『下関ふくと伊藤博文』下関ふく一代さんの日記

食文化的生活の方法

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 初代内閣総理大臣の伊藤博文については、下関ふくに纏わる有名な逸話があります。
 伊藤博文って誰?という方はさすがにいらっしゃらないと思いますが、昔の千円札の肖像に採用された人物というと、却ってわからない方もいらっしゃるでしょうね ( ^∀^ )。

 その伊藤博文がぶらりと下関の料亭旅館「春帆楼」を訪問した折の話です。その日は、生憎の時化で魚が手に入りませんでした。そこで一計を案じた春帆楼の女将はお手打ち覚悟で、当時は禁制であったフグ料理を伊藤博文に差し出しました。

 そのフグ料理を食べ、美味しさに感動した伊藤博文は、
「美味い!こんな美味い魚は初めて食べた。女将、これは何という魚だ?」と問いました。

 女将はおそるおそる「は、はい・・・実はご禁制のフグでございます」と答えました。

「何と?これがフグか!こんな美味い魚が食べられないというのは如何にも不都合だ。よし!調理さえ心がければ、危険はないのだから食用を禁ずることはない」

 といって、直ちに山口県令(現在でいうと山口県知事に相当します)にフグ食解禁を指示したそうです。

 こうして、その舞台となった春帆楼はフグ料理公許第1号店となり、山口県下でのフグ食が解禁されました、というお話です。

 国内最大のフグ消費地である大阪でも、フグ食が公に認められたのは第二次世界大戦後のことですから、このフグ食解禁は、フグ食が下関の特徴的なヴァナキュラー文化として全国的に認知されていく端緒となりました。

 幕末の下関は、交通の要衝として、大阪以西では最も栄えていた町の一つで、大きな花街を擁していました。高杉晋作も頻繁に出入りしており、常に高杉晋作に付き従っていた伊藤博文もそこでフグ料理は何度も経験済みだったはずです。

 また、フグ食解禁の舞台となった春帆楼ですが、日清講和談判の会場となったことでも有名です。この春帆楼ですが、ルーツを辿ると中津藩士(現在の大分県中津市)で医師の藤野玄洋という人物が始めた病院です。藤野玄洋は、伊藤博文がフグ食を解禁した時には、既に亡くなっていましたが、伊藤博文にフグを差し出した女将というのは、藤野玄洋の配偶者だった藤野ミチという方です。

 藤野玄洋は、高杉晋作が創設した奇兵隊の隊医をしていた経歴の持ち主ですので、伊藤博文とも旧知の間柄であったと考えられます。

 これらの事情を勘案すると、この有名な逸話からは、旧友の未亡人が経営する料亭旅館の経営を慮るとともに郷里山口県の発展を願う、伊藤博文の細やかな心配りが感じられます。

(登場人物の敬称は省略していますのでご容赦ください。)
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