特別展
「禅-心をかたちに-」は、5月に
京都国立博物館でも行われており、
すでにそちらで一度、見ています。
が、予習を兼ねて、内覧会までの移動中、東京国立博物館のHPを見ていました。
■見どころ情報 〇
展覧会のみどころ〇
特別展「禅―心をかたちに―」 もうひとつの見かた〇
見どころその中で面白かったのが、禅僧の住職さんによる禅紹介です。
〇
禅がゼンゼンわからない人の部屋対話形式ですすめられ、会話も100文字以下でまとめるようにして、
読むのが苦手な人にも読みやすい工夫がされています。
日常のいろいろな場面に置きかえて禅を語っています。
■京都の記憶はあいまい京都国立博物館ですでに見ているので、ある程度、
把握しているつもりでいましたが、すっかり忘れているようです。
内覧会のトークが始まる前に、展示の見学をすることができました。
ざっと回った感じからしても、
京都の展示とは、全く別物と思っていいくらいです。
会場が違えば、
展示空間、展示方法も違うのは当然なのですが、
「展示の高さ、鑑賞距離、照明・・・」同じ作品とは思えません。
作品も半分ぐらいは共通しているようですが、
半分は東京のみの展示だそうです。
■内覧会の始まり会場に内覧会が始まるアナウンスが流れ、集合がかかりました。
主催者の挨拶があり、展示の見どころ紹介されていきます。
学芸研究部列品管理課長 救仁郷秀明氏のお話。
そして、
チームラボ猪子寿之氏によるトーク。
そして、
龍雲寺のご住職 細川晋輔氏によるご挨拶が・・・・
あれ? 見たことある方・・・・
と思っていたら、やはり
「禅がゼンゼンわからない人の部屋」を
HPに併設されたお話を始められ、ああ、やっぱり、あのご住職でした。
「『禅-心をかたちに-』の企画に際して立ち上げてみたけども、
同業者からの反応が一番、怖かった。
しかし、なかなか好評だったようで、打ち合わせを終え、山の手線を下りると、
あちこちから写真を撮られ、その反応に驚いていたそう。
ところが、その日はハロウィンの日で、気合の入ったコスプレと思われ、
写真をバシバシ取られた」
といったユーモアを交えながらのお話を始められました。
■禅について「禅とは、何かを得るためではなく、捨てるためのもの」その心は・・・・ それぞれの心の中に?
それぞれが考えることが大切。
トーハクの展示を見ながら、考えてみることが大事・・・・・
ということなのでしょう。
「これほど大規模で
質の高い作品が集まる機会は50年に一度。
このあとは、また50年後・・・・
50年後はどうなっているかわかりません。
この特別展をくまなくご覧いただきたい」
とのことでした。
■慧可断碑図について(p32 p342)
さて、後期の目玉は
《慧可断臂図》実は京都でこの《慧可断臂図》を見て、疑問に思っていました。
それは、ここに記しているのですが
○
京都国立博物館:禅 ー心をかたちにー 《慧可断臂図》 (2016/05/20)
かいつまむと
ーーーーーーーーーーーーー
そこまで、自分自身を追い込まないと、
禅宗は修行の道に参加することができないのか。慧可に自らの腕を切り落とさせてしまったのは、
達磨大師の導き方の失態ではないのか。そこに至る前に、別の形で、参禅できるような導き方があったはず。
自らを律するのはいい。でもそれと同等の修行を、弟子にも課すことで伝えるのが伝道の正しいありかたなのか。
弟子には別の形で、悟りに至らせるのが、真の指導者ではないのか?・・・・
己の体に刃を立てる。それを
実行に移す前に、達磨大師は、慧可に気づかせるなんらかの手だてを講じるべきだった。そんなことは、
絶対にさせてはいけない立場ではないのかと。
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この疑問を、ぶつけてもいいものかどうか、ずっと考えていたのですが、
このような機会は、めったにありません。
思ったことを率直にお話してみました。
■慧可断臂図問答まずは「達磨大師や慧可は、
実在した人物なのか。これは、逸話としての話なのか」
⇒達磨大師の手足がなかったとか
実在したかもわからないし、
慧可についても同様とのことでしたので、
逸話と考えてよいようです。
手を切り落とすような覚悟が必要なくらい、
禅宗の入門は厳しいというたとえとのこと。
「しかし、
殺生をしてはいけないという教えで
自らの手を切るというのは、
例え話であってもどうなのか」
⇒切り落とした
手を見て考える・・・・
これは、
自分なのか、
自分ではないのか・・・・
物となってしまったのか・・・? 目の前のものは何か・・・?
⇒そうやって、この
逸話を通して考えるということが大事。
⇒切る前に考えよう・・・というのが白隠の《慧可断臂図》
それと同じことを感じたわけですね。
考えた結果、「この話はおかしいのでは?」と思った
ということでもいいのか?
