『風神雷神:①対話式鑑賞  俵屋宗達 風神雷神図屏風』コロコロさんの日記

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この記事はコロコロのアート見て歩記&調べ歩記にリライトして移動しました。

  ⇒2017-07-01 ■対話式鑑賞との出会い:俵屋宗達《風神雷神図屏風》を通して感性を伸ばす

写真なども加え追記しておりますので合わせて御覧いただけましたら幸いです)
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風神雷神図屏風について調べていて、目にしたサイト。
示唆深いことがたくさんあったのでちょっとメモ


いかに生徒の発言の痕跡を残すかより
                   by 庄子 展弘  
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 鑑賞はたのしい。1枚の絵を目の前にして、じっくりと眺める。一人で見るよりも二人で見る方がさらにたのしい。その絵について語ってみたときに、自分の見方と、相手の見方が違うと、何で相手は「こう思ったんだろう?」と同時に「何で自分はこう思ったんだろう」と考えていく。そうすることで、絵についての理解も深まり、その見方や感じ方、味わいが深くなる。まるで、面白い映画を見た後に、盛り上がって語り合うように。 一人よりも二人、二人よりも三人と、みんなで見て語り合う方がたのしい。人と語りたくなる美術作品に出会えたときも全く同じである。絵や彫刻、不思議な現代アートなど、見たり、触ったり、感じたりしたときに語り合うのは基本的にたのしいことだ
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なんとなく美術館に行くようになったのですが、
しばらくは、ずっと一人で見ていました。
時々、主人と一緒に観ることもあり、
その時に漏らす感想が実に面白かったのです。
その発想、どこからくるの?! 絶対私には、考えもつかないこと・・・・

その後、似たようなジャンルの美術作品に興味を持つ
友人が身近にいたことに気づきました。
「○○見た?」とその後の感想を語り合うことによって
もたらされる楽しさが分かり始めました。

元来、一人行動が好きなのですが、「いっしょに行かない?」
という機会も増えてきました。
とは言っても、基本は一緒に見たりはせず、自分のペースで自由に観ます。
観たいところで立ち止まり、興味のないところはスルー。

その後、ああでもない、こうでもないと語る。


そんなことをしていた時に見た動画これでした。
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■ポーラ美術館 トップ画面動画

同じ空を見上げても選ぶ色は人それぞれ。
芸術に正解はない

今目の前にあるものが輝いて見えるのは
自分自身が輝こうとしていることの証。

大切なのは何を見るか ではなく
誰とどんな場所でそれを感じるか

明日はあの人に 今日 一日のことを話そう
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この動画で語られていた、一人で見る楽しみでなく、
誰かと共に見たり、あるいは、あとで語りあったりすること。
その楽しみ方が、少しわかり初めていたときだったので、
一つ一つの言葉が、ずっしりと響いてきました。

そして、今また、美術教育をされている先生が、
そのことを冒頭で訴えかけていることに意を得たりでした。


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人の薦めで『みる・かんがえる・はなす 鑑賞教育のヒント』の本に出合う。読み進むたびに、今までの悩みが解消出来る予感が見えてくる。そのときになって気づく。私はアレナスを知っている。

(中略)

あの衝撃的な番組。こんな授業がやりたいと思っていたあのギャラリートークその人だった。(略)
当時の色彩に復元し、原寸大のその画像を元にギャラリートークをするもの。後半は誰がユダなのかと問いかけてさらに絵を深く見つめていく。
 当時は、よくあんなにいろんな人の話をまとめていけるなと思ってみていたものだが、まさか自分がそんなことに挑戦しようとは夢にも思わなかった。
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生徒の意見を引き出す板書で使われたのが「ファシリテーションマトリックス」

縦軸に、絵画の意味(価値)の深まりをすえ、
横軸は、造形要素や心情など、部分から全体の方向へと広げる。
絵の中に描いてあるものの位置関係を部分から全体として対応させる。
座標軸のマトリックスを用いて、生徒の感想をまとめるという方法。

(因子分析法は、こんなところでこういう使い方もできるんだ・・・・)

