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店名 |
行楽庵(こうらくあん)
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受賞・選出歴 |
2024年Bronze受賞店
The Tabelog Award 2024 Bronze 受賞店
2023年Bronze受賞店
The Tabelog Award 2023 Bronze 受賞店
2022年Bronze受賞店
The Tabelog Award 2022 Bronze 受賞店
2021年Bronze受賞店
The Tabelog Award 2021 Bronze 受賞店
2020年Bronze受賞店
The Tabelog Award 2020 Bronze 受賞店
2019年Bronze受賞店
The Tabelog Award 2019 Bronze 受賞店
2018年Bronze受賞店
The Tabelog Award 2018 Bronze 受賞店
日本料理 百名店 2023 選出店
食べログ 日本料理 WEST 百名店 2023 選出店
日本料理 百名店 2021 選出店
食べログ 日本料理 WEST 百名店 2021 選出店 |
ジャンル | 日本料理 |
予約・ お問い合わせ |
077-545-6335 |
予約可否 |
予約可 ※予約は2名様から承ります |
住所 | |
交通手段 |
クルマもしくはTAXIで、徒歩は厳しい 粟津駅から1,459m |
営業時間 |
|
予算 |
¥15,000~¥19,999 ¥5,000~¥5,999 |
予算(口コミ集計) |
¥20,000~¥29,999
¥6,000~¥7,999
|
支払い方法 |
カード不可 電子マネー不可 |
席数 |
27席 |
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個室 |
有 (8人可) |
貸切 |
不可 |
禁煙・喫煙 |
全席禁煙 |
駐車場 |
有 店舗を右折し、民家一軒間においた駐車場に三台分あり |
空間・設備 | 落ち着いた空間、座敷あり |
ドリンク | 日本酒あり、焼酎あり |
---|---|
料理 | 魚料理にこだわる |
利用シーン |
こんな時によく使われます。 |
---|---|
ロケーション | 景色がきれい |
初投稿者 |
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滋賀県立美術館で「志村ふくみと滋賀の工芸」展と併せて小倉遊亀(1895-2002)の「首夏(1928)」を
見た後に、シャワーをあび「行楽庵」へ向かう。
5月の湖畔のすずしい風を浴びながら ぷら~りぷら~り 2人で遊歩道を歩く。
ぼんやりと近江大橋の向こうに比叡山が見える。
湖畔をはしる湖岸道路559号線の脇に建っているマンションの1階にお店がある。
南には琵琶湖から瀬田川へと流れ近江八景の「勢多(瀬田)夕照 」で有名な瀬田の唐橋がかかっている。
広重の「近江八景」が有名で、飛鳥時代から琵琶湖を渡り京都へ向かう唯一の橋でいつも戦乱にあい
何度も焼かれている。古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われている場所だ。
ガラスの格子戸を開けると土間に飛び石のエントランスがあり店内へとつづく。
週末の夕方だったが連休明けだからだろうか他に客はいない。
女将さんがそそくさと現れ笑顔で迎えてくれ、真ん中のテーブル席につく。
和紙に書かれたお品書きに従ってお料理がはじまる。
八寸・・・うつくしい。
日本酒は、近江の造り酒屋のものだそうだ。
小さな蔵なので全国販売はしていないめずらしいものだそうで、数種類を飲んでから一種類にきめ最後まで
その日本酒をいただく。おいしい日本酒でした、・・・残念がら銘柄を失念。。。
(たべはじめると、いろんなことを忘れてしまう)
撮り忘れはたびたび、3枚目などは料理をいただいてから写真を忘れたのに気づき空の大鉢を撮影(笑)
それを見た連れがふしぎそうな顔で「何してんの?」と、理由が分かると声を出してけらけらと笑った。
お椀はすばらしくおいしかったし、普段はあまり牛肉はたべないのだが近江牛のすき焼きでさんしょ
の葉をたくさんのせていただくものは、食べた直後に5月のさんしょの若葉の香りが鼻孔をすぅーと通る。
本日いただいた料理の全体に感じたのは、口の中で素材や出汁の味がふくらみその後を追って香りが
広がる。この感じに思わず顔がゆるんでしまう。
「ここのお料理、香りつかいがいいよね」と連れがうなずいている。
会席料理をいただいて、桜田さん以来だろうか ・・・
こんなに気に入ったのは。
器も女将さんの対応も感じの良いもの。
食後にトイレへ行く途中調理場の中が見え、ご主人の姿を目にしました。
料理長をなさっていたことがうなずける雰囲気の良い立派な体格の方で、挨拶をすると深々と
頭を下げていただき恐縮してしまいました。
大津のイメージは学生時代の彼女の住んでいたところで京都から見ると山の向こうの町と思って
いました。今回、白州正子さんの古寺を訪ねてあることもあり簡単にネットで調べてみましたが
驚くことが多く、琵琶湖のイメージが変わりました。
ご主人の増田さんは、京都からも近く、このお店から見る湖南の風景がすきでお店をだされたのでしょうか?
