『一杯の追憶・第二話』genkozさんの日記

暮らしている町を大切に

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genkoz (50代後半・男性・愛知県) 認証済

日記詳細

 僕は、生まれてから高校3年までの18年間を、東北地方の田舎町で過ごした。自宅の隣の家1軒隔てた先から、1本の川を経て遥か山際までずっと水田が続く、典型的な農村である。
 家族と共に過ごした年月の中で、特に食事に於いて楽しいと思った記憶は、ほぼ無い。取りたてて嫌な事が無く済んだというのが相対的に良かった事であり、今思い返しても "楽しいことは無かった" という感想しかない。
 その理由のほとんどは、僕が食べるのが遅く、その為、父親にしょっちゅう怒られていた事にある。
 食べるのが遅くなる原因は、当時、僕自身も明確には気付いていなかったし、親にしても、単に僕がボケっとしているせいだと思っていただろう。結局、自分がなぜ食べるのが遅いのかという事について、具体的な原因に気付いたのは、現在から見てそれほど昔の事ではない。
 まず、先に自覚したのは、知覚過敏である。
 当時はこの事を、親も含めて他人に話した事は無かったが、リンゴやトマト、長ネギなどをまともに噛むのが辛かった。辛かったというより、出来なかったと言う方が正確である。
 トマトのヘタに近い黄緑色の部分に歯が入る様や、ミカンやレモンなどの粒々が弾ける様など、想像するだけで身震いがしたし、長ネギは火が通って柔らかくなっていても、まともに噛むのは苦痛であった。それらをどうやって飲み込める状態にするかといえば、表面部分を浅く噛めるだけ噛んだら、後は口内の天井に舌で押し付けて、懸命に潰すしかないのである。
 もっと酷いのは、歯磨きの後などで口をゆすぐ際、気泡が口内に当たる感触が気持ち悪いので、水を口に含むときには出来るだけ口をすぼめて空気が入らないようにしていたものである。
 これらの内のいくつかは、年月が経つと共に少しづつ克服出来たが、ほとんどは現在に至ってもまだ、消しようの無い嫌悪感が付きまとっている。
 そしてもう一つが、口の中に複数の食べ物を一緒に入れられないという事であった。つまり、一つのものを口に入れたら、それを嚙み砕いて完全に飲み込むまで、次の食べ物を口に入れられないという事であり、その結果、当然食べるのが遅くなるのである。
 自分自身では決してのんびり食べているつもりは無く、厳しい父親が怒り出さないうちにさっさと食べ終えてしまいたいのに、知覚過敏によって口に入れたものが上手く噛めず、その為に次のものがなかなか口に入れられない。終いには、急ごうとすればするほど緊張により唾液が出なくなり、口の中が乾いて余計食べるのが遅くなるという悪循環。
 しかも、自分が食べるのが遅いという事は言われて理解はしていても、その原因が自分の性質にあることなど、当時は全く分からず、それを直す手立ても思いつかなかった。
 この為、小さい頃の家族との食事の記憶は、僕にとってかなりの部分、苦痛と嫌悪感で塗り潰されているのである。
 しかしある日、そんな僕の閉塞的な状況に一筋の光が差し込んで来た。
 その日の食卓に出されたのは、出前で取ったうな丼。この、鰻の蒲焼きがご飯の上に乗せられた食べ物が、僕にとっては正に救世主だったのである。
 それは、ご飯とおかずを一緒に口の中に入れる事、一緒に噛んで味わう事の心地良さを僕に教えてくれた。その結果、僕はその時の食事に於いて見事に父親より早く食べ終えて驚かせたばかりではなく、それ以降の食事に於いても、僕の食べるスピードは他人のそれと比べて特に遅くはなくなったのである。
 このうな丼の記憶が、幼い頃の家族との食事に於いて、僕が楽しいと感じた数少ないものの中の一つであり、恐らく一番のものである。

 そんな時期に読んでいた漫画雑誌に、かなりの長期間、ラーメンをテーマにした漫画が連載されていて、僕にとってはそれが食に対して興味を持つ端緒になった気がする。その漫画は、ラーメンのスープや具材の作り方、麺打ちの工程などをかなりつぶさに描いていて、それによって僕はラーメンという食べ物を知ったと言っても過言ではない。
 しかしその反面、この漫画によって、ラーメンとはこういう物という固定観念を植え付けられる結果ともなってしまった。
 例えば、その漫画ではスープの出汁を、鶏ガラと野菜を煮込んで取っていたので、後に豚骨ラーメンというものを知った時、スープの出汁を豚骨から取るのは、九州地方の特定のラーメンだけだと思ってしまったのである。
 しかし、その漫画が僕にとって最も重要だった点は、美味しそうな匂いが本当に誌面から漂い出て来る様な食材や調理風景の描写によって僕の想像力が搔き立てられ、夕食を腹に詰め込む為の空腹感をもたらしてくれた事である。
 豚骨ラーメンが一般に浸透し、インスタントラーメンまで発売され出した頃から現在に至るまで、醤油、塩、味噌、豚骨という分類がなされている。当時は何気なくそれを受け入れていたのだが、後になって考えてみると、以前からある醤油、塩、味噌は全てカエシの分類であるのに対し、豚骨というのは出汁の分類である。知識のおぼつかない当時の自分には、豚骨ラーメンの味付けは塩なのか何なのか、いくら頭を働かせても解けない疑問であった。
 九州の白濁した豚骨ラーメンも、その出汁の色の濃さの為にカエシの醤油の色がはっきりと出ないだけで、基本は醬油ラーメンであることが分かったのは、かなり時が経ってからである。
 それと同じ頃、ラーメンは鶏ガラスープだけではなく、豚骨で取らたものや、両方を同時に用いたものもかなり一般的で、自分自身もその時点で既に色々な場所で食べていたという事も知った。
 例えば、札幌ラーメン。
 僕は高校を卒業して北海道の大学に進学すると同時に、親元を離れて旭川で生活を始めた。大学受験の為に初めて青函連絡船で北海道に渡った時、札幌でラーメン横丁に立ち寄り、ラーメン屋を3軒ハシゴした。
 店は自分で買った観光ガイドブックで探したが、その店を選んだ根拠については全く憶えていない。札幌ラーメンらしい味噌ラーメンの店が2軒と、何故か醤油ラーメンの店が1軒。しかも1軒はラーメン横丁から外れていたと記憶している。
 そこで食べたラーメンの味は、正直に言うと今は全く覚えていない。35年も前の話である。ただ、当時はまだ、ラーメンのスープは全て鶏ガラ出汁だと思っていた時期なので、実は豚骨から出汁が取られていたそのスープは、それまで食べたラーメンよりもかなりコクが感じられたという事と、そのスープの表面にはかなり油が浮いていて、油膜の様になっていたという事が印象に残っている。
 しかし、当時の僕の記憶のほとんどは、北海道の冬が自分が生まれ育った東北と比べても段違いに寒く、特に風が全く違って、まるで刺す様に行く手を阻んできた事と、薄暗い店の壁に、誰のものとも判別がつかないくらいにくすんだサイン色紙がたくさん貼られていたという事ぐらいである。

