『直島:家プロジェクト「きんざ」 ネタバレ後、2度目の体験は?』コロコロさんの日記

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直島:家プロジェクト 「きんざ」 10年前の体験 からの続きです。

(ネタバレしてますので注意)


■案内方法が変わった?
前回訪れた時は、10分前に集合が原則だった記憶があります。
ざっと、調べてみたところ、やはり以前は、10分前に集合だったようです。
そして、「渡される作品案内には、静かに待つ時間も体験の一部です」
と書かれていたとありました。

そうなんです。
予約時間の少し早めに到着し、椅子に座って待っている間に、
注意書きを読まされました。
そして、心をおちつけ、周囲を観察しながら、
鑑賞モードにしていくという時間があったのです。


今回は、息咳きって到着し、そのままの流れで、鑑賞へ突入。
自分の手でドアを開けます。入り口の前に立ったまま説明を聞きます。

「前に棒が立っていますが、それより前には出ないでください。」
「真ん中にある椅子で鑑賞してください」
「四隅にビー玉があります。これも作品の一つです」
「中央に立っている棒も作品です」
「では、時間までご鑑賞下さい・・・・・」と


オペレーションが変わったようです。
それは、南寺や、他の鑑賞の時にも感じたことなのですが、
10年前と比べて、いろんなことが端折られ簡略化されています。
それによって、鑑賞の印象までも変わってしまいます。

「きんざ」については、待ち時間をなるべくなくして、ショートカットした感じです。
15分の鑑賞時間に、10分の待ち時間。それに合わせて余裕を持って行動すると、
なんだかんだと一人につき30分ぐらいの時間がとられます。
それを2人で参加したら、4人家族で参加したら・・・・

おそらく、クレームが来たとか?
効率よく回せと・・・・・


事前の予備時間が「ある」「なし」 の両方を経験しましたが、
やはりここは、おちついて期待に胸ふくらます時間というのも必要かなと
私は思いました。
ただ、リピーターも増えてきて、2回目という人も増えつつあると思うので、
予備時間は、カットされてしまうのでしょうか・・・・



■作品の案内役
以前、案内された方は、地元のおばあさんでした。
おばあちゃん、作品こと、わかってるのかな? 
ちょっとしたミスマッチ感が漂っていました。
ただ単に事務的に、人を流しているだけ・・・という感じがなきにしもあらず。
しかし、この町の中で雇用を生み、こうして島民がプロジェクトに
何らかの形で携わっているというのは、新たな形なんだな・・・
なんてことを思っていたのでした。


しかし、もう何年かしたら、地元の人たちもいい感じで、
アートと融合して、洗練(?)されてくるのかも?
というか、「えっ? おばあちゃんが、この作品のことを語っちゃうの?」
という驚きとともに、そのミスマッチ感がいい味になるんだろうと想像していました。

今回は、お若い方で、ボランティアの方でしょうか?
てきぱきと速やかに案内されていました。



■どこまで説明をする?
ところで、案内の段階で、肝となる部分の解説がされています。

「ビー玉があります」
「棒も作品です」

そんな説明は、以前はされませんでした・・・・・
あまりにわからなすぎる作品だから、補助解説をするようになったのでしょうか?

ビー玉があること。それは、
自分で気づいて、考えないといけないのではと思うのですが・・・・
最初から、教えちゃうんだ・・・・(笑)


そんなことを思いつつ、中央の切り株のような低い椅子に座りました。



■前回のリベンジ・・・・・
床面に置かれているものは何か
高速スキャンするように、端から確認していきました。
前回の鑑賞で、思い込みによって無駄にしてしまった時間を取り戻すかのように(笑)

そして、下部のスリットから入る光は、自然光であることは、もう知っています。
今回、気づいたのは、奥の隅から、光が放射状に広がり
壁に反射させながら拡散していました。
この光、お天気によても変わるし、朝と昼、夕方でその方向が変わるってことね・・・・


そして床に置かれているもの・・・・・
以前は、もっといろいろあったような気がするんだけどな・・・

そして、天井を見上げると・・・
ドラムのような筒を見て、そうそう、これこれ。
この中を何かが、すり抜けたり、風が吹いたりするのだと最初は思っていたわけです。
でも、そんなことはおきないこと、私はもう知っています。 ハイ、次!