ところが生徒は、より評価を得ようとして、高い位置に属する意見を
言おうとするようになるというのも面白いです。

そこで絵の部位と黒板を連動させるだけにして、生徒の意見を単純に配置
そして意見同士の絡み合いを関連づけて板書。
黒板右側に、作品のテーマや主題を書く欄も設けておき、
最終的にこの絵は何なのか? 主題やテーマも考えさせる。

以上のような方法を用いて、様々な作品の鑑賞会を実施されていました。

その結果、子ども達は、鑑賞を楽しむようになり、
このスタイルの授業をすると、喜んでくれた様子が伝わってきます。
3年生になると、幅広い解釈が生まれ、新しい発見をしたり、
絵を見ることが好きになっていることがわかります。
3年生ともなると、単なる絵だけ、作品だけの世界から、
作者の生き方や人物にも興味を広げて、さらに知りたくなり質問をしてくる
そんな時にどこまで授業の中で話していいものなのか、
また悩みが生まれるそうです。


■対話式鑑賞  俵屋宗達 風神雷神図屏風
その対話式鑑賞の一つとして、俵屋宗達の風神雷神図屏風の
鑑賞授業が紹介されていました。

鑑賞に際して、実物大の屏風を市内で借用
それは、教科書などに載っている平面の状態ではなく、
あくまで屏風として折れ曲がっていることや、二曲一双であることから
屏風同士の距離や位置関係を変えることで、
感じ方が変わるかどうかについても試してみたそう。

環境も、暗幕で暗くし、揺らめくろうそくの火のなかで鑑賞することで、
さらに味わい深い物なるようにされていました。


私が、実際に屏風を見て、「図録と屏風は違う」
ということに気づいたことを、美術の授業の中で
体験させてもらっているのです。

そして、ロウソクの光の中で鑑賞をし、
当時の見え方を再現しています。

尾形光琳の紅白梅図を同じような対話形式の鑑賞授業をされた先生のことを、
以前、「ここ」 で、触れていますが、
こちらでは、実際にロウソクをたててはいませんが、
屏風はどんな光の中で見るのものか・・・という視点を
さりげなく言葉の中で投げかけ、気づかせるように誘導されていました。



■モノを見る時、光を意識する
最近、作品はどんな光が当てられているか・・・
ということが気になるようになりました。
そして、もともとは、どういう光の中に存在していたのか・・・・

その見方は、生活にも直結するようになっていて、
商品がどんな光の中でディスプレーされているのか・・・
ということにもつながっています。
こんな種類の光をあてたら、実物よりもよく見えている・・・・
という捉え方もするようになってきました。



■京博の展示は美術品として
ただ、今回展示された、風神雷神図は、
崇め奉って見ていました。
かつては生活の道具として利用されていた屏風でり、
間仕切りであることをすっかり忘れさせられていました。

目の前にあるものは、貴重な美術品として、
崇めており、本来、どういう光の中で見られていたかという
視点は全く抜け落ちていたことを、
このレポートで再認識させられました。

せっかく、屏風は昔は、ロウソクの薄暗い光の中で見られていた
ということを一度は、理解していたのに、あの展示の環境が、
それを忘れさせてしまうのでした。

発色が悪い。 色が薄い・・・・
しかし、これをロウソクの光で見たとしたら・・・・
見え方は違っていたはず。



一連の対話形式の鑑賞におけるテーマは、次のとおりだそうです。
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いきいきとした一見神とは見えない風神雷神の姿を見ながら、これらは一体何者で、何をしているのか。そして題名を知った後に、どう思うのか。自由な発想を保障しつつ多様な思いを交流させたい。
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この部分も、私の中ですっぽり抜け落ちていました。
風神、雷神とは、なんぞやということ。

3者、そろいぶみ・・・・・・

その貴重な機会にばかり、目が行ってしまい、
3者を並べて比べて、その違いをみつける
そういう視点でしか見ることができませんでした。

風神、雷神って、三十三間堂にあった彫像。
とわかった時、風神、雷神って何なんだろう?
とふとよぎっていたのです。しかしそのことは置いてしまい、
せっかく3者を並べて見ることができる。
そちらにばかりに気をとられていました。



