとった出汁の一つで飯を炊き、少しコゲを付け、刻んだ生姜をまぶした。
残った出汁には、昆布を右から左へと通して味を合わせ、醤油を数滴。
具は大ぶりの骨を色良く炙り、そのまま入れ、三つ葉を結んで添えたら直ぐに蓋をした。

一汁一菜の盆だが、
「まぁ、年寄りにはこんな物だろう」
怖いもなんにもなく、その「先生」と呼ばれる老人の前へと、女中さんに持って行ってもらった。

ほどなくして、女中さんが俺を呼びに来た。
「先生の前に行ったら、何を言われても『はい』とだけ言いなさい。決して口答えは駄目ですよ」
と言う。
まあ、「はい」と言えと言われれば、別のことを言いたくなるのが若気の何とかなもので。
それでも、おっかなびっくり
「お呼びでしょうか」
襖を開けて、顔を出してみる。

「梅はくどい。汁は良い。くずでも栗でも、よかろうが、焼き骨の香りが立たぬか。オヤジの舌を見て来たか。ワハハ」

怒られてはいないとは分かったが、二十歳を過ぎたばかりの小僧にそんなことを言われても、何と返事をしていいかは分からなかった。笑うでもなく困るでもなく、ただ神妙にしていたら、少し間を置いて、
「ごくろう。下がっていいぞ」
普通に言われ、頭だけを下げて後にした。

女中さんに
「前の料理人は、怒鳴られて三日と持たずに辞めて行った。お前は見込みがあるよ」
驚いた顔で言われた。
「先生」と呼ばれる老人が、孫ほども年の離れた小僧にどんな顔で怒鳴るのか、見てみたい気もしたが、
「そうですか」
その時は静かに、女中さんに言った。気取ったわけではなく、こちらの「味」にのせた想いが全部伝わっていたと、なぜか安堵し、のぼせたように、身体が少し軽くなったのを急に感じていたから。

最初から、世間で言われるほどの嫌味など、どこにもなかった。
ただ、料理を挟んで会話できる楽しさを初めて知った。そんな始まりだった。

「先生」の一日は静かなものだった。
時折の来客も礼を欠く者もおらず、三度の「食」にだけ集中すれば、料理屋勤めよりよっぽど気楽だった。
「先生」は外出しない時は、庭先にある釜で陶器を職人達と焼くとか、室内で書や絵を書く。
部屋に閉じこもって過ごすことも、まどろむ時間と共に「すっ」と音もなく進んでしまう日もあった。


こちらの奉公と言う修行は、「食い物」「料理」にまつわるもの。「今日は何を食べたい」とか「ドコドコで何を買ってこい」とか言われて動くだけでは、一月も経たずに手持ち無沙汰になってしまった。
そもそも、周りがくどいほどこちらに吹き込んだ、怖いとか怯える意味を「先生」からは感じない。
皆が何を怖がっているのか、よく分からず、たまにお茶を運ぶ女中を制して、代わりに盆を運ぶ。
部屋に入り、加減が良さそうななら、普通に「先生」に話しかける。

「先生、今のこの時期、ネギなどが旬ですが晩に鍋など、どうでしょうか?」

そんなことを言うと、襖の陰からのぞき込む女中が、背中に虫でも入ったのかぴょんと背筋が伸びて飛び上がらんばかりに驚くが、「先生」は、書き物などの手を止めて、こちらを向き、

「『旬』は料理をすると過ぎてしまう。料理して食べるなら『走り』か『なごり』だ。料理をして『旬』にしてあげるのだ」

そんなことを言って、ニコニコ細い目をさらに細くして笑う。その目は孫を見るそのまま目で、慈愛しか感じられなかった。
こちらから声をかけて、嫌な顔や怒鳴られたことなど一度もなかった。よくよく考えてみると、普通の会話で突然激高する人などいない。むしろ、母屋に「先生」と女中と料理人の三人しかいないのなら、三人で話をしない方がおかしいと思い、こちらから何やかんやと積極的に話を持ち掛けた。