いつか訊いてみたいと思っています。
(注)写真は料理のすべてではありません。たびたび撮影を忘れて飲んでいます(笑)
それに写真が変なのは酔っぱらっているからではなく・・・”へた”が理由です。
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□表題:「湖南の風景と近江の日本酒、そしてうつくしい料理と」
味 4.5
サービス 4
雰囲気 3.5
ー 下記は 「Wikipedia」 より抜粋 ー
□近江国
古代には、都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあわうみ、単に淡海とも。古事記では「淡海の湖」
(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。近淡海に対し、都から遠い淡水の海として浜名湖が遠淡海
(とおつあわうみ)と呼ばれ、それぞれが「近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)」と遠江国
(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の語源になった。
(中略)
測量技術が発達し湖の形が琵琶に似ていることが判った江戸時代中期以降、琵琶湖という名称が定着した。
□瀬田の唐橋(せたのからはし)
幾多の戦禍で破壊と再建が繰り返された日本三名橋のひとつ。 琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に
かかる瀬田の唐橋は、近江八景の一つ「瀬田の夕照(せきしょう)」として有名な橋で、古くは
日本書紀にも登場するほどです。 瀬田の唐橋は、東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事・交通
の要衝でもあったため、「唐橋を制する者は天下を制す」とまでいわれ、7世紀の後半の「壬申の乱」、
13世紀の「承久の乱」、14世紀の「建武の戦い」など、幾多の戦乱の舞台になり、そのたびに破壊・再建
を繰り返してきました。
本来、橋はもう少し上流にありましたが、天正3(1575)年、織田信長が現在の位置に新しい橋を建設し、
以来、今の場所になりました。
*【急がば回れの語源・由来】
急がば回れの語源は、宗長(室町時代の連歌師)の歌「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の
長橋」である。「もののふ」とは武士、「やばせの舟」とは矢橋の渡しを意味する。「矢橋の渡し」とは、
東海道五十三次草津宿(滋賀県草津市矢橋港)~大津宿(大津市石場港)を結んだ湖上水運で、「瀬田の
長橋」とは、日本三大名橋のひとつ「瀬田の唐橋」である。
当時、京都へ向かうには、矢橋から琵琶湖を横断する海路の方が瀬田の唐橋経由の陸路よりも近くて速い
のだが、比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により危険な航路だったため、このような歌が
歌われた。
ー 下記は「古い町並みを歩く」HPより ー
□大津
大津の歴史は古く奈良・平安時代から東海道・北国街道・琵琶湖水運の重要な港だった。特に北陸や
出羽など日本海側の諸国から奈良京や平安京に送られる物資は敦賀や若狭の小浜で陸揚げされ、山越え
して湖北の海津や塩津から琵琶湖水運で大津港まで運ばれ、奈良や京都に陸送された。
また、豊臣秀吉により大津百艘船が組織され、独占的な水運により更に大津に繁栄がもたらされた。
この琵琶湖水運は、西廻り航路が開発され、北前船が定着する江戸時代中期までは盛況を極め、大津の
港は大いに潤った。
関ヶ原の戦いの前哨戦だった大津籠城戦で大津城や大津の町は全て焼けてしまったが、城は膳所に移さ
れ大津は城下町から商業都市として生きることになった。東海道の整備で大津の地子(土地の税金)が
免除されるなどして、住民の帰還が図られ、宿場町として重要な役目を担うことになった。
(中略)
湖岸に沿う浜通りには幕府・諸大名・旗本の蔵屋敷が立ち並び、米問屋を中心に酒・油・薪炭・魚貝の
問屋街ができていた。中町通りには日用品の、京町通り(東海道)には近郊農村相手の商店街、札の辻
から南の逢坂の関に向かう八町筋には本陣2軒や脇本陣1軒、200軒近い旅籠が軒を並べていた。
大津宿内町並は東西16町余・南北一里余で、宿機能の中心地の札の辻から北国街道(西近江路)が
分岐していた。
繁栄を誇った大津町も西廻り航路が定着してからは、湖上水運が後退し経済的な地位は低下していった。
東海道大津宿では、大津絵や算盤が名産として売られ、大津町衆の富力を示すものに、大津祭り
(四宮祭り)がある。京都祇園祭りと同じように山車14基が豪華絢爛な飾り付けで巡行するもので、
明暦2年(1656)にはほぼ現在の形になったと言われている。
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(H23.05.18)