立ち食いそば界の桑田真澄(三本柱) : ゆで太郎 関内本町通り店

この口コミは、虎刈り若大将さんが訪問した当時の主観的なご意見・ご感想です。

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3.3

~¥9991人
  • 料理・味3.3
  • サービス3.3
  • 雰囲気3.3
  • CP3.3
  • 酒・ドリンク-
2018/02訪問1回目

3.3

  • 料理・味3.3
  • サービス3.3
  • 雰囲気3.3
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  • 酒・ドリンク-
~¥9991人

立ち食いそば界の桑田真澄(三本柱)

さて今日は、立ち食いそば界の桑田真澄(三本柱)の名を欲しいままにし、数々の栄光と挫折を経験した立ち食いそば界の三本柱 ゆで太郎 関内本町通り店にやってました。なぜこのゆで太郎が立ち食いそば界の桑田真澄(三本柱)と言われて久しいか。それは立ち食いそば界に存在する3大巨党の1角を担い、常に球界(立ち食いそば界)をリードし続けてきたこと。また積極的に地方進出を展開していることが、桑田真澄がメジャーにチャレンジした姿と酷似するからに他なりません!ちなみに、立ち食いそば界の三本柱の他二本は斎藤雅樹(小諸そば)と槙原寛巳(富士そば)ですが、正直個人的に富士そばは…です。

さて、桑田 真澄18 ですが、大阪府八尾市出身 右投右打の投手であり、学位はスポーツ科学修士。高校野球甲子園戦後最多勝利数投手で、ゴールデングラブ賞を投手最多タイ記録となる計8回受賞しています。 PL学園高校時代は、清原 和博3 との「 KKコンビ 」でチームをけん引し、甲子園通算20勝の戦後最多記録を保持します。 2007年にピッツバーグ・パイレーツで現役を引退してからは、フリーランスの野球解説者として活動するかたわら、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程で修士を取得。また、指導者講習会を主催する特定非営利活動法人「アミーチ・デル・クオーレ」 理事長、ボーイズリーグの麻生ジャイアンツ会長、東京大学運動会硬式野球部の特別コーチのほか、日本野球機構 「 統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会 」の特別アドバイザー、PL学園硬式野球部OB会会長を務めます。
小学2年次、町内会の「 はやぶさ子供会ソフトボールチーム 」でソフトボールを始め、4月1日生まれのため、同学年で一番若いというハンデをものともせず、6年生主体のAチームでショートのレギュラーポジションを獲得。3年生からはボーイズリーグの八尾フレンドに所属し、父・桑田 泰次 により創意工夫された練習や特訓なども行います。 5年生からは主戦級投手として活躍します。 1980年4月、八尾市立大正中学校へ進学後は、中学の野球部に所属し、準硬式の試合に出場。入学直後に外野手・一塁手としてレギュラーとなり、秋から主戦級投手として活躍します。2年次には、第32回大阪中学校優勝野球大会で優勝した守口市立八雲中学校に0-1で惜敗。3年次は、出場した春の中河内地区大会、大阪府大会、八尾市大会、第33回大阪中学校優勝野球大会の全てを制覇しています。 大正中学時代は、後にプロに進んだ西山 秀二 とバッテリーを組みます。 桑田 真澄18、 西山 秀二 を擁する大正中は、投打とも群を抜く強さと言われ、また大会50周年記念誌には、「 桑田 真澄18 の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、桑田 真澄18 を物語る逸話が掲載されます。西山 秀二 は「 140km/hくらいの球を、中学生の頃から放ってたね。すんごいコントロールしとったよ。ミットを構えた所にしか、ホンマにボールが来なかった。プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、『桑田 真澄18 はこんな所に来ぃひんかったもん。中学生でもそうなのに、なんでプロが出来へんの?』と聞きましたよ。誰も打てんかった。高校野球で、1年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールやった。ずーっと野球やってきて、総合的に桑田 真澄18 が一番凄いと思う。俺の中では歴代ナンバーワンのピッチャーは桑田 真澄18 」と語っています。 進路方針等で学校側と揉め、3年生3学期に八尾市立成法中学校に転校し、同校を卒業。 1983年4月、PL学園高等学校に入学します。 PL入学直後は、「 4番は清原 和博3 、エースは田口 権一 」が既定路線で、桑田 真澄18 は「 お前はあっちに行っておれ 」という扱いでした。 中学時代の実績を考慮され、私学大会などで登板機会が何回かありますが、いずれも痛打され、監督から外野手転向を言い渡されます。 失意の中、ある日、母親が練習を見に来た際に「 もう投手ではダメなのでPL学園を辞めようかと思っている 」と打ち明けたますが、母は「 補欠でもいいから投手として3年間、PL学園 でやり通しなさい」と返答し、「もう辞めさせてください」と、いつ言いに行こうかと思いながら、汗を流す毎日が続きます。 桑田 真澄18 が入学する前のPL学園は、1981年、1982年と春のセンバツを連覇したが、夏は4年連続で甲子園出場を逃しており、1983年のV奪回は至上命令でした。 この年のPL学園 は投手陣が安定せず、中村 順司監督は、市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝した清水 一夫を臨時投手コーチとして招聘します。 この清水 一夫 が桑田 真澄18 の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き、「おい、凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私が夏までに立派なピッチャーにしてみせる」と発言し、桑田 真澄18 を投手に戻します。 清水 一夫 コーチのマンツーマンの指導が始まります。 清水 一夫 は後に「 下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。だから足腰、膝の使い方を教えた。それだけでよかったんです。腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。毎日、私が桑田 真澄18 の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力。私を恩人と今も慕ってくれているが、私としては『 この子を使わん手はない 』 とコーチとして考えただけのこと。」と述懐しています。