たまに、「何を買ってこい」ではなく「先生」自ら、運動不足解消か外の空気が吸いたいのか、
「明日は、葉物野菜と魚でも見に行くか」
市場を見にと、一緒に買い出しに行くこともあった。

そんな時は、孫に知りえることの全てを教えるように、目に付いた物をお題にして優しく教えてくれた。
ほうれん草の根の美味しさ、鯛の塩梅のよい大きさ、赤身と脂身の美味さ。
「先生」の思う所の美味さの視点は学ぶ所が多く、聴きだすと真剣になり口数が少なくなってしまう。
すると、きまって

「まぁ、結局は野菜の良し悪し、魚の良し悪しなど、食べて見ないと誰も分からないのだが」

と孫の顔色をうかがうように、心配そうな笑い顔をして、こちらの顔をまなこをのぞき込む。

「じゃ、何をして良し悪しとするのですか?」

口を開いて声を出すと、「先生」は、安堵したように、

「それはな・・・」
話を続けてくれる。


「先生」の作る「すき焼き」は、上等な牛肉が手に入ると、具材は少なく、ネギか葉物野菜。それに豆腐くらいで始める。
割りしたではなく、醤油と酒と少量の味醂を振りかけるように使う。あくまでも上等な牛肉を味わう食べ方で、全てにあててはまる話では無い。焼き方とか味つけが大事ではなく、調理の手段としてごく少量の具材で、主たる肉を楽しむ方法を語っていた。上等な牛肉を楽しもうと思ったら、素人でも煮込みにはしないものだろう。
ごった煮のような「すき焼き」は、少しばかり日の経った牛肉やイノシシや豚など煮込んだ方が美味しい物で楽しむ。煮込んで美味しいモノは沢山ある。仮に旬を過ぎてしまった物や、疲れてしまった物でも美味しく食べれる調理の工夫で「先生」もそんな時は、溶き卵で存分に楽しんでいた。


「何をして味の良し悪しとするのか?」

その答えは、明確な言葉ではなかったが、
「その時、この立場によって、味などは変わるもの。朝から晩まで野良仕事をした者と、日がな一日寝ていた者が、同じ味の濃さや分量を求めるわけでもない。「味」を語るのは、その時の自分を語るもの。批判的意見は、腹に一物を抱えた悲しみを吐き出しだろうし、好意を添えた称える言葉なら、時に恵まれているのだろ。私の言う、良し悪し、美味い不味いは、気持ちの話をしている。喜んでもらいたいと食べる人を考えて作られたものは、どんなものでも美味しい。顔が見えないからと何も考えず作られたものは、ただ不味い。それだけの話だ」


走り続ける車は、時折、積み込んだ調理器具を「カチャリ」と鳴らす。道は、進む。

「イノシシは、美味い型が歴然としている。昔、まるで牛みたいなイノシシを見た目の立派さから喜んで食べたが、よく素人がひっかかる過ちだった。食べると硬くて硬くて、肉の質が荒くて、ゴリゴリしている。咬んでも咬んでも臭いはするが味はせずに、本当に不味い。大失敗だった。それ以来、何でも規格外の大きなものには手を出さぬことにしている」

「大きさに魅了されて、手はよく伸びるてしまいますね」

うんうん、とうなずき、「先生」は、こちらの返事を待って、続きを進める。

「その真実なることを経験的に学んだあとは、実践あるのみ。今の味覚から言っても、イノシシの肉を賞味する時は生後一年の仔のイノシシが上等。もしくは二、三十貫の脂肉に富むイノシシが美味い。この野生のイノシシは脂の乗る冬が美味い。また大雪の積もる雪国に産するものが良い。欲を言えば、仔イノシシで比較的脂の乗ったものが最も理想的である。仔イノシシは一般に分厚な脂肉は少ないが、大きさで言えば、十五貫目ぐらいの奴がよろしい」

「やはり、鍋でしょうか」

「そうだな。イノシシの肉を煮て食うには三州味噌がよい。脂っこいものであるから、味噌を入れると口あたりが良い。意外と渋味も少しあるから酒を入れる。「イノシシ大根」ということが昔から言われているが、その通りで、大根は肉の味に非常によく合う。その点は豚も同じで、大根そのものもなかなか美味く食える」

