たまの禊 : 玉笑

頃年、生きている時間を重ねるだけで時の流れが早くなっていくように感ずる。

まるで老爺の様な物言いだが、実際にそうなのだから致し方ない。

ニュースを見れば、新手の高速回線やコミュニケーション手段が開発され、我々の情報伝達速度を変えていく云々という話が語られぬ日がない程に上梓されている。

自分の時間も、自分の外の速度も際限無く上がり続けているのだ。
そのように私が感ずるのも不思議ではないように思う。

こうした何もかも急げ急げという急勝な奴輩のために、ゆったりとした時間の中でこそ創られる、本当に価値のあるものや、人を思いやる心がこの世の中から失われつつあることが哀しい。

それに抗うかの様に、ぼんやりと好きな街や処を歩き、気になった店があれば入り、そこで飯や酒をしたためつつ頭に浮かんでは消える雑事と山々話をしながらゆっくりと時を過ごす時間は、何物にも代え難いほど尊く、私意に反して普段は早回しで動いている自分のゼンマイを巻き直す、謂わば禊のようなものだと考えている。

等と取るに足らぬ事に思いを巡らせつつ、明治通りからキャットストリートを渋谷方面へ歩き、DESCENTE TOKYOのある交差点を左手へ折れ、緩い坂を行く。

坂の中腹を更に左に折れれば、幽玄な街灯に照らされた穏田神社がぼんやりと見えて来る。

社へ軽く一礼し、右手に進んだすぐの階上を見上げると久方振りの『玉笑』の暖簾が出迎えてくれた。

予約した名を告げると、客席左手奥隅のカウンターへ通される。

先ずは生ビールで舌を湿らせつつ、焼き味噌とタイミングを合わせてくれるよう頼んだ上で、気に入りの菊姫を頂く事にした。

菊姫は濾過せずに拵えた香りの強い石川県の純米酒で、高木樹系の果実を感じさせる澄み切った味わいが特徴。

また、純米酒ならではの穀物を噛みしめる様な旨味も孕む。

配膳された菊姫は、変わらぬとろみのある黄色みを帯びた液体が美しく、滔々と注いだ猪口からちびりと含めば、透明感のある甘味と女性的な嫋やかさを想起させる味わいが薫香と共に広がる。

此れを焼き味噌を舐めながら頂く事は至福としか形容出来ない。

焼き味噌も、西京味噌をベースに蕎麦の実、刻み葱、車海老の殻を炙って砕いたものを少量の酒、味醂とで和えてあり、表面のサクサクという口当たりの焦げ目と味噌の甘み、塩加減、そして適度に熱を帯びた葱の香りと相まって絶妙。

此れが米由来の純米酒に合わぬ道理があろうか。
味噌と米の豊穣な出会いをこれ以上無く味わう。

焼き味噌が心許無くなる頃を見計らい、卵焼きが供された。

供されただけで立ち昇る出汁の香りが食欲を唆る。
上方風の卵焼きでありながら、しっかりとした、それでいて洗練された上品な鳥獣の香りを燻らせてくるのだ。
口福としか形容できぬ風味と底の深い旨味が、卸しと醤油を掛けることで更に倍加し、淡雪のような口当たりと共に溶け消えてゆく。

日本人たる遺伝子が旨いと言っている。
円い。実に旨い。
くっと後を引くような香りが堪らず、箸を進める手が止まらぬ。

大根卸しが醤油を程好く吸って、薄っすらと褐色に染まる程度の掛け具合が私には丁度良い。

卵焼きと卸しがふんわりと同時に溶けていくように計算された食感の妙も見事で、思わず「旨いな・・・」という言葉が口を突いて出てしまう。

言葉尻を濡らす様に猪口を舐める。
その口福の反復を暫く繰り返しているうちに待ち兼ねた『おろし蕎麦』がやってきた。

先ずは何もつけず手繰り込むと、花浅葱色を想起させる胸の空くような香りがスッと立ち上がり、挽きぐるみの醍醐味である蕎麦殻を含んだ快い口当たりと風味とが口内を満たす。

以前と変わる事なく、細面の素朴な見目とは裏腹に、それ自体に野太い趣と奥深い滋味とを併せ持った唯一無二の逸品である。
此れの頂に辛味大根の卸しを小指の先ほど乗せ、蕎麦の尾端だけをつゆを潜らせて頂く。
挽きぐるみの蕎麦の香りに上質な鰹の香り高い出汁と返しの味わい、鼻に抜ける華やかな辛味大根の風味とが渾然一体となり、思わず店名にも冠されている笑みを浮かべてしまう。

ここに旨い酒を流し込むのだ。
今度は含み笑いが漏れそうになる。

つゆは竹やぶの流れを汲んでおり、鰹の出汁が強めに取ってあるものの、返しは淡白で江戸前本来のそれと比べると味わいはあっさりと柔らか。
出汁は香りの強度の割に脂味、雑味が少ない事から、雌節の割合をやや多めにし、後味の開放感やコク、余韻に軸足を置いた造りとなっている。

食べ終えたつゆに丁度良くやって来た蕎麦湯を適量加え啜り込むと、より一層ふくよかな香りが楽しめる。

竹やぶ系でも此方の蕎麦湯の粘度は低く、所謂ニューウェーブ系の蕎麦屋に有りがちな重湯のようなそれでは無い。

旨い蕎麦を手繰り、ちびりちびりと旨い酒を飲りながら、ぼんやりと思いを巡らせると心がゆるゆると解れ穏やかになってゆく事をありありと感じる。

会計を済ませ、良い気分で外へ出、街灯に浮かび上がる隠田神社を見遣る。
思い返せば、此処に来たのはもう4年も前の話になってしまっていた。

近くに来た時はまた寄りますよ、と
御祭神・淤母陀琉神に心で告げながら、まだ此方へは一度も参詣した事のない不信心者である事も思い出し、最後は苦笑いでその場を後にした。