『美術館めぐり:「鈴木其一展」「日本美術と高島屋」「驚くべき明治工藝」』コロコロさんの日記

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1日に美術館を2館めぐる・・・ということはあまりしないのですが、
出かけたついでに2館、巡ることは、最近、ちょこちょこありました。
しかし、今回は、初の3館めぐり・・・・ 
と言ってもそのうちの一つは、5度目の鈴木其一展だったのですが・・・・


■つながる美術展
なんの関連もないと思っていた3つの美術展が、
それぞれになんらかのつながりを持っていて、連動しており、
うっすらと見えていた幕末から明治初期の近代の歴史
美術品を通して感じさせてもらえた気がしました。


日本の近代美術史が幕開けする前の幕末期。
それは、夜明け前の静けさの中に秘めたエネルギーをはらんでいた時代。
しらじらと明けていく中で、あたりを照らしていた一人が鈴木其一。



■鈴木其一 江戸琳派の旗手(サントリー美術館)
最後の展示替えでお目見えした《四季花鳥図屏風》に圧倒されました。
1856年作。其一がコレラで亡くなったのが1858年なので、
亡くなる2年前に制作された屏風です。

その10年後、1868年、明治維新を迎えます。
幕末から明治へと時代が変わるその直前、端境期、
これから激動しようかという前の時代を生きた絵師です。
この絵が作成される3年前(1853年)には、ぺリーの来航もありました。

また同時代の絵師には、葛飾北斎をはじめとしたそうそうたる顔ぶれが
ひしめきあい影響しあっていたと考えられます。
(伊藤若冲は、其一が生まれた4年後になくなっており、
 同時代は生きていませんが、抱一が若冲の影響を受けていると言われており、
 何等かの影響があったかと思われます)
この時代は、さながらアイドル花の83年組状態といったところ。

葛飾北斎  1760-----------------------------1849
酒井抱一  1761--------------------1829
鈴木其一     1796-----------------------------1858(コレラ)
歌川広重      1797-------------------------------1858 (コレラ)
歌川国芳      1798---------------------------------- 1861

伊藤若冲 1716-----------1800
円山応挙 1733--------1795
喜多川 歌麿 1753-------------1806


「太平の世」と言われ、300年という長きにわたる
平和な時代を築いた江戸時代。
日本文化が純化する方向に(?)文芸や工芸の文化をはぐくみました。
鎖国政策(?)が、それに影響しているとも考えられているようですが、
その一方で、わずかに入ってくる西洋の情報を貪欲に吸収し、
江戸の文化を担い継承してきた流れがあります。

そんな江戸という時代が最後の輝きを放っていた時代
それと同時に終焉の足音も耳に聞こえていたであろう時代
そんな時代の空気を丸ごと描いた集大成ともいえる作品が、
《四季花鳥図屏風》ではないかと思いました。

其一はおそらく時代が移り変わる予兆を感じていたのではないでしょうか?
そんな幕末の時代を生きた其一。
江戸時代の琳派という流れをすべて受け止め吸収して、血と肉にしながら、
来たるべき次の時代を見据えて描いた作品。

(其一は、抱一の元、光琳百図の編集を手伝っていました。
 その後、百図が消失し、その再現を其一が一から始めたということは、
 光琳のすべてを吸収していたことになります。
 抱一は宗達の存在を知らなかったようですが、光琳を模写することで、
 宗達のエッセンスも知らず知らずのうちに受け継いでいたのでしょう)

これまで自分が生きた時代、生きてきた証をその中に封じ込め、
そこには、先人のエッセンスも注がれていた。
そしてこれからの時代の扉、入り口もここに描いた。
そんな一枚が《四季花鳥図屏風》だと思いました。

《朝顔図屏風》《夏秋渓流図》《風神雷神襖》ともに素晴らしいです。

しかし、其一の展示を全期に渡って、全ての作品を見て
最後を飾るにふさわしいこの一枚が《四季花鳥図屏風》だと思いました。
これを見ずに、其一を見たとは、語ってはいけないのではないか・・・・
これを見ずに其一を語るなかれ・・・・とまで思ってしまうくらいの一枚でした。
(個人の感想です)