そのあとに
「猫の仏性の話」「犬の仏性」の話も知りました。
すべてに仏性があると言いながら、あんな顛末の例え話を、
猫のみならず、犬にも同じような話があるとは・・・・
禅宗というそのものまでおかしいのではないかと感じてしまった・・・
と大変失礼な物言いにもかかわらず、
そうやって考えることが大事なんです・・・・
この話も本当に猫を切ってしまうわけではありません。
「〇」を切るという意味かもしれません。
「〇????」 かくかくしかじか・・・・
なるほど・・・・
そういう考え方もあるのかと目から鱗でした。
(これは私だけの秘密・・・・)
そして答えは一つではありません。
何を思ってもいい・・・・
どんなことでもいい。
自分に向かって考えてみること。
■もう一つの《慧可断臂図》 白隠 (p182 解説p390)
細川住職が、
この絵と雪舟の絵が一緒に飾られることは、
感慨深いものがあります。そして
美術品としての価値のある絵と、
教えとしての絵を一緒に並べて展示された。
といったようなことをおっしゃったように私には感じました。
私が、初めて日曜美術館で見た時に、白隠のこの軸、
正直、
なんじゃこりゃ? と思ってしまいました。
これは、
美術的に価値があると言えるものなのか・・・
ここから何かを読み解こうとしても、何にもわかりませんでした。
雪舟の慧可断臂図の話から、
腕を切る前を表現していると聞いて、
やっと納得しました。
「腕を切る前に考えよう」私の考えは、白隠に共感する・・・って。
図録の解説(p390)にも、絵画としては、
建物・達磨・慧可という3つの要素が
バラバラに独立していて
空間性とまとまりに欠けた印象で、
それらに
調和を求めるような描きこみがされていない。
とありました。
そうそう、それそれ・・・・・意を得たりでした。
言葉では言い表すことができませんでしたが、まさに上記のようなことを
感じさせられたのでした。
これが、美術品? と思っていました。
しかし、
「悟りの修行の中にる達磨」「迷いの中で覚悟する慧可」が
対比的に描かれている。
とあり、細川住職の言葉ともつながるものを感じさせられました。
■仏教芸術は、「美術」か「信仰」か藝大で「観音の里の祈りとくらし展」を見た時にも思ったのですが、
仏像を
「美術品」として見るのか、
「信仰」の延長にあるものとして見るのか
で、とらえ方が変わることを感じていました。
美術品としての価値は、それほどではなくても、
「信仰」というつながりの中で意味を持つ作品(と言っていいのか・・・)
「無限」の意味は、
信仰が脈々と未来永劫、続いていく。
そんな意味もあるのかもしれません。
一方で「信仰」の対象であるはずの仏像を「美術品」として扱うのは、
どうなのか・・・
私たちは「美術館」と言う場所で、「仏教美術」を見る時、
「美術品」としての価値と
「信仰」の対象という
2つの視点の間を、行ったりきたりしながら見ているのかもしれません。
これも「無限」に続くループなのか?
あるいは、その先、一体化していくものなのか・・・・
これ、「猫の仏性」にも通じているような気がしてきました。
「生きているのか」「死んでいるのか」という
二元的な問題なのではない。
その話を聞いた趙州は、草鞋を脱いで、自分の頭の上にちょっと乗せて
部屋から出ていった。
趙州がいたら、猫を斬らずに救えただろうといった意味が、
なんとなく見えた気がしました。
「草履は、足に履くもので頭に乗せるものではない」という
常識や固定概念。そういうことから脱して、足に履こうが、頭にのせようがいいじゃないか。
それは、生きていくことに、なんら変わりのなこと。
草履を履こうが、頭に乗せようが、
私はこうして歩いている。
そんな意味だったのかもしれないと思いました。
仏像が「美術」なのか、「信仰」なのか・・・・
そんなことは些末なこと。
そんなことにとらわれていることそのものが邪念・・・・
考えるうちに一元化されて、どちらでもなく一体化していく・・・・
ということなのかなと思われたのでした。
■瓢鮎図 如拙筆(p264 解説p414)
この絵は、室町幕府の第四代将軍の
足利義持が、
「丸くすべすべした瓢箪で、ねばねばした鮎を捕らえることができるか」とテーマを、僧であり絵も描く
如拙(じょせつ)にが描かせたもの。
上部には、五山の僧が問いに対する答え(思いや感想)を
詩の形で書かれたものだそうです。
禅宗では禅問答のようなやりとりが行われますが、
この問いに対する答えは???