「それは、美味そうですね」

「うんうん。私の子ども時代には、ネギや何かゴチャゴチャ入れて煮ていたが、醤油のほかに、やはり、味噌を用いていた。馬肉なども味噌を用いるが、馬の場合は味噌でも入れなければ食えないのがあったが、イノシシに味噌を用いるのは、少しそれとは意味を異にするようだ」

「と、言いますと?」

「イノシシもそうだが、肉はそれほど短時間では、旨味の元の出汁は出ない。かと言って、缶詰のようにほろほろと煮てしまっては、芳香な野性味が良さの肉の面目は無くなる。元来、イノシシの肉もそれほど出汁の出るものではなく、補助味の役がなくてはならない。そのための味噌になる。よく、肉の味で一緒に煮炊きした野菜を食う話があるが、だとするなら、余程、脂の回った肉を用意しないといけない。しかし、それでは味以前に脂で早急に箸が止まってしまう。味噌に野菜は程々にし、肉を存分に味合わないとは、イノシシなどは勿体ないものだ」

「先生」は、上機嫌で話し続ける。話は、自身が「美味しさ」に芽生えた話にと、とつとつと進む。

「イノシシの美味さを初めて味わい知ったのは、私が十歳ぐらいの時のこと。当時、私は京都に住んでいたが、京都堀川の中立売に代々野獣を商っている店があって、私はその店へよくイノシシの肉を買いにやらされた。私の家は貧乏であったから、イノシシの肉を買うと言っても、ごくわずかな買い方をしていた。まあ五銭ぐらい持って買いに行くのが常。もっとも、当時は牛肉ならば霜降りロースが三銭位で買えた時代だから、五銭出すというのは、イノシシの肉だけに奮発したわけだ」

「豪勢ですね」
合いの手に、うんうんと、うなずきながら、

「だが、それにしてもイノシシの肉をわずか五銭ばかり買いに行くというのは、言うほど豪勢な話ではないのだよ。ただ肉を食いたいというだけなら、その金で牛肉でも、鳥でももっと買えるのだからな。しかし、私の養父母は、どうやらイノシシの特別な美味しさを知っていたのだろう。美食とは言えないが、「味が分かる」の片鱗位は合ったのかもしれない」

「そうかも、知れませんね。イノシシの美味さを知る者は言わず言う者は知らずですか」

「はははっ。お前も言うようになったな。はははっ。今にして思うのだが、年端も行かぬ子供時代から、食いものだけには異常な関心を持っていた私は、このイノシシの肉の使いとなると、非常に心が勇み立ったのを憶えている。ピカピカ光る五銭玉を握って肉屋の店先へ立ち、猪の肉を切ってくれる親爺の手許をじっと見つめながら、今日はどこの肉をくれるだろう、腿ったまのところかな、それとも腹のほうかな。五銭ばかり買うのだから、どうせ上等のところはくれまいなどと、ひがみ心まで起こしながら、いろいろ不安げな目で見ていただろう」

「子供は、正直に態度に出てこその子供ですから。気になるでしょう」

「そうしたある日のことだ。いつものように店先に立って見ていると、親爺が二寸角ぐらいの棒状の肉を取り出して来て、それを一分ぐらいの厚さに切り出した。みるみる四角い糸巻型に肉が切られて行く。その四角のうち半分ぐらい、すなわち、上部一寸ぐらいが真白な脂身で、実にみごとな肉であった。子供であっても、見た時にこれは美味いに違いないと心が躍った。脂身が厚く、しっかりしている。今考えてみれば、おそらく肩の肉、肩ロースであったと思う。
親爺はそれを十と少し包んでくれた。子供子心にも非常に貴重なもののようにそれを抱えて、大事に抱えて帰った」