江戸300年の歴史がここに閉じ込められていて、
さらに、これからどんな時代になるかを予測したかのような一枚でもあります。
江戸の暮らし、文化がこの一枚から浮かびあがってくるような気がします。
私がこれまで見たり、聞いたりしたことが、凝縮されていて
ここに描き出されているように感じさせられました。


こんな隠し玉を、あなたは持っていたの?
最後に、こんなものまで出してくるなんてずるい!
なんで、こんなものがあること、今まで隠していたの?
これを見ずに、知らないまま、其一展を、終えてしまう人、
いっぱい出てきちゃうでしょ・・・・
お気の毒様・・・・と言いたくなってしまいます。


田中優子氏は『江戸の想像力』の中で
「世界的規模の大変化が起こる直前の18世紀後半、
 多種多様な認識・技術・形式が混在となり、
 異質なもの同士が未整理のままぶつかりあっていた時代のエネルギー
があると語られています。


異質なものがぶつかり合うことで発せられる衝突のエネルギー。
夜明け前の明け方が持つ、独特の空気感。
これから登る太陽から注がれる爆発的なエネルギーを受ける前に、
乱れ飛ぶ力の中に生きた其一。

そんな其一が、新たな次世代のバトンとして残した絵の数々。
その集大成とも言えるのではと思えた一枚。


この屏風は、「東京黎明(れいめい)アートルーム」の所蔵だそうです。
初めて聞くのですが、こちらが ⇒「about us」
こんな屏風が、なぜ、あまり知られていなかったのか。
調べてみても、あまり情報がありませんでした。
(なんとなく、認知度の低い理由がわかるような・・・・)


◆「黎明」の意味は、
1 夜明け。明け方。
2 新しい事柄が始まろうとすること。また、その時。

まさにその名にふさわしい屏風だと思いました。



■明治維新
そして、明治維新という夜明けを迎え、爆発してすべてを壊してしまいました。
これまでの生活、価値観は、全てがひっくりかえされてしまいます。

突然の廃刀令廃仏毀釈士農工商の身分制度廃止によって
補償されてきた身分が奪われてしまった大名や武士。
それに伴って顧客を失ってしまった工芸を生業にしていた人たち。

しかし、その技術は形を変え、模索しながら新たな時代に適応しました。
刀工は、包丁制作に、仏師は、鎌倉彫などの工芸品作成に、浮世絵師は写真の着色、
新たな産業が生み出され、生きのびながら、さらなる発展をしていきます。
戸惑いながらも、より活気づいていく日本・・・・


■国策による殖産興業
それらの産業は、大変革を求められ国を挙げての「殖産興業」「富国強兵」
「国威発揚」の名のもと世界へ進出します。
そのための調査団が組まれ、欧米の好みを徹底的に調査しました。

それは万博への参加を視野に入れたもので、世界へと進出し外貨を獲得
その道しるべとして、国策として援助、牽引。
民間の技術力はそれに答え万博では、数々の賞を受賞し、世界の中の日本の存在をアピールしました。
世界的に影響を与えジャポニズムの種をまいていました。
それらの技術は、さらなる超絶技巧として発展し、
考えられないような技術を生みました。


そんな明治時代の工芸技術のすばらしさを知ったのが、
昨年、そごう美術館で行われた「明治有田の超絶の美」でした。
その技術は、今の技術力をしても、再現ができないと言われるほどのものでした。



■「高島屋史料館所蔵 日本美術と高島屋」
本日までの開催となってしまいましたが、日本橋高島屋でおこなれている
「高島屋史料館所蔵 日本美術と高島屋」
    ~交流が育てた秘蔵コレクション~
  《特別展示》豊田家・飯田家寄贈品展