■中学生の自由な発想・・・・
「屏風には2つの何かがいる。それぞれ何で、お互いに何をしているのか」

その問の答えが実にユニークで、今風。

・こいつらは鬼で、どっちが強いが競い合っている。ケンカ。仲が悪い。
・仲良し。下界に雷と風を送って喜んでいる。自分達の楽しみのため。
・雷を鳴らすためには雨雲が必要。それを作って、風で送っている。
 手首と足首にわっかが二人ともある。おそろい。悪天候同盟。
・天気の怪物。このほかに『雨』と『晴れ』もあるがその中で競い合って
 残ったのがこの雷と風。闘っている最中。
・人間にとって雷はいらないけど、自然界には必要。
 この雷様は想像のもの。雷の方の雲があまり黒くない。雷雲は黒いので逆。
 実は風の方と雲を取り替えられて、口で言ってもらちがあかないので、
 これから取り返しに行こうとしている所。
 これから戦いに行こうとしている所。その直前のポーズ

そして、屏風を逆に置いてみたら・・・・

面白いと思った意見を拾ってみると。
・ダンベル持って筋トレ。強くなって龍を倒そうとしている。
・闘ってる。雷の神と風の神。
・立ってダイエット。食べてなくてイライラしている。荒らす。
・黒い煙は火を消した瞬間に出るから。歯がきれいだし。エンジェル。
・デスノートの死神みたい。どっちが偉いが競っている。
・もやもやが雲で上空にいる。右の顔がふざけている感じなので悪魔。
・口のゆがみも。風の神。暇なので、悪戯しようとしている。
・人間界に雷と風をちょっと起こして楽しむ。
・永遠のライバル。最終決戦。風神が雷神に向かっているところ。
 雷神はまってる間にストレッチ。強さは同じぐらい。
 髪のなびきが風の強さを示す。風神。
・昔からの仲良し。何でも分かり合える存在。雲の上は操る。
 時空を超えて操る神様。これからすごい事を起こそうとしている最中。
 2人とも色は小汚いけども大きな力を持つ神様。 
 人間には見えない不思議な存在。笑ってウキウキ。神秘的。

・風呂上がりのおじさん。パラシュート(パラグライダー)に見える。
 緑はポケモンとか。
・右は妖怪の仲間でいろんなものを袋に入れて攻撃する道具として使って、
 腐れ切った日本に制裁しに行くところ。悪い人を懲らしめる。
 座敷童のようないい妖怪。
・子どもです。ダンベルで鍛えている。緑の方を絵の具で塗った。
 その仕返しにバスタオルで拭いて行こうとするところ。
 ズボンがお下がりのゆるゆる、脱げないように足をあんな風にしている。
 すでに脱げてへそが見えている。
・人間だけど悪魔。悪い人間の象徴として悪く書いている。豚みたい。
 右は奴隷。貧しくてカエルなどを食べているので緑。
 身分の違いを表現したもの。
・右側が鬼で、左はそれに近いもの。仲良しで会話している。
 「最近どう」みたいに。顔が鬼っぽい。口の大きさが。

・黒い煙は戦いのオーラ。黒いのは悪だから。
 紐みたいになびいているのはのり?昆布?ビデオテープのようにひらひら。
 緑は歯がきれい。白は歯が汚い。
・左は豚みたい。耳の位置。右はライオンみたい。たてがみ。鬼ごっこ。

・何か楽しんでいる。口元が笑っているから。
 筋トレと縄跳び、この時代には縄がないのであんなもので縄跳びしている。
 時代は江戸時代? 緑の方は肩にわっかがある。特徴的なものを着ている。
・雷が怖いので、昔の人は雷が鳴っているとき上に何かあるんじゃないかと
 想像した絵。風も神。

逆にしたり離すと
・緑は顔がドラゴン。腹の脂肪がすごい。腕がすごい。白と緑は兄弟。
 左右逆にすると下に行こうとしている。
・別れる感じ。緑は生き生きしている。口の開きと、目の見開き具合。
 気合を入れて、何かしようとしている。右はそれほどでもないが少し、
 生き生きとしている。
・逆にすると、協力感が強まり、上に戻ろうとしている。
・ 離すと、逃げようとしている。