6月にレギュラー組に昇格。夏の甲子園に向けた大阪大会に背番号17番で 清原 和博3 、田口 権一 とともに1年生としてメンバー入り。打撃も買われての、投手兼外野手としての登録でした。 大阪大会において、さして強いとは思えないチーム相手に、よたよたとした試合展開でやっと勝つPL学園 の有様を見かねた清水一夫が、4回戦の大阪スタヂアムでの吹田高校戦前に「もし桑田 真澄18 を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田 真澄18 や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村 順司監督 へ桑田 真澄18 先発を進言。当初、中村 順司 は難色を示しすも、清水 一夫 の並々ならぬ自信と迫力、そして投手コーチとしての力量に、思い切った起用を決意。試合前まで弁当配りやバット運びをしていた1年生 桑田 真澄18 の公式戦先発デビューが急遽決まりました。 試合前は味方チームにもかかわらず上級生は桑田 真澄18 を一人にし、「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、「お前がおるからあかんのや」と桑田 真澄18 を苛めます。 この試合、清原 和博3 が公式戦初本塁打で桑田 真澄18 を援護し、桑田 真澄18 は相手打線を散発2安打に抑え、完封します。
決勝での先発は田口 権一 でしたが、田口 権一 が試合中に負傷で退場したため急遽マウンドに桑田 真澄18 が上がり、相手打線を抑えてチームを甲子園出場に導きます。 以降は田口 権一 は調子が戻らず、桑田 真澄18 がエースに定着。夏の甲子園では、1年生で背番号「11」ながら同校の事実上のエースとして出場し、1回戦の埼玉県立所沢商業高等学校戦で甲子園デビューします。 2回戦の大分県立中津工業高等学校戦を3安打完封、初本塁打。準決勝では、水野 雄仁31 を擁して史上初の夏春夏の甲子園三連覇を目指した「 やまびこ打線 」 の徳島県立池田高等学校と対戦。初回池田打線に立て続けに良い当たりをされた時は背筋が寒くなり、「何回まで持つかな…」と思ったというも、すぐに「 自分は1年生だし、元々打たれて当たり前。打たれても自分が悪いんじゃなく、あっちが偉いんや。 」と気を取り直し、その後は味方のファインプレーにも助けられそのまま7-0と完封。1-0でリードの二回裏の二死二塁でバッターボックスに立った桑田 真澄18 は、「ホームラン以外で出塁してスタミナ消耗するより、三振でも良いのでフルスイングでホームランを狙う方がベター 」と考え、レフトスタンドに2点本塁打を放ち、水野 雄仁31 から甲子園で初めて本塁打を打った選手となります。 決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手の記録を立てます。 1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は坂本 佳一、荒木 大輔11 のように過去にもあるも、いずれも準優勝に終わっており、桑田 真澄18 はそのジンクスを破ったことになります。 また、この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験します。 帰国後、1年生で優勝し、首脳陣の信頼を勝ち得た桑田 真澄18 は、中村 順二監督に全体練習の短縮化と個人練習の強化、大会後の投手のノースロー調整を中村 順司 監督に志願し、了承されたことから、以降のPL学園の練習方法として定着します。 1984年の2年生での春のセンバツ、夏の甲子園はいずれも決勝で敗れ準優勝。この夏の相手だった取手二高には高校日本代表で一緒になったメンバーがおり、秋の国体後に訪問し、笑顔で野球を楽しむスポーツの原点を再確認して、その後に生かします。 1985年、3年生の春のセンバツはベスト4、夏の甲子園は決勝戦で宇部商業高校を下し優勝。 