風の噂で素晴らしらしい展示だという声を耳にし、其一展のあと訪れてみました。


圧巻・・・・・・


そごう美術館で行われた「明治有田の超絶の美」で、
明治時代の超絶技巧は、国の政策により牽引されたもの、
国家主導のものだという認識をしていました。


ところが・・・・・

初代高島屋を創業した新七は、開国とともに、
常々、世界に目を向け商いをという精神をもっており
日本人には力があり、可能性がある
世界を視野に入れたビジョンを持っていました。
開国の荒波に向けて船出をしていたのでした。

欧米のジャポニズムによる日本美術ブームに乗り、万博に作品を出品
下絵を作る画工室を作り、画家に染色品の下絵を描かせていました。
それが、有名な日本画家、竹内栖鳳、岸竹堂、神坂雪佳、都路華香らが・・・・

そして4代目髙島屋新七は、欧米視察に行き
輸出品を作るには、現地に調査が不可欠と1年滞在します。
さらには、万博で「高島屋館」まで出品していたのです。

明治の万博は国の政策。
そこに協力した民間企業として、香蘭社 青磁会社  深川製磁の歴史を、
自分なりに関係をつかむために、
歴史年表をエクセルを使ってまとめていました。

それは、国の歴史、政策、万博、内国勧業博覧会を軸にした年表だったのですが、
そこに、一民間企業の高島屋が、その万博に国としてではなく
参加していたという事実について、驚愕させられました。

出品のための調査なんてことは、国が政策としてすること・・・・・
と思っていたのに、どこよりも先駆けてして、海外視察にでかけ、
自社の出展までしていたのでした。


それらの調査をもとに、西洋に学び制作されたのが、ビロード友禅でした。
それは、好評を博しサラベルナールの目に留まって、
展示する前にお買い上げ
されたと言います。
それは、一大ニュースとして報じられ髙島屋の名声は世界にとどろきます。

サラベルナールといえば、ミュシャを有名にした女優です。
こちらもまた、昨年、ラリック美術館で「ミュシャとラリック」が行われました。
その時にも2人の年表と万博、サラベルナールとの関係をまとめていました。
その年表が今度は、サラベルナールを髙島屋ともつながりました。

さらに、フェノロサの奥さんも、高島屋にやってきて、
その織物の技術は、フランス以上と大絶賛します。


■髙島屋とのめぐりあわせ
もとはといえば、其一との出会いは髙島屋で行われた琳派展がきっかけでした。
そして、回りまわって、高島屋と日本美術の深い結び付きを知り、
のちの百貨店がジャポニズムの一躍まで担っていたことにつながります。
さらに百貨店が画家たちを支援し、お互い信頼し信頼される深い関係を築いていたこと。

個人的にあまり印象のよくなかった大観の作品を見て心動かされたこと。
心を込めて描いたものは、心を打つことを証明してくれました。
髙島屋の支援に対してお礼として描いたという大観の大きな軸・・・・
これまでの大観像が一掃されました。

さらっと、見るだけの予定だった「日本美術と高島屋」でしたが、
思いの他、時間がとられてしまいました。
そこから、上野の芸大美術館「驚きの明治工藝」へ移動しました。



■驚きの明治工藝
明治の様々な工芸品の超絶技巧の展示があったのですが、
その中で一番、驚いたのは、
さきほど見てきた「ビロード友禅」がここにも展示してあったことです。

髙島屋で作られていた「ビロード友禅」が、
実際に海外に渡ってコレクションされている姿を目の当たりにした感じです。

しかし髙島屋で展示されていた作品の方が、きれいだな・・・・と思っていたのですが、
私が見たのは、下絵だったことがあとになってわかりました。

ところで、ビロード友禅は、高島屋が考案したものだと認識していたのですが、
どうも違うようです。


以下、解説より
ーーーーーーーーーーーーーーー
幕末・明治維新、厳しい環境となった京都の染織業界
復興に立ち上がったのが京都の老舗呉服商「千總」
友禅模様の図案を、京都画壇に日本画家に描かせ絵画のような写実的図案が人気に。
さらに、ビロードに繊細な模様を表現しようと試み、友禅染めを応用
明治11年、しろいビロード地に図案を染め、
部分的にパイルを残したり切ったり絵画表現と立体感を併せ持つ
「天鵞絨(ビロード)友禅」を完成。