ゲームの影響が多分にあるようです。
両者を戦っている、戦闘ととらえ、
風神の袋には攻撃の道具が入っているというのは、
まさにゲームの武器を獲得したような発想。
かと思えば、仲良しと捉えたり、
ダンベルでダイエットしていたり、筋トレだったり・・・
歯の白さに着目していたりと、中学生の世相も表しています。
物の感じ方って、こんなにもユニークなんだと思わされました。

その一方、「風神、雷神が何をしているのか、何者なのか・・・・」
なんてこと、一切考えることもなく、ただただ、3者の違いだけに
焦点をあてていた見方の狭さに愕然。

鑑賞における言葉の投げかけ、何を観たらいいのか・・・・
何に着目して鑑賞するかという指南をしてもらうということは、
いかに大事なことなのかと感じました。

そして、1年生、2年生、3年生の感想を見ると、
鑑賞の深さの学年の度合いの違いはあるけども、
どの学年でもそれぞれの受け止め方があり、
小学5年生でも実施できるそう。

こんな授業を受けていたらなぁ・・・・・
美術作品に対する鑑賞方法が、早いうちから変わったのだろうなと思います。

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この対話式の鑑賞の授業はいかに生徒の声を拾い上げて、作品への多様な見方や思いを交流していくかが課題である。生徒の声をいい悪いではなく、全て認めていくとことで多様な思いを言いやすい雰囲気をつくりだし、お互いに認め会える環境を作る。その上で、さらに深い鑑賞に結びつくような教師側の働きかけをおこなっていく。
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まさに、芸術に正解はないのです。


だから、何を感じてもいいのです。
風神、雷神の乳首が1つしかない・・・・ 
描かれた乳は、垂れている・・・・ っていうことだって(笑)

ちなみに、同じところに気づいた人がいました!
  ⇒風神の⦿



先生が、この鑑賞を通して育みたい資質や能力
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作品に直に向き合いじっくり観察することにより作品の本質に迫ろうと判断し思考する力
作品との対話、他者との対話、そして自分との対話を通して、作品に対して
 今、ここで自分なりの意味を生成する力
他者の気づきや発言から自分にない良さや、新たな視点に気づく力
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私が感じ初めていたことを、くっきりはっきり
言語化していただけたような気がしました。


庄子 展弘先生のブログを見たら、講演会のメモがあったので、それを転記。
  ⇒感性や創造性をはぐぐむ造形教育 より

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「感性や創造性をはぐくむ造形教育」と題した村上尚徳先生の講演。
 ノートに記録したメモから、キーワードの抜粋。

・義務教育に図工・美術がある以上、日本国民全ての人に将来必要な力を育成しなければならない。
・心豊かに生きていく力が大切。
「感性」とは、「あっキレイ」という心の中の動き、感じ取る力
 この力は先天的な要素もあるが、その後の教育で育まれるもの
 このとき重要なのが、言葉の働きである。
             ↑
           ここ、重要!!

・「言葉」と「体験」を関連させる。豊かな体験によりイメージが広がる。
・落ち葉を見ながら、色の三要素と関連づけるなど、造形の言葉を使って視点を増やす
 これが、感性を伸ばすことにつながる
図工や美術を通して、子供たちにどんな力を育成しているのか
 学習指導要領の教科目標に注目しよう。キーワードは「感性」、「創造」

「美しさは見る人の心の中にある」

・共通事項のアは「造形要素」について、イは「イメージ」について。
  アは一つ一つの要素について、言うなれば「木を見る」こと。
  イは全体をみること、つまり「森を見る」こと。

