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逍遥遊
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tenkin (50代後半・男性・東京都) 認証済
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1回
昼の点数：4.0
2017/05 訪問
ある家族の歴史
戦前から戦後しばらくの間、私の父は青山で暮らしており、地元の学校に通い、渋谷を遊び場にしていた。私は3歳の時に父の転勤で札幌に行き、小学生時代を彼の地で過ごした。その札幌で父が事あるごとに私に話したのが、ムルギーのカレーの美味さである。曰く、玉ねぎが徹底的に炒めてあり、黒っぽい外見で、サラサラしているのだが、比べるものがないほど美味いのだという。その当時、子供が食べるカレーといえば、リンゴとハチミツとろーり溶けてる、玉ねぎやジャガイモがゴロゴロ入る、カレールーで作った、もったりしたものだ。父は時々母に無理を言って、ムルギー風と称し、玉ねぎを焦げるほど炒めたカレーを作らせていた。それはそれで美味しかったとは思うが、ムルギーのカレーに対し、少年の妄想は膨らむばかりだ。 その後、東京に戻ったが、中学生を連れて繁華街で外食するような家庭環境でなかったため、ムルギーのカレーを初めて食べたのは、渋谷にある高校に通い始め、母が弁当を作れない日に昼食代を持たせてくれるようになってからだ。 高校の購買でパンなど買わず放課後まで我慢し、道玄坂を急ぎ足で上がるとムルギーはあった。父が通った時代からは既に30年近い年月が経っていたであろうにも係わらず。百軒店という、高校生が立ち寄るには少々いかがわしい雰囲気を漂わす、円山町の入り口に。古びているが洒落た趣のある建物で、壊れかけたようなドアを軋ませて、勇気を振り絞って入店し、父の語る伝説にようやく巡り会った。 やせ細ったマスター。厨房にはおばちゃんが一人。お冷とスプーンを持って近づいて来たマスターは言った。「ムルギー卵入りで？」。ところがどっこい、私はゆで卵が食べられないのだ。また、メニューを見ると、多少なりとも卵なしの方が安い。またも勇気を振り絞って「卵なしで」と注文する。マスターは厨房のおばちゃんに「ムルギー」と注文を通す。高校の3年間でそこそこの常連になったつもりであったが、この「卵入りで？」「卵なしで」というやり取りは、マスターが引退するまで続いたと思う。柔らかめに炊いたご飯を三角の山に盛って、今では特に珍しくもないサラサラで真っ黒で辛いカレー。ちょっとだけついているマンゴーチャツネ。想像とうりかどうかは覚えていないが、やっぱり美味かった。 マスターがいた当時、ムルギーは今ほど繁盛してはいなかった。出来にも波があった。定休日近くになると、いきなり肉が多くなった。多分、沈んでいたんだろう。それでも通い続けた。やはり父からムルギーを愛好するDNAを受け継いでいるのだ。 マスターが引退し、マスターの娘さんか親族かが店を継いでくれた。厨房のおばちゃんはしばらくそのままだったが、そのうちおばちゃんも引退した。それでもムルギーは続いている。同じ場所で、同じ建物で、同じ味で。父が学生のころから続いているのなら、もう60年以上続いてるっていうことか。私自身も既に30年以上食べ続けている。 これがムルギーなのだ。美味いとか美味くないとか、食べ物なんだから重要とは思う。しかし既に、その域を超越し、渋谷の、道玄坂の、百軒店の、文化財であり、伝説なのだ。
2017/07/17 更新
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戦前から戦後しばらくの間、私の父は青山で暮らしており、地元の学校に通い、渋谷を遊び場にしていた。私は3歳の時に父の転勤で札幌に行き、小学生時代を彼の地で過ごした。その札幌で父が事あるごとに私に話したのが、ムルギーのカレーの美味さである。曰く、玉ねぎが徹底的に炒めてあり、黒っぽい外見で、サラサラしているのだが、比べるものがないほど美味いのだという。その当時、子供が食べるカレーといえば、リンゴとハチミツとろーり溶けてる、玉ねぎやジャガイモがゴロゴロ入る、カレールーで作った、もったりしたものだ。父は時々母に無理を言って、ムルギー風と称し、玉ねぎを焦げるほど炒めたカレーを作らせていた。それはそれで美味しかったとは思うが、ムルギーのカレーに対し、少年の妄想は膨らむばかりだ。
その後、東京に戻ったが、中学生を連れて繁華街で外食するような家庭環境でなかったため、ムルギーのカレーを初めて食べたのは、渋谷にある高校に通い始め、母が弁当を作れない日に昼食代を持たせてくれるようになってからだ。
高校の購買でパンなど買わず放課後まで我慢し、道玄坂を急ぎ足で上がるとムルギーはあった。父が通った時代からは既に30年近い年月が経っていたであろうにも係わらず。百軒店という、高校生が立ち寄るには少々いかがわしい雰囲気を漂わす、円山町の入り口に。古びているが洒落た趣のある建物で、壊れかけたようなドアを軋ませて、勇気を振り絞って入店し、父の語る伝説にようやく巡り会った。
やせ細ったマスター。厨房にはおばちゃんが一人。お冷とスプーンを持って近づいて来たマスターは言った。「ムルギー卵入りで？」。ところがどっこい、私はゆで卵が食べられないのだ。また、メニューを見ると、多少なりとも卵なしの方が安い。またも勇気を振り絞って「卵なしで」と注文する。マスターは厨房のおばちゃんに「ムルギー」と注文を通す。高校の3年間でそこそこの常連になったつもりであったが、この「卵入りで？」「卵なしで」というやり取りは、マスターが引退するまで続いたと思う。柔らかめに炊いたご飯を三角の山に盛って、今では特に珍しくもないサラサラで真っ黒で辛いカレー。ちょっとだけついているマンゴーチャツネ。想像とうりかどうかは覚えていないが、やっぱり美味かった。
マスターがいた当時、ムルギーは今ほど繁盛してはいなかった。出来にも波があった。定休日近くになると、いきなり肉が多くなった。多分、沈んでいたんだろう。それでも通い続けた。やはり父からムルギーを愛好するDNAを受け継いでいるのだ。
マスターが引退し、マスターの娘さんか親族かが店を継いでくれた。厨房のおばちゃんはしばらくそのままだったが、そのうちおばちゃんも引退した。それでもムルギーは続いている。同じ場所で、同じ建物で、同じ味で。父が学生のころから続いているのなら、もう60年以上続いてるっていうことか。私自身も既に30年以上食べ続けている。
これがムルギーなのだ。美味いとか美味くないとか、食べ物なんだから重要とは思う。しかし既に、その域を超越し、渋谷の、道玄坂の、百軒店の、文化財であり、伝説なのだ。