数年後には、高島屋の三代飯田新七も手掛けています

この時代、海外需要をきっかけに、高い評価を得た作品のほとんどが
有力輸出商品とみなされ、海外に渡っていきました。
ーーーーーーーーーー

最後に、やっと高島屋の名前が登場しました(笑)


展示というのは主催側の主観的なものになるので、
同じビロード友禅を扱うにしても、高島屋では我々がそれを作ったというような
ニュアンスで紹介され、
藝大美術館の展示では、おまけのように扱われているのが、
ちょっとおもしろかったです。



■其一が! 琳派が!
「驚きの明治工藝」を見ていると、あっ、其一っぽい・・・・・
と思うような画風や、ああ、これは琳派ね・・・・
と思うものがいっぱいあります。


脈々と続いてきた琳派の継承。
その継承を、其一は、忍び寄る文明開化の足音を察知し、
次の世代に向けて、新たなエッセンスを盛り込み引き継いだ結果・・・

それがこうして「驚くべき明治工藝」の様々な作品へとつながっているのでは・・・・
途絶えることなく、一本の線の細い糸でつながっているのを
感じさせられるのでした。

近代日本の歴史の中で生きた人たちが、
新しい時代の幕開けに、喜々として立ち向かって奮闘した姿が、
目の前の作品から息遣いとして感じさせられる展示でした。

その裏に、其一が受け継いだ琳派があり、
次の時代へバトンタッチをするべく、
近代日本が世界へ羽ばたくため礎を提供していた。
そして、劇的に変動する未来と過去をつなげる
橋渡しの役割も果たしていたのでは?と思えたのでした。



■龍村美術織物展
今回、「高島屋史料館所蔵 日本美術と高島屋」の横で、
日本の工芸技術を見せつけるような展示がされていました。

ここを知ったのは、こちらでした。
なんだかすごい織物の技術らしいです。
たまたま横浜高島屋でも展示されているのを見ていました。

日本橋高島屋の展示規模は、横浜よりも大きく、正倉院の御物の再現などありました。
昨年見た正倉院展で、チリチリに乱れた御物の状態を実際に見ていたので、
あの状態からの再現に、その苦労がうかがえました。

また、其一展で見た作品に「雲母刷り」とあって、なんだろう・・・と
思ったままになっていたのですが、帯にも「雲母刷り」なる言葉を発見。
そういえば、浮世絵の技法にも「雲母刷り」というのがあったっけ・・・・

これらは、柄のことではなく技法のようでした。

◆「雲母刷り」
料紙装飾や浮世絵版画の技法の一。
版木に糊(のり)や膠(にかわ)をつけて紙に摺り、
その上に雲母(うんも)の粉を篩(ふる)いかけ、
乾いたあと、残りの粉を払い落とす。


「外隈」という技法もいろいろ形を変えて使われるように、
紙(料紙)や帯に、浮世絵の技法として使われるようです。


そして、帯のデザインに、光琳や本阿弥光悦の図案が
モチーフとして使われ、デザインされていました。
代々龍村で受け継がれているデザインなのかと思ったら、
〇代目が光悦が好きで、図案から取り上げたのだそう。

こうして、琳派という継承が、断続的にも取り入れられ、
現代の生活に息づいているのだということを感じさせられました。


昨年は、琳派400年・・・・ 
宗達、光琳、抱一の次を担う人が登場したのでしょうか・・・・

「それは、私たちが決めることではなく、
 100年後の人たちが評価して決めることなのでしょうね」
 というお話をされていました。

さて、100年後の時代、誰がノミネートされるのでしょうか?


龍村錦帯は、「日本美術と高島屋」の中で紹介されていた
上品会の最初からのメンバーであったことを知りました。
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