高校野球激戦区の大阪から甲子園に出場可能な5回全てに出場し、そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝という記録を清原 和博3 と共に打ち立てます。 甲子園での通算勝利数は吉田 正男 に次ぐ歴代2位で学制改革以後は1位の20勝3敗。 また、甲子園での通算奪三振記録 150個 も単独一位であり、通算登板数は25試合で単独一位であり、通算投球回数の197回⅔も単独一位を記録しているなど、多くの記録で1番になっており、以後もこれらの記録は破られてはいません。なお、「 夏の甲子園の優勝投手はプロで大成しない 」と言われますが、桑田 真澄18 がプロで173勝の成績を残したため、このジンクスも桑田 真澄18 によって破られた形となります。桑田 真澄18 はプロに進んだ時のことを考え、ストレートとカーブのみで3年間通します。 ある時、試合でストレートとカーブしか投げない桑田 真澄18 に対して清原 和博3 が「もっと簡単に勝てるんだし、スライダーやシュートもキレてんのに何で投げへんねん?」と問い詰めると、上述のことを言われ「とんでもないヤツと一緒に野球をやっとったんや」と驚愕したといいます。 打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原に次ぐ歴代2位の6本。 高校通算25本塁打。5回の大会の中で桑田 真澄18 ・清原 和博3 のいたPL学園を1失点以内で抑えた投手の田口 竜二、山口 重幸、渡辺 智男はいずれもプロ入りをしています。 また、桑田は高校卒業後には早稲田大学への進学を希望ますが「 スポーツ推薦ではなく勉強の実力で合格したい 」との信念から、夜遅くまで学科の勉強を行います。 野球部の寮にあった「 勉学室 」を桑田は頻繁に利用し、ほぼ常に桑田 真澄18 一人の貸し切り状態であったと、後の2020年に桑田 真澄18 および後輩であった片岡篤史が語っています。
1985年度プロ野球ドラフト会議にて金万球団読売巨人軍から1位指名を受け入団。 桑田 真澄18 は事前に「 早稲田大学へ進学する 」と表明しており、他の球団は桑田 真澄18 への指名を回避しています。 唯一指名した金万球団読売巨人軍が、くじ引き抽選なしに桑田 真澄18 を獲得した格好となり、「桑田 真澄18 と金万球団読売巨人軍との間に密約があったのではないか 」と囁かれ、「 KKドラフト事件 」と呼ばれます。ドラフト後には実家には抗議や嫌がらせが殺到し警備を頼まざるをえない状況にまでなったといいます。 桑田 真澄18 自身は密約を否定した上で、「金万球団読売巨人軍に行かないと言ったことはない。春の選抜が終わった時点で、金万球団読売巨人軍が一位指名してくれたらプロに行こうと決めた。当時のドラフトでは進学を示唆しながらもプロに入団した選手は自分以外にも大勢いる」と弁明しています。 また、2020年には「 金万球団読売巨人軍から裏金を受けたことはプロ入り後にもわたって一度もない。指名されたことは予想外であり、当時の私は体格的にも技術的にも大学を経てからプロ入りすべきだと考えていた。だからこそ進学のために勉強を続けていた 」と語ります。 桑田 真澄18 は以前から金万球団読売巨人軍ファンであったが、「 PL学園、早稲田大学、金万球団読売巨人軍」という経歴が目標だったといいます。 一方で「心の底には『 清原 和博3と一緒に金万球団読売巨人軍に行ければいいな』という気持ちもあった」と述べています。
なお、ドラフト当日には金万球団読売巨人軍以外の3球団が「桑田 真澄18 を1位指名する予定だ」と桑田 真澄18 の父へ伝えており、桑田 真澄18 は父へ「 早稲田へ行く 」と告げたといいます。 しかし、その3球団は実際には清原 和博3 を1位指名し、結果的に金万球団読売巨人軍だけが桑田 真澄18 を1位指名したと、のちに桑田 真澄18 が明かしています。