天井のつりさげ物、前よりも少なくなったような気がします。
もっといろいろあったような・・・・
つりさげられた物が風が吹いてきてゆれるのかな? とか、
このワイヤーをつたって、小物がスルスルすべって動くのかな? 
なんて思っていたのですが、そのワイヤーが認識できないのです。

思ったほど、物が置かれていない気がします。


なんだか何かに急かされているみたいに、
すごい勢いで、流れ作業のごとく、この建物の中を目でぐるぐる巡回していました。
何が設置されているのか、10年前に見逃したものを、今洗い出しているかのように・・・(笑)



■内部が荒らされた?
前回と比べて設置物が少ない気がする・・・・

そうか・・・・
「きんざ」は、内部を荒らされて修繕されていたと聞きいています。
改修されて復活したと思っていたのですが、全ての修繕が終わっていないんだ・・・
10年前にあったものが、まだすべて再現されていないということなのね。
それにしても、それらの設置ってそんなに時間がかかって大変なことなのかしら?

と思いつつ、ここの中を荒らすってどういう神経なんだろう・・・と、
荒らしてしまった人のことを考えていました。
ここには一人でしか入れません。
こういう場所の器物破損って、一人でできるものなのでしょうか?

物を壊したりというのは、集団心理によってそういう行為に至るものだと思います。
一人、ここに閉じ込められた状態で、そういうことをする感覚になるものなのか。

また、鑑賞後、内部チェックはしていたのか。
信頼関係で成り立っていて、そんなことはしていなかったとか・・・・

何人かのグループが連続で予約し、一人ずつ、何か手を加えたとか?
と内部を荒らしたという人たちの心理に想像をめぐらしていました。


前回と違って、余裕があります。
床に置かれたものはほぼ確認ができました。
ちょっと時間を持てあましぎみ(笑)
あとは、何を見ればいいのか・・・・


■定位置からの見方を変える
「鑑賞は椅子で」と言われました。
これは、左右に動いて見てはいけないということを意味するのでしょうか?
もし、動いてブザーでも鳴ったら・・・・と思い、それは避けました。

「椅子のところで」と言われましたが、(そう思おうとしてる? (笑))
「座って見るように」と言われましたっけ?
座ってとは言われなかった気がするので、立って見るというのはありかも。

そこで、鑑賞時間の終盤になって「時間です」と突然、開けられて、
立っている姿を見られたら、怪しまれてしまいそうなので、
早い段階で立った状態て鑑賞してしまおう。
そして、何事もなかったかのように座って待機すれば問題なし(笑)



◇立って見る
これは、不思議な感覚でした。
ひととおり、何が置かれているのか、確認済みだったはずなのですが、
それまで見えなかったものが見えてきました
特にサークルのある奥の方に、いろいろなものが存在しているのが見えました。
視点の高さが変わると、見えるものがこんなにも変わるものなのですね。

そして「前を向いて鑑賞してください」とも言われていなかったはず。
そこで、指定の位置を保ったまま、立った状態で後ろに振り返ってみました。
すると、天井から小さなピンポン玉のような白い球体
ぶら下がっていることに気づきました。
こんなところにもぶら下がっていたのか・・・・

そして座るとそのピンポン玉は、丁度、頭上の位置となり、視界には入りません。
しかし頭の上から、何かエネルギーのようなものが注入されているような気分。



■後ろを見てもいいよね
そして、椅子に座わったまま、回転して一巡して背後を見てみました。
四隅に置かれたビー玉が光を通して、様々に変化していきます。
とても透明度の高いビー玉だったような気がします。


一通り、見終わりました。まだ時間がありそうです。
あと、何分ぐらい残っているのでしょう・・・・
しかし、時計を見ることにブレーキがかかりました。
時計を気にしない15分が、今は大事・・・・

目の前の柵に目を向けると、高さが違っていたことに気づきました。



■見るところがなくなり・・・・
ほとんど、見つくしてしまった感じです。さて、どうしましょう・・・・
すると、最後に、足元の土に目がいきました。
あっ、ここ、三和土の土間だったんだ・・・・

三和土のあの固さって、石灰をまいて固くするのよね。
ここも、石灰を撒いて固めたのかしら?

