『 江戸文学の世界 ―江戸戯作と庶民文化―國學院大學学びへの誘い』コロコロさんの日記

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日記詳細

國學院大学にて、
「江戸文学の世界―江戸戯作と庶民文化―國學院大學学びへの誘い―」
ブロガー内覧会が行われました。

この催しは、