・「もの」じゃなくて「こと」を描く。
 「お母さん」を描くのではなく、「お母さんとの思い出」を描く。
「つくる喜び」と「つくり出す喜び」の違い
   前者はプラモデルなど、
   後者はその子が生み出す表現。再現ではなく表現である。
・「手を作ろう」ではなく、「○○な××を作ろう」。
・自分で表したいことを見つける。
・自分の表現意図を語る(記述させる)。
 見ただけではわからないことがある。
 (子供たちは主題を生み出し、工夫して表現する。それを鑑賞して
 (話しを聞いて、視点をもって見て)共有する。)当然上手くなくてもOK。
・「中学3年生で美術や音楽を選択教科にしてはどうか」という声にどう反対するか?
 その年代にしかできない学習がある(必要な学習がある)ことを実証する。
 具体的には仏像彫刻の鑑賞など、中学3年生ぐらいで価値を理解できる。
 心の内面やものの本質への理解の成長が著しいこの時期こ重要。
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その年代にしか学習できないことがある。
しかし、それを指導する教師によって、引き出せるかどうかの差がある。
すべての教師がこのような指導ができるわけではない。

私は、美術教育でこういう指導をされた覚えがありません。
中学の時、美術は大嫌いでした。
でも、こんな授業、受けることができていたらな・・・・と思います。

しかし、いくつになっても遅くはないということがわかりました。
そういうきっかけを自分でみつけたり、あるいは、人からもらったり。

まさに「言葉の働き」
こういう言葉の働きに出会えるかどうか・・・・



■何もわからない絵画をどうやって観たらいいのか
感性はいかにすれば磨かれるのか。
ずっと追いかけていたのですが、その納得できる答えを
示してくれる人はいませんでした。
これは、天賦の資質・・・・
そう結論づけようとしていたところに、
ある本の中で、次のような言葉に出会いました。
(記憶でうろぼえ)

  後天的に感性を高めようとするなら、基礎知識を身につけること。

  感性とは知識だ!  という言葉でした。


絵画にはいろいろな見方あり、感じ方があっていいもの。
しかし、どうやって感じたらいいのかわからない
という期間が長かったのです。
いくら見たって何も感じない・・・・

絵画や音楽をまえにして、何かを感じるためには・・・
時代背景、作者の生い立ち、作品の成り立ちなどなど・・・・
もろもろの基礎知識があると、作品に対してなにがしかを
受け取ることができるのだと書かれていました。

疑問がわくということも同じ。
ベースとなる知識があるからこそ、疑問というものが湧き上がる。

感性を磨くには、知識を身につける

感性は天賦の才能なのではなく
知識を身につければ、磨かれるというのは、一筋の光でした。

数を見ていくと、感性が磨かれるという意味もだんだんわかってきました。
ただ見ているだけではダメなんです。
その絵がどういう絵かという基礎知識も入れながら観る。
それが蓄積されてくると、あの絵がああだったから、
この絵はこういうことかもしれない・・・・
でも待てよ・・・ ここはおかしくないか・・・・

そんなふうに変化すつことが実感できるようになったのでした。



「対話による鑑賞ガイドブック」についてより気になったことをピックアップ
「はじめに」
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プロジェクタから投影された美術作品の画像に目を向けながら活発な発言が交わされ,先生が取りまとめながら対話を進行する。
作品解説が中心であった美術館のギャラリートークにも,観衆との対話を重視する傾向がみられます。

私たちが取り組んでいる対話による美術鑑賞は,学習者が主体的に学ぶ授行。学習者が発見し関心をもった課題を全員で考え,共同で知識を構成。
教育方法としては目新しいものではなく,他の教科ではよく見られる方法だが,美術の授業としては根付いておらず画期的。

作品に対する自分の見方,感じ方や考え方を他者とコミュニケーションし,対話を通して個々の見方や価値意識を深めたり広げたりすること。

意見の交流を通して自己の相対化他者理解が促される経験は,心の教育や人びとの相互理解が求められる昨今,極めて重要な教育的経験であると考えている。

言い換えれば,対話による鑑賞は,ただ美術そのものを理解するのではなく,美術を通してこの社会を豊かに生きる力を育てようとする,いわば美術を通しての人間形成をめざす教育方法なのです。

柔軟な見方や自由な発想による発言は,教師の予測を越える。自分の生活や経験をたどるような微笑ましい発言もあれば,人生や社会に対する深い洞察に驚かされることもあります。