それまで気づかなった、土の状態に目が向いたのです。


すると、お次はです。
目の前の柱の組み方が、すごい!
宮大工が柱を組む継ぎ手のいろいろなパターンを見ているようです。

それは、名古屋城の再建の展示で見たのですが、それをはるかに超えてる?
と思うような組あとだったのでした。

そして、その柱の奥に続いている柱・・・・
この柱によって、この空間の遠近効果が出てるわね。
実際の広さより、広く感じさせられているはず・・・・



■10年前と今
柱の「組手」なんて、10年前は、気づかなかったなぁ・・・・
もし気づいたとしても、「組み手」なんて知らなかったし・・・・

これが10年という時間。
その間に私が見たこと、経験したことが、この建物を見て、
新たな見え方を引き出してくれたわけです。


10年間という月日の変化が何もないかも・・・・
とちょっと心配したのですが、以前、見えなかったものが、
いくつか、見えてきたみたい・・・・


そして、同じ車の効果音

これはスピーカーで拡声された音と勘違いしても、おかしくないと思いました。
「きんざ」の家の中をめぐる反射音。
それは、車の移動とともに変化するドップラー効果に、
家の中の反響が手伝って、独特の音を奏でているのでした。


そして、人の声が格段に増えています。
車の往来もまた・・・・・

今、「きんざ」で鑑賞する人たちは、本来の静かな本村という町の
気配の中で鑑賞することはできなくなっています。
夏の芸術祭の人の多い時期は特に・・・

人工的に拡声された音? と感じた感覚を味わうことはできず、
すぐに、外の車か・・・・とわかってしまうのだと思います。


私も、今年初めて「きんざ」を鑑賞したとしたら・・・・・
この音をどうとらえたのでしょうか?

一瞬、何事? どこのスピーカーから音が出てるの?
と思うほどの反響音でした。
でも、すぐに外から聞こえる雑踏のざわめき、観光客の声、
そして、頻繁に通る車、それを交通整理する人の声・・・・

あの反響音が、車の音であることをすぐに判断できる材料が、
今はそろいすぎています。

「きんざ」に響く音を、人工的に作られた反響音
だと勘違いさせられる環境ではなくなっていました。

それが、10年という時間の、本村という町の変化です。


それにしても、今、振り返ってみると、落ち着きのない見方をしています・・・・(笑)
意地になって、何かをみつけようと、ひっちゃきになっている感じ・・・・


ここは、誰もが何があるのかと探そうと試みるのだけども、
ここには何もない・・・・  何もおこらないことに気づく。
そして、意識は外へ向かう。
そんなことが書かれているのを目にしました。


10年の間に私は変わったの・・・・
こんなことに目をむけられるようになりました。
こんなこにも、気づきました。
そんなことを一つでも多く拾い上げたい感じ・・・・
何かをみつけようと必死になって見ていたかも(笑)



■写真集に書かれていたこと
「きんざ」について書かれていた解説がうろ覚えだったので、
そこにはどんなことが書かれていたのか
床に置かれたものは、一体、何を意味していたのか・・・・

それを確かめるというのも、一つの目的でした。
ところで「きんざ」って何? と思っていたのですが「屋号」なのだそう。


Remain in Naoshima Naoshima Contemporary Art Museum 2003より
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バスや車が行きかう通りから路地に入る。

建物の中には、小さな鏡・ビーズ・ガラス、
奥には石の円環が見えてくる。
糸でできた大きさの違う円、天井からもつりさげられる小さきもの

 (前回は、それに気づけるのがあまりに遅すぎました)

コーナーからの光の放射

 (今回、この光に気づきました)


通りの人々の声、車の音。
小さな生物の気配を通して内部空間が外部とつながり混ざり合う

 (これは、半分、感じられていました。
  小さな生物の気配、置かれたものたち  
  それに気づくのが遅かった・・・・)


外よりも外、過去がむき出し
今よりも今、超今、超現代。
というか、今と過去、未来がむすびつく永遠な今
この空間性・・・・

240年前の網元の家 「きんざ」はその屋号

人が住んでいた天井と床と地面だけの家の原型
 (この話は、家プロジェクト作品鑑賞ツアーで知りました)


土を見た時に、内藤礼は思った。
 (私も思った・・・ (笑))

だれのでもない、私の知らない人の200年の空間
生の土 むき出しでその家が建つ前からの土地

 (その成り立ちは、私は知りませんでした。
  あとになって、家プロジェクト鑑賞ツアーで聞きました)

人間が生きている・・・・
大地は死者に迎えられ守られている。
過去に支えられていると感じた。

 (ここでは、感じなかったけど、別のところで
  大地は継続的であることを感じていました)


生の土を追究

小さく壊れやす世界を作品に。
世界を俯瞰するように・・・・

2001年完成
床をはずし地表が現れた。
地表は三和土の性質を持っています。

  (これが、三和土であること。私も気づいたわ!)