ドラフト当日のインタビューで金万球団読売巨人軍監督の王 貞治1 は「 チームの状況を考えれば補強ポイントは投手。投手と言えば桑田 真澄18 」「 時期は言えないが、ずっと前から桑田 真澄18 一本で行こうと決めていた」と、指名はドラフト当日の気まぐれな決断ではないことを明かします。 桑田 真澄18 で行こうと決断したポイントとして、「状況に応じたピッチングが出来ること」、桑田 真澄18 の印象に残るプレーとしては、1985年春の「第57回選抜の天理高校戦でトリプルプレーを決めたこと」を挙げています。

プロ入り前後は本職の投球だけでなく、打撃や守備も優れていた桑田 真澄18 について野手転向を薦める者も多かったが、球団と桑田 真澄18 の意向から転向はせず、投手として1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾ります。 2年目の1987年7月8日、札幌市円山球場での広島東洋カープ戦で、自らの3点本塁打と適時打でチームの全4得点をもたらした上で、プロ初完封勝利を挙げます。 2号本塁打は9月1日の後楽園球場での中日ドラゴンズ戦で、前回の対戦で無安打無得点試合を達成した近藤 真一1 からソロ本塁打を打ちます。 近藤 真一1 にとってはプロ5試合目の登板で初の被本塁打で、5失点で初の敗戦投手にもなります。 このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれます。 また、堀内 恒夫18 以来の10代での2桁勝利となります。 同年の日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、いずれの試合も自らのエラーで自滅し、序盤で降板します。 1988年には、球団史上最年少の20歳0か月で開幕投手に抜擢されます。
1989年からは監督の藤田 元司18 独特の先発理論にもとづき斎藤 雅樹11、槙原 寛己17 と共に3人の先発の軸として使われ「 三本柱 」と称されます。 2年連続で開幕投手に指名された1989年は開幕から負けなしの5連勝スタート。自己最多の17勝を記録した。近鉄バファローズとの日本シリーズは、第2戦こそ敗戦投手になりますが、第6戦に勝利投手になってチームの日本一に貢献します。 1990年2月、中牧 昭二 によってスポーツ用品メーカーとの関係を暴露する内容の書籍『 さらば桑田 真澄18 、さらばプロ野球 』を出版されたところ、その中で、桑田 真澄18 が親しくしている会員制メンバーズクラブの社長に登板日を教えたらしい旨の記述や会員の勧誘に成功の報酬として現金をもらう記述があり、さらに同社長がかつて常習賭博罪で有罪判決を受けたことも明らかになったため、桑田 真澄18 が野球賭博に関与しているのではないかとの憶測を招き、その件も週刊誌やスポーツ紙等で騒がれることとなります。 当初、桑田 真澄18 は登板日漏洩の事実と金品の授受の事実をいずれも否定しますが、その後それが虚偽であったことが判明。 そこで、金万球団読売巨人軍は、3月30日、桑田 真澄18 に対し、金品の授受等が統一契約書17条に反するとして、シーズン開始後登板禁止1か月、罰金1000万円の処分を下します。 この件は、国会でも採り上げられるなど社会問題化します。 中牧 昭二 との間では、野球賭博には関与していないことが確認されています。 もっとも、謹慎後は2試合連続完封でシーズン復帰するなど、1か月の遅れをものともせず勝利数・防御率ともに同僚の斎藤 雅樹11 に続いてリーグ2位と活躍します。 日本シリーズは第3戦に先発し、初めて完投したが、7失点と打ち込まれ敗戦投手になります。 1991年は、前年6人で80勝を挙げた先発陣が軒並み不調に陥る中で孤軍奮闘し、あらゆる項目でチーム内トップとなる成績を残します。 しかし、1992年は6年連続2桁勝利を記録したものの不調に陥り、6月から7月のチーム10連勝、4連勝、7連勝をいずれも桑田 真澄18 が止めてしまい、テレビや新聞にて連勝ストッパーと名付けられます。