「美味そうですね」

「うんうん。帰ると、家の者も、そのイノシシの肉の美しさを見て非常に喜んでいた。早速、味噌で煮て食ってみると、果せるかな、飛び切り美味い。肉の美しさを見た時の気持の動きも手伝ったことだろうと思うが、食道楽七十年を回顧して、後にも先にも、イノシシの肉をこれほど美味いと思って食ったことはない。私は未だにそれを忘れない。私が食物の美味さということを初めて自覚したのは、実にこの時であった」

車中での「先生」と呼ばれる老人は上機嫌だ。
自分の原点である、「美味しさ」を持つイノシシの肉に会いに行くのに、興奮を隠せないようだ。

とても、嬉しそうだ。

道は、進む。


・・・。・・・。・・・。


「先生」と呼ばれる老人にも、美味しさに目覚めた瞬間はあったはず。

話すのなら、そこから始めななければ、いけない。
途中だけ切り取っても、何も見えない。

「先生」と呼ばれる老人は、あくまでも芸術家であって、文筆家でも弁論家でもなかった。
作品の中に想いを込めあらわす、芸術家だった。

時に、「どうしようもない」例えとして、話した「料理屋の料理と書家の書」の話には、本当は続きがある。

「料理屋の料理と書家の書と、坊主の経と政治家の涙、それと学者の話は、どうしようもないが、味わい読み唱えて感じて聞かなければ、人として成り立たない。そして心にとどまったものが、身に成り、ためになる。それは、何を言ったとして誰にとっても、どうしようもないことだ」

人として抗うことが出来ない「どうしようもない」の例えが、いつの間にか本当に「どうしようもない」話になっている。

「先生」と呼ばれる老人は批判、否定されることに反論する媒体は持たなかった。

「先生」と呼ばれる老人を悪く言う人達をよく見てみると、分かる。
反撃を受けない所、安全な所でしか論を展開していない。
もしくは、「先生」と呼ばれる老人の死後でしか何も言えない人達・・・。


・・・。・・・。・・・。


女性の美しさを称える言葉、
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」
牡丹と芍薬は同じボタン属。花色や咲き方は、そっくり。
「座れば牡丹」は、昔の牡丹は草丈が低く、葉を座布団にして座っているように見えたことにちなんでいる。

皿を座布団にし、その上に花びらのように並べられて「牡丹」と言われるイノシシの肉。

春を待つ気持ちもあるのだろう。


・・・。・・・。・・・。


てっ、言うか、私、何やってる・・・。
原稿の催促・・・締め切り迫っているのに。
ちよっと、30分だけ息抜きに「食べログ」アップのモノでも書こうかと・・・。
30分でこんだけ書き散らして・・・、逆に怖い・・・。

しかし・・・、金に換える原稿・・・3日で4行しか書いてないとは・・・。
あと2日で、30枚書けんのか? ははっ。

「ちょっと、ネタの使い方・・・ボタンのかけ違いで、違うトコに使ってしまって・・・ははっ」

とは、担当様に言えないな・・・。

マジ、笑うしかネーぜ! Baby!


・・・。・・・。・・・。

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店舗基本情報

店名
青野総本舗(あおのそうほんぽ)
ジャンル 和菓子
予約・
お問い合わせ

03-3404-0020

予約可否

予約可

住所

東京都港区六本木3-15-21

交通手段

都営大江戸線、東京メトロ日比谷線六本木駅より徒歩5分。

六本木駅から370m

営業時間
  • 月・火・水・木・金

    • 09:30 - 18:00
  • 土・祝日

    • 09:30 - 17:00
    • 定休日

営業時間・定休日は変更となる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。

予算(口コミ集計)
~¥999 ~¥999

利用金額分布を見る

支払い方法

カード不可

電子マネー可

(交通系電子マネー(Suicaなど))

席・設備

席数

(イートイン用の大テーブル1つあり)

個室

貸切

不可

禁煙・喫煙

全席禁煙

駐車場

空間・設備

落ち着いた空間

特徴・関連情報

利用シーン

サービス

テイクアウト

ホームページ

https://www.azabu-aono.com/

公式アカウント
オープン日

1887年

備考

創業安政3年。
明治20年現在地に移転。

初投稿者

FrancescaFrancesca(202)

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