そんな答えなんてないのです。
ここで重要なことは、
答えを出すことではなく、難題を考えること。
そんなお話を、大変、失礼極まりないことを申し上げたにもかかわらず、
終始、にこやかにお話いただきました。
■禅問答は、門外不出?「禅がゼンゼンわからない人の部屋」で、
「禅問答の
答えを内緒で一つでいいから教えて下さい」
というライターさんの質問に、
「それは、絶対に機密」とおっしゃっているのを目にしていました。
でも、「猫の仏性」の答えを教えてもらっちゃったぞ~ ヽ(^。^)ノ
とちょっと意気揚々としていたのですが、これはほんのさわりにすぎないのでしょう。
実はこの裏に
もっと、もっと考えて下さいというメッセージが、
込められていたのだと思いました。
実際に調べてみると(ネット散策しただけですが)、
いろいろな人が
勝手にいろいろな解釈を述べているようで
何が正しいのかよくわかりませんでした。
この答えは、禅宗に入門して修行しない限り、答えはでないのだと思っていました。
そうやって
思考することが大事というのが、本質のようです。
《慧可断臂図》を初めて見た時から、ずっと考えていました。
教えがこれでいいのか・・・・と。
ずっとと言ったら、嘘になりますが、折につけて気にかかっていました。
今回、《慧可断臂図》が展示されていると知って、また思い出しました。
再度、この絵とお目にかかることができ、
京都では切り取られた手の部分が、
血で赤いと聞いて知っていても
それを確認することはできませんでした。
今回は、
はっきりそれが確認できました。
そして
唇が赤いこともわかりました。
東京の展示は高さも低く、慧可さんとの距離がとっても近いので必見です。
また、禅宗の住職と直接お話をさせていただくという機会も得られ、
とらえ方のヒントを少しだけいただくことができたように思います。
禅宗の教えである、何かを捨てることができたわけではありませんが、
考えることを続けていこうと思います。
*写真は、美術館の許可のもと撮影を行っております。
撮影の際に、係の方に、単体およびズーム撮影の確認をしたところ
OKとのお返事でした。
広報事務局にて、単体撮影については、美術館の壁や枠が撮影されていれば、
人が入っていなくてもOK。部分撮影についても同様。
ズーム撮影については、ガラスの映り込みなどがある、
とーはくで撮影されていることがわかる状態であればOKと、確認しました。
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【追記】2016.11.10
■《慧可断碑図》 達磨の表情について(p32 p342)
この絵に描かれている達磨の表情をどう読み解くか・・・・
いろいろな解説があります。
【参考】慧可断臂図の解説
○ 国指定文化財等データベースより(文化庁) 解説文
紙本墨画淡彩慧可断臂図 (雪舟筆/七十七歳の款記がある)
「達磨と慧可との激しい精神の交流」 ⇒そんなこと全然感じないんですけど。
達磨は、もっと言えば「トホホ顔」って感じた方もいらっしゃいます。
慧可の表情のほうも、「こんなコトしちゃったんですけど・・・」って
○京都国立博物館 データベースより
慧可断臂図(えかだんぴず)今回の図録では(p342)
重々しい岩壁、その岩壁に刻まれたかのような微動だにしない2人。
リアルの表現された画貌を見ても、
心の動きは全く読み取れない。
異様な静寂が息苦しいまでの緊張感を生み出しており、
近寄りがたい雰囲気すら覚える。
心の動きは読み取れない。 私もそう思いました。
それは、見る人の心が決めるもの・・・・
解説者は決めつけない方がいいのかなと思いました。
「自分は」こう思った。
「このようにとらえることもできる」ならいいけど・・・
再度見て、私にはやはり緊張感は感じなかったし、
近寄りがたいどころか、真っ先に近寄って、切り離された手を見て、
「ああ、赤くなってる! でもこんなに薄いんじゃ、遠目じゃわからないよね。」「あれ? 唇も赤かったんだ・・・・」そんな話、どこにもなかったけど。唇の方が濃いんだなぁ・・・・
ジロジロ、パチパチ状態でした。
緊張感・・・・ 近寄りがたさ・・・・・
またしても私には感じられませんでした。
今回は撮影可能という邪念が入ってしまったので、
鑑賞の心理状態が違っていたかもしれません。
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【展覧会情報】
■展覧会名:特別展『禅―心をかたちに―』
■会期:2016年10月18日(火)~11月27日(日
前期展示=10月18日(火)-11月6日(日)
後期展示=11月8日(火)-11月27日(日)
■会場:東京国立博物館 平成館
*写真については、チームラボ新作発表@禅展・夜間特別内覧にて
美術館より撮影許可をいただいております。
作品の単独撮影、ズーム撮影については、美術館事務局にて確認了解済み。
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【追記】再訪
■《慧可断臂図》白隠
「建物」「達磨」「慧可」の三つの要素・・・・
の解説を見て・・・・
山に「王」という文字が書かれていて、
なぜ、山に「王」なのか・・・
大文字焼きの送り火のようなものなのか」・・・・
「大」という文字は、「王」だったりすることもあるのか・・・
山の横から伸びる直線は何を意味しているのか。
と思っていたのですが、
解説の「建物」を見て、ああ、これは屋根だったんだと理解。
横線はかやぶきの屋根ということを理解。
一度、屋根だとわかると、山には見えなくなってくるから不思議・・・
「王」は文字でなく、茅葺の空気とりだったのか・・・・
達磨の横の棒のようなものは、
山に対して、近影の樹木を表しているのかと思っていたのですが、
家の柱ということでしょうか?