長嶋 茂雄3 が2度目の巨人監督へ就任した1993年も前年に続いて打線の援護に恵まれないこともあって精彩を欠き、野手転向論が再度沸くようになります。 この時期の不調に関して、当時セ・リーグの審判だった田中 俊幸 の著書「 審判だからわかること 」によると「 低めの球に伸びがなく、それまでストライクとコールしていた球が外れるようになっていた 」といいます。1994年シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185の成績を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。シーズンを通しての活躍でセ・リーグ最優秀選手に選出されます。 8月13日の阪神タイガース戦では、セ・リーグタイ記録の16奪三振で完封。また、10.8決戦で、7回から救援登板、9回までを無失点に抑えて胴上げ投手となります。 1994年の桑田 真澄18 について、投手コーチであった堀内 恒夫18 は、「 投手としての絶頂期だった 」と振り返っています。

1994年10月5日、神宮球場での我らが東京ヤクルトスワローズ戦に先発登板した際は、8回二死までノーヒットノーランに抑え、投手コーチの堀内 恒夫18 の指示で、8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板。7日夜、宿舎で監督の長嶋 茂雄3 から呼び出され、「 しびれるところで、いくぞ 」と言われて、意欲満々で試合当日に臨みます。当日8日は、試合前の練習時に、桑田 真澄18 が金万球団読売巨人軍投手陣の鍵を握ると見たファンからの熱い声援を受けて、15分くらい涙が止まりません。 試合開始し、初回からブルペンに入りますが、「 体は、疲れでバリバリ 」という状態でした。 7回3点リードの状態から登板し、「(準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった 」と述べる状況でした。 8回先頭打者のPL学園の後輩で同室だった立浪 和義3 が一塁ベースに執念のヘッドスライディングで左肩を痛めて負傷退場となりながら内野安打としたシーンに感動したことを認めます。 9回裏二死 小森 哲也を大きなカーブで空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えてセーブを挙げます。『 ベースボールマガジン 』2009年3月号は、「(最後の打者が三振の)直後の桑田 真澄18 のガッツポーズは多くの野球ファンの記憶に刻み込まれているはずだ」と記述。試合前に涙を流し続けていたので、試合終了後は特に涙は出ませんでした。 1994年の日本シリーズでは、第1戦で序盤に打ち崩された後は、第3戦で終盤の救援登板でセーブを挙げ、第5戦で先発登板して完投勝利を挙げ、1勝1敗1セーブでした。桑田 真澄18 は、本当に金万球団読売巨人軍のエースとして認められる一方、1994年終盤の酷使から、下記の肘の手術に入っていくという分岐点として、10.8決戦を振り返ります。
1995年5月24日の阪神タイガース戦で、3回表に湯舟 敏郎 の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に右肘を強打し、その後も6回途中に降板するまで遜色無い投球を続けていたが大事を取って二軍調整となります。 6月15日の阪神タイガース戦にて約3週間ぶりの一軍先発するも、初回から失点するなど精細を欠き5回には走者がいない状態で相手投手に四球を記録し次の打者を打ち取ったとこで自ら降板を訴え交代。 後日、肘の精密検査をしたところ、側副靭帯断裂の重傷を負っていたことが判明。治療のため、自身の左手首から健全な靭帯を移植するトミー・ジョン手術を受けることを選択し渡米します。