ところが、数年後、人が入れない部分に土が堆積していたそう。

  (それは、私たちにはわかりません。
   作り手、関係者という立場でないと・・・・)

時間によりそう。
人間の理性でははかれないできごとを
やわらかい土の上で静かに受容

「ながされるまま」

世界を変えるのではなく、すでにあったそこにある時間。
自然の関係に手を加える。

 (ベネッセミュージアムのギャラリートークでも聞いたお話し
  あるものを使って・・・ それがここ直島のコンセプト)

生まれて死んでゆく
深くて遠い時間とむすびつく

 (ガレで理解した世界観・・・・)


「そこにある」
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10年という月日は、自分に何をもたらしてくれるのか・・・・
この作品に再会することに、一抹の不安がありました。

ひととおり、内部のしつらえを見て、見るものがなくなった時、
私が目にしたのは、足元の土でした。

ここの土、こんなに固かったんだ・・・・  
これは、自然の状態の土ではありません。
人の手によって固められた土だということが見てとれます。

  三和土(たたき)  土間に使われる固い土

今では、ほとんど見ることのなくなった三和土。
三和土ってどうやって作られているのか。
それは、土に石灰を加えて固めているのだと聞いていました。

庭造りにおいて、土づくりのpH調整と称して石灰がまかれます。
しかし、それを続けていたら、土は固くなり三和土のように痩せてしまう。
かつて聞いた話が、「きんざ」の土を見た時に思い出されました。

三和土の話は、10年前、すでに知っていました。
でも、その時、「きんざ」の土間とは結びつきませんでした。


  そして、10年の時間が流れ・・・・・


「きんざ」と再会。ふと目にした足元の土が三和土状態だった。

◆三和土とは(wiki pedhiaより)
 赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材。
 3種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書く。土間の床に使われる。
「敲き土」とは花崗岩、安山岩などが風化して出来た土を言う。

(三和土って、三種類の材料を混ぜるから「三和土」だったのか・・・)



そして、この作品を作った、内藤礼さんも、
土の固さに着目していたという同じ着目点だったこと。
再度、作品を見た時に、それを受け止めることができたことに、感慨深いものが・・・

内藤さんは、さらにそこに流れている時間に思いを馳せ、
作品のインスピレーションを得ていたわけですが・・・・

この作品が、どのように作られていたのか知りませんでした。
この土が、200年もむき出しのまま、今につながっていた。
そのことに、気づくことはできませんでしたが、人は土に返る・・・・

ということは、美術鑑賞から受け止めていたことでした。
それとあの「きんざ」もつながっている・・・・・



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【追記】2016.9.9
と思っていたのですが、美術鑑賞で感じとる前に
「人は土に返るもの」ということを感じていたことを思い出しました。
ちょうど、10年ほど前のことだった気がします。

 エコブームがおき、エコ生活がとりだたされ、
 いったいエコって何? 何がエコなの?
 本当のエコってどういうこと? 人が生きていることがエコじゃないでしょ。
 人は何をするべきなの?  と考えていた時に、
 「人はそもそも、土に返るものだった」というところに帰結したのでした。
 死んだ時に何かの役に立つ。他の生命の糧となる・・・


  大地は死者に迎えられ守られている


ということと「人は土に返る」ということは、同じことだと思います。
同じ真理が、形を変えて、別の方向から提示されている・・・・
同じ真理を、いろいろな意味でとらえ直しながら理解をしていく。


10年という歳月は、やはり何かをもたらしてくれるのだと思いました。
自分自身も何かが変わっている。そして、その町も変わった。
そして、作品も、小さな小さな変化をおこしている・・・・

そして関係ないことですが、内藤礼さんは、ずっと男性だと思っていました。
豊島美術館・・・ 繊細ではあるけども、でも男性の作品だと思っていました。
あの水の動き、その裏の緻密な計算や実験。それができるのは男性だと・・・

10年を経た今、女性と知ってびっくりしました!