ピカソの〈ゲルニカ〉で真っ先に発言した少年が対話のリーダーシップをとっていた。その少年はふだんの授業では発言もせず目立たない存在だが,この鑑賞の授業のときは別人のように生き生きしていた。

児童・生徒は本来,自分の思いをみんなに伝えたい,自分の考えを聞いてもらいたいという願いをもっている。作品を見て話す,みんなで考えるという活動は,こうした学びの欲求にうまく合っている。きっかけさえあれば児童・生徒は語り出します。そして美術作品との出会いはそれを可能にするのです。
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美術の鑑賞を通して得られる自己の相対化というのは、
物事を客観的に見ることにつながります。

食べログで言えば、自分の味覚が絶対ではない・・・という
大前提を元に、自分の位置づけ、相対化ができるということ。

そして他者理解が促されるというのは、
いろんな味の好みがあって、人によって違うということを、
言葉の上だけでなく真の意味として受け入れること。

これらの力は、世の中を生き抜いていくために必要な
根源的な力で、学力や知識とは違う、自分で考える力だと
言えると思います。

美術なんて大嫌い!
どうやって鑑賞したらいいかわからない!

と長きに渡って思ってきたのですが、
よき指導者や、よき「言葉」に出会えると、
開眼できるものなのだと・・・・
そして、それは年齢に関係なく、
その出会いさえあれば、いつからでもスタートできる
ということなのです。


以前、美術館でメモをとりながら、鑑賞していたら、
「何をメモしているんですか?」と2回に渡って声を
かけられたことがありました。

この人は、なんなんだ・・・と思ったら、
「美術教育について、研究をしていて、
 美術館を見ている人をウォッチするのが好きなんです」
と言われていました。

こういう研究会で、いろいろ模索されている方だったんだなと、
思い出されました。


そして最近、感じていたことが、この中にありました。

・共通事項のアは「造形要素」について、イは「イメージ」について。
  アは一つ一つの要素について、言うなれば「木を見る」こと。
  イは全体をみること、つまり「森を見る」こと。


「木を見て、そして森を見る」


ずっと長い間、いろんな「塩」を見てきました。
それは、一つ一つの、塩が持つ要素を見ていただけで、
「木」を見ていただけだったのです。

ところが、いろんな「木」を見ていると、次第にその「木」は、
何か特徴やグループのようなものがあることが分かってきます。

すると、「木」だけを見ているだけではダメで、
総論的な「森」全体を見ないと、塩というモノを理解することができない。
ということに気づき始めました。


与えらえて学ぶ学生時代の学習は、総論の「森」を見ることから始まります。
だからつまらない。なんの興味も湧きません。
しかし、大人になってから興味がわくことは、
一本、一本の木のおもしろさに、興味を持ちます。
そこで、他の「木」も探して歩き回わるのですが・・・・

ところが、ただ探していただけはよくわからなくなってしまうのです。
そこで必要を感じてくるのが、総論的な「森」全体を俯瞰して見る視線。

学生時代に体系づけられた専門的な学習をしてきた人の強みは
ここにあるのだだと思います。
その時は、いやいや学んだことだったかもしれないのですが、
全体を俯瞰した「森」の全体像が、ある程度、見えているわけです。

ところが、趣味で初めて興味は、
最初のうちは、「木」だけしか見ていないことが多いと思われます。

これまで、興味のある絵だけを見てきて、
まさに、そのことを感じさせれていたところでした。

学生時代に美術史なんて学んだとしてもきっと退屈で、
面白くもなんとなかったと思うのです。
でも、今、その総体的な知識がベースにあるかどうかが、
作品を理解する上で、とても大きな要素になるということが、
なんとなく見えてきました。

 「木」と「森」
 「部分」と「全体」
 「ミクロ」と「マクロ」
 「演繹」と「帰納」

そうした両方からのアプローチが必要だということ。
でも、興味を持ったことしか、関心がないから、
その時、その時の興味に応じて、マイペースでいけばいいやと(笑)



ちょっと気なっているテーマのストック
オリンピック問題と授業づくり


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