1995年シーズン残りと1996年の全シーズンを棒に振り、1997年4月6日の試合で661日ぶりに復帰。カムバックの際、マウンドにひざまずきながらプレートに右肘をつけたシーンが取り上げられたが、バント飛球に対し迷わずダイブする桑田 真澄18 の姿もあります。 復帰した同年は球数制限があったこともあり完投は無かったが、2年ぶりに規定投球回をクリアし、勝ち星も10勝を挙げます。 1998年の我らがヤクルトスワローズとの開幕戦で9年ぶりに開幕投手を務め、9回二死から金石 昭人 の救援を仰ぎ完投は逃しすも、勝ち星を挙げます。 この年は最多勝争いに加わる16勝を挙げたが、1勝差で川崎 憲次郎17 に及ばず。 前年は100球限定での登板だったが、この年は球数制限もなくなり、復帰後初完封を含む7完投を記録します。 1999年は開幕投手を務める予定でしたが直前に風邪を引いてしまい登板を回避。桑田 真澄18 は二戦目に登板しますが2回途中ボーク絡みで6失点KOされ、次の登板は中14日も空きます。 その後はローテーションを守るも勝ち星に恵まれず先発としては7勝9敗防御率4.23の成績に終わります。 リーグ終盤には抑えの槙原 寛己17 の救援失敗が目立ち、10.8決戦以来となる公式戦救援登板に回ります。リリーフとしては9試合に登板し1勝0敗5セーブ、防御率0.00の好成績を挙げます。 2000年は開幕ローテーション入りしますが、不振で6月から先発から外され、残りのシーズンはリリーフ登板となります。 槙原 寛己17 が故障離脱したこともあり、再び抑えを担当したが前年のような安定感は無く、岡島 秀樹 が入れ替わり抑えに定着。チームは4年ぶりにリーグ優勝を果たします。日本シリーズでは、第二戦にチームが大量リードされた8回から登板、2回を無失点に抑えたがこの登板のみで終わります。 2001年も開幕ローテーション入りしたが不調で、以降は先発の谷間と中継ぎ登板となり、4勝5敗の成績で終わります。同シーズン終了後、金万球団読売巨人軍の一時代を築いた斎藤 雅樹11、槙原 寛己17、村田 真一9 などのベテラン勢が引退し、長嶋 茂雄3 も監督を勇退します。
2002年からは原 辰徳8 が金万球団読売巨人軍の監督に就任し、桑田 真澄18 は前年オフに引退を決意しますが、原 辰徳8 から「 来年も一緒にやろう 」と声を掛けられ、現役を続行します。 この年は古武術を応用したトレーニング、投球フォームを取り入れたのが功を奏し、4年ぶりの2桁勝利を果たします。 15年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献します。 規定投球回に到達しての防御率2点台は1994年以来8年ぶりでした。 西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦に先発し、7回1失点で日本シリーズでは1994年の第5戦以来の勝利投手となります。 チームはストレートの4連勝で日本一に輝きます。 なお桑田 真澄18 にとってはこの年が最後のリーグ優勝と日本一となります。 9月18日の横浜ベイスターズ戦では3失点で完投勝利を挙げ、打撃ではシェーン・バワーズから8年ぶりとなるソロ本塁打も放ちます。 完投・本塁打はいずれも現役最後でした。 打撃成績は打率.294で、規定投球回の到達シーズンでは自身最高でした。 2003年には足首を捻挫し、前年のような投球ができず5勝3敗、防御率5.93と不安定な成績となります。 2004年は3勝5敗、防御率6.47の成績に終わり、この年から就任した堀内 恒夫18 監督からは「 俺は晩節を汚さなかった 」と引退勧告ともいえる発言を受けています。 2005年は勝てない試合が続き、12試合に先発し0勝7敗、防御率7.14に終わるも、2006年も現役続行が決まります。 2006年4月13日の広島東洋カープ戦で600日ぶりとなる勝利を挙げますが、この試合で走塁中に右足首を捻挫し、同27日の広島市民球場での広島東洋カープ戦では3回途中6失点で降板し敗戦投手となります。 この試合が一軍での最後の登板となりました。 しばらく二軍で調整を続け、原 辰徳8 が視察する8月21日のイースタン・リーグの我らがヤクルトスワローズ戦に先発するも、2回途中に降板。以降、首脳陣から一切声はかからなかったことから、吉村 禎章7 二軍監督に、首都圏での最終登板機会である9月24日、読売ジャイアンツ球場での二軍戦は自分に投げさせてくれるよう懇願します。 本人は「球団が処遇をはっきりしてくれないので、お世話になったファンに金万球団読売巨人軍での最後の登板を知らせるには、これしか方法がなかった 」とし、9月23日に球団公式ホームページ内の自身のページ『LIFE IS ART』で、退団と二軍戦登板を示唆する内容の文章を掲載します。 動向が注目されていますが、11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグベースボールに挑戦することを表明し、結局『 引退試合 』は『 お別れ会 』としてファン感謝デーで行われることとなります。 11月23日に東京ドームで行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ2006」で、「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持ちしかありません…さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」と挨拶します。
2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことが発表されます。 日本人選手初のピッツバーグ・パイレーツとの契約選手となります。 2007年の春季キャンプに招待選手として参加し、キャンプ終盤までメジャーキャンプに残り、開幕ロースター入りを目指します。 3月26日のトロント・ブルージェイズとのオープン戦に登板した際、センター前ヒットを打たれ三塁ベースカバーに入る際に球審のウォーリー・ベルと激突し、右足首の靭帯を断裂します。 この試合は審判3人制で、ベル球審は三塁での判定をするため三塁に向かって走っており、桑田 真澄18 と交錯します。 当面は怪我からの回復・リハビリに努めることを余儀なくされます。 ピッツバーグ・パイレーツは桑田を解雇せず、3Aインディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで、3Aの故障者リスト入りします。 フロリダでリハビリを続け、5月19日にフリー打撃、5月24日に練習試合での登板を経て、3Aインディアナポリス・インディアンズに合流し、6月2日に3Aでの公式戦初登板を果たします。 ピッツバーグ・パイレーツの中継ぎ陣が壊滅状態であったというチーム事情も手伝い、6月9日にメジャー昇格し、6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たします。 39歳70日でのメジャーデビューは当時日本人選手の史上最高齢であり、メジャー全体でも第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次ぐ第3位の年長記録となります。 昇格当初は敗戦処理などでの登板が続いたが、監督のジム・トレーシーから「 大事な場面でストライクが取れる 」と評価を受け、中継ぎとして重要な場面での登板を任される機会が増えます。 しかし打ち込まれる場面が増え、1勝も上げないまま8月14日に戦力外通告を受けます。 退団時は「 何も悔いはない 」「 メジャーリーガーになれた充実感でいっぱい 」と清々しい表情で語るなど引退を示唆します。 2008年1月8日に再びピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、春季キャンプに招待選手として参加することを自身のブログで公表します。 オープン戦では好投を見せますが、若手を起用する球団構想から外れ、メジャー昇格が絶望的となったことを機に3月26日、引退の意思を明らかにし帰国します。 6月にはグリーンスタジアム神戸で金万球団読売巨人軍時代の同僚の吉原 孝介 を加え、清原 和博3 の打撃投手を務め、9月23日に茨城ゴールデンゴールズ主催の引退試合を行います。