これが一番大きな変化だったかもしれません(笑)


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【内藤礼氏の言葉】
内藤礼×鉢巻香澄 庭園美術館 展覧会についての対談 
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1999年から2009年にかけて、直島の『家プロジェクト・きんざ』や、アサヒビール大山崎山荘美術館、佐久島、富山の発電所美術館、鎌倉の神奈川県立近代美術館などの一連の作品で、自然を通して「人間と世界との連続性」を探ってきました。
それ以前は、私の意思で安定した闇と光を作り直すことで、一つの場所を作っていたのですが、自然と人の暮らしに出会うきっかけとなった『きんざ』にあったのは、刻々と変化する自然光とその根底にある闇、人が暮らしてきた土地、かつてそこで生きた人たちの存在、流れる永い時間、そして、まさにいま生きている誰かの声、足音、ひとりひとりの気配でした。
そこで、もたらされていること、「受容」の意味に気づきました。私は『きんざ』の空間に一人でいるときも、たくさんのもののそばにいて、いっしょに流れるように生きているのです。
制作を進めながら、作品でもある場所は、「受容」するほどに豊かになるのだと思うようになりました。
『きんざ』に与えた名(タイトル)は「このことを」で、英語では「Being given」。「もたらされている」です。
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「地上に」内藤礼 旅の記録 奥・その1 より
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朽ちた床を剥いで現れた黒く濡れそぼった土の感触。かつて幾十ものひとが生きて死んだ場に永続して対流する大気、風、光、ちいさな生きものの気配など、
ひとの時間を超越した自然の生気(アニマ)のようなものとの出会いも果たしていく。
「そこにいて私は泣いた」と内藤さんは書き記している。
すべてがすでに与えられているというのに、(自分は)なぜそれに触れようとしているのだろうか、なぜ、ものを置こうとしているのか、と。

この世界にあるものあったもの、そしてまだないものと助け合うとはどんなことだろう。私は、この世界にはほんとうはあるのに、何かのかげになって見えなくなっている名づけられぬ純粋といえるものが、ふいに人のそばに顕われてくるのを、それがどんなになにともわからないものであっても、いやむしろそれだからこそ、疑うことなくこの眼で見ようと思う。そして、それが本来、人とけっして無縁ではないことを知ろうと思うのだ。このとき、神秘はよろこび、私の中心にその幸福はしみわたる。
(作品集『このことを』ベネッセホールディングスより抜粋。傍点筆者)
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内藤礼(2009年収録)
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すべてはすでに与えられている

――2001年には香川県、直島の家プロジェクト「きんざ」で、恒久設置の作品「このことを」を発表されました。古い家屋全体が作品となっていて、壁面の下側にはスリットが入って外の景色が少し見える。目の前のオブジェを観ることに集中した「地上にひとつの場所を」とは、また違う印象がありました。

まず、その家の天井と床を剥いでもらい、隠れていた生々しい土が見えたときに、当たり前だけど、土の上に家が建っているという事実に気づいて。誰のものでもない土地が普遍的な場所に見えたんですね。この大地の発見から、足下が見えることを考えて作りはじめ、そこから偶然入り込んでくる光や音、人の気配や日常をそのまま受け入れる作品にしようって思ったんです。それまでは、光がコントロールされた安定した風景の中で、外界を忘れることで自分の世界を思い出す、という構造だったのが、むしろ、ひとりになることで外の世界があることを知る、という真逆の構造の作品になりました。

この作品で、作るという姿勢に自分の中で変化が起きたように感じます。「作る」ことは、作り替えるとか、ゼロから新しいものを生み出すということではない。すでにすべてが与えられていて、目の前にあるものの中から何に気づくかそこで何を見い出すか、という行為だと思ったんです。



インタヴュー 内藤礼(アーティスト)×岡部あおみ 
  元武蔵野美術大学教授 岡部 あおみ氏による、内藤礼氏へのインタビュー
  岡部氏は日本の研究者、キュレーター。

  インタビューの中で、「きんざ」このことを について、内藤氏が語られています。
  掲載情報の無断使用、転載禁止なので、リンクで・・・

  ・転機となった直島作品 このことを ⇒ 03
  ・『このことを』の作成プロセス   ⇒ 04
  ・土の存在感            ⇒ 05
  ・破壊 搾取 壊れやすいもの    ⇒ 06