 さて、僕の北海道での生活の拠点は旭川であった。
 旭川でラーメンと言えば、当然、旭川ラーメンである、と言いたいところだが、僕が旭川で暮らしていた80年代初頭から中頃に掛けての間に「旭川ラーメン」という単語を聞いた事はただの一度も無かった。
 もちろん旭川にいる間、気に入ったラーメン屋はあって、そこで幾度となくラーメンを食べたのだが、それが「旭川ラーメン」という風にジャンル分けされたものだとは言われていなかったし、僕の周りでそんな話題が出た記憶は一度も無い。ただ、
 「北海道のラーメンは札幌の味噌が有名だけど、函館は塩で、旭川は醤油が主流なんだよ」
と教えてくれた人はいた。
 しかし結局、「旭川ラーメン」という呼称を初めて聞いたのは、その後、東京に移ってかなり時が経ってからである。恐らく、品川駅近くに「品達」が出来た時に、当時、旭川ラーメンの店が入っていて、そこで初めて名前を知ったと記憶している。
 もっとも、その当時は札幌ラーメンと博多ラーメン以外のいわゆる「ご当地ラーメン」は、まだまだ名前が知れ渡っていなかったので、旭川でも特に地元のラーメンに名前を付けて売り出そうとまでは、まだ考えていなかったのかも知れない。他の多くのご当地ラーメンも、地元の人からは、いつまでも「中華そば」と呼ばれていたりするものである。
 初めて実際に旭川ラーメンを食べたのは、更に時が経って名古屋に住むようになってから、千種区にある梅光軒という店に於いてであるが、旭川にいた頃のお気に入りの店よりも、かなり洗練されている印象を受けた。
 
 ここで、その旭川でのお気に入りの店について書いて置こうと思うのだが、店名がどうしても思い出せない。
 場所の記憶も定かではないが、日本初の歩行者天国と言われる買物公園の割と大きな交差点から、繁華街の6丁目とは逆の8丁目方向に曲がった所にあり、すぐ近くのレコードと楽器を扱う店に行ったついでによく寄った記憶がある。
 古くこじんまりとした木造りの店内で、茶色く濁ったスープに浸った麺をズルズルと啜ったのはよく憶えている。そしてそれは、それまでに食べてきたラーメンよりも格段にコクと旨味の多い、当時の知識の乏しい僕には、それこそ「何とも言えない」としか言い様の無い美味しさに溢れたものだった。
 当時は、一緒に入った友人達との会話に夢中で、店の雰囲気やラーメンを仕上げる様子などには全く関心を持っていなかったが、配膳はいつも店にいたおばちゃんが一人でやっていたと思う。
 このおばちゃんについては、面白い逸話がある。
 と言っても、この類の話は後に様々な場所で聞くので、その話を実体験として僕に教えてくれた友人自身が、本当にその時、その店で体験したものかは、今となっては多分に怪しい。
 曰く、その店のおばちゃんが、友人が頼んだラーメンを運んで来た時、丼を持つ手の指が淵からスープに入っていたので、
 「おばちゃん、指入ってるよ」
と指摘すると、
 「大丈夫だよ、熱くないから」
と言ったという。また、食べていたらラーメンの中にハエが入っていたので、
 「おばちゃん、ハエ入ってるよ」
と指摘すると今度は、
 「大丈夫だよ、死んでるから」
と言ったというのである。
 どうだろうか。いかにも昭和的な笑い話で、テレビのバラエティー番組でもそっくりな話をネタとして聞いた事があるのだが、これは30年以上も前に語られた話である。もしかしたら、これは本当にその時あった出来事で、それが広まったのではないかという気がしないでもない。
 それはともかく、大学卒業以来、北海道には一度も足を踏み入れていないので、その店や旭川市街、また、当時住んでいた場所など、今はどうなっているのかは全く分からない。
 果たしてあの時食べていた旨いラーメンが、時を経た現在、「旭川ラーメン」として市民権を得たのだろうか。
 そして、あの店は今でも存在するのだろうか。更に、十分に熱いはずのスープに指を突っ込んでも平気で、今のご時世では笑えない冗談を言い放ったあのおばちゃんは、今でも達者にしているのだろうか。
 すぐに飛んで行って確かめてみたいという衝動に、今でもたまに駆られる事がある。

                             第二話・完
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