さて、立ち食いそば界の桑田真澄(ゆで太郎)の特徴ですが、まずはカーブを軸としたコンビネーション(そば)についてですが、非常に緩急のあるカーブ(こしがあり、特に冷やしに合うそば)が特徴です。落差も激しく(風味もあり)僕は大好きなそばであります!!! 桑田真澄(ゆで太郎)は練習法(そば)にこだわりを持っており、お蕎麦は生き物です。「挽きたて」「打ちたて」「茹でたて」を俗に「三たて」と言い、美味しいお蕎麦の条件とされています。指定の製麺所で丁寧に挽いた蕎麦粉を、毎日店舗で粉から製麺します。手間も設備も必要とする仕事ですが、美味しいお蕎麦を召し上がっていただくために、妥協することなく「三たて」にはこだわりたいと思いました。との思いは、ジャイアンツ球場のフェンス際にできる、桑田真澄のランニングロード=桑田道を思わずにはいられませんね!
次に桑田真澄自身が「サンダーボール」と名付けていたsplit fingered fast ball(だし)ですが、銚子の醤油・鮮度にこだわった厳選の削り節・流山のみりんとこだわりが見え隠れしています。江戸流は鰹を基本に、宗田鰹や鯖などの“節”から煮出します。ダシは鮮度、ゆで太郎では焼津や枕崎など厳選した原材料をブレンドし、毎日お店で何回も煮出しているほどです。
そして何と言っても桑田真澄(ゆで太郎)の特徴は安さ!でしょう。これはたくさんの人にゆで太郎を食べてほしいと言う思いが安さに繋がっているのです。2014年12月に、(株)ゆで太郎システムだけで100店舗、信越食品(株)を含む、ゆで太郎グループ全体では150店舗となりました。2020年には300店舗を目指すその姿勢が、東京読売巨人軍退団後、海を渡りメジャーでの活躍を夢見た真の野球人 桑田真澄と酷似してなりませんね!

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店名
ゆで太郎 関内本町通り店
ジャンル そば
お問い合わせ

不明の為情報お待ちしております

予約可否

予約不可

住所

神奈川県横浜市中区本町3-24-1

交通手段

馬車道駅から295m

営業時間
    • 07:00 - 23:00

営業時間・定休日は変更となる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。

予算(口コミ集計)
~¥999

利用金額分布を見る

支払い方法

カード不可

電子マネー不可

席・設備

個室

貸切

不可

禁煙・喫煙

全席禁煙

駐車場

特徴・関連情報

利用シーン

ホームページ

http://yudetaro.jp

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