ネットの噂で、展示物を壊した人がいるという話を耳にしていました。
が、これまで修繕が長期に渡っていた主たる原因は、土壁の大規模改修だったようです。


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【参考】「きんざ」を人はどう受け止めるのか・・・・
「家プロジェクト」「きんざ」のサジェスト機能のワードに「感想」が続いていました。
気になった部分をピックアップしてみました。

直島 家プロジェクト - 日毎に敵と懶惰に戦う より
庭にてしばらく待たされ。渡される作品案内には、静かに待つ時間も体験の一部です、と書かれてあり
普段は視覚からの情報の氾濫に翻弄されて、見ても見えていないものたち。情報の少ない空間に入れられることで、少ない情報の中から、注意していろいろなものを見出そうとする。そして少ない情報から意味を見出そうとして、やがて、意味を見出そうとしていることに意味があるのだろうか?そこにそれがあることに人間にとって都合の良い意味などあるのだろうか?そんなことを考えて、また暫くぼんやりしていると、ふっと、今まで見ていたはずなのに見えていなかった小さきものが目に留まる。外から聞こえてくる断片的な音や、風。


直島に行きました。(三日目・前編) より
「きんざ」内部をうろついていると、時々通行人の話し声なんかも聞こえてきます。
向こうにしてみれば、中に私が居ることなど、気づきようがないのでしょう。

鑑賞者を一人ずつにしたのは、作品とじっくり向き合うためだと思いますが、
もしかしたら、人一人を一定の間、消してしまおうという意図があるのではないか。
外部から隔離され、中でも(柵によって)拒絶されている、
私はどこに居るのだろうか。


直島5 家プロジェクト2 「きんざ」 より
壁の下の方、地面から高さ10センチぐらいまでぐるっと一周 隙間が開いていて
そこからわずかに外の光とか、空気とか、音とかが入ってくるんですが、そのわずか感がいい。
完全な静寂より落ち着きます。
建物の横は車も走れる道なのですが、すごーくたまに通る車の音さえも心地いい。
すごくゆったりした気持ちになれました。
1人で意味なくボーっとするのが好きな私にとってはとても居心地のよい空間でした。
(でもそういうの好きじゃない人は苦手かもしれない…。)


現代美術の直島(6)×家プロジェクト×きんざ「このことを」 より
シャドウ 「他の人の感想はどのようなものですか?」
受付員 「人によりますね。よくわからないという人もいれば、すごくよかったと言う人もいます」

シャドウ 「この作品の意図は?」
受付員 「薄暗い中にずっといると、目が慣れてだんだんと装飾品が見えるようになります。それから、外側から遮断された空間ですが、外からの光や気配で、1人だけれど、自分は1人ではない、と感じることができます」
シャドウ 「そうですか」

感じたことは、私しかわからない。
私のものだ。


高松、直島、神戸アート建築巡礼 2日目 より
別にそれだけ、何も起こらない。椅子に座ってしばらく見つめている。何も起こらない。中を歩き回って細かい物物を見る。もちろん何も起こらない。たまに横の道路を車がと通ったり外でこの家の番をしてるおばちゃんが話してる声が聞こえる。ただそれだけ。ただただボーっとしながらいろんな外からの音に耳を傾け、壁の下から差し込んでくる光を感じ、あくせく動き回ってる日常からしばし解き放たれて居るような感じ。何もしないってなんか良い感じだな、って考えたりする。ただ、そこは現代人、何もしないで居ることになれてなくて少し居心地の悪さも感じてしまう。っこも時間の流って物について考える作品ですね。


街並と叙情~四国巡り、建築編その5・アート編その6:直島家プロジェク
内藤礼さんのインスタレーションはなかなか見るところが
無いので本当に貴重です。建物中には一人で入っていく。
それだけ、そこで決められた時間をただ過ごすだけ。
何も動かない、何も変わらない、ただただ空間にいるだけ。
初めは建物の中においてある色んな物を見る。
じきにボーっと全体をみる。何もしない。それだけ。
ただただ空間を感じるだけ。近くで見えなかったものが
見えてきては漠然としていく。何も起こらない。
ゆるやかに光が変わっていく。時間の流れを感じる。
こんなにゆったりとした時間を過ごしたのは何時振りか?
そんな事さえ考えてしまう。時間の流れを感じる空間で
ある。やっぱり、この人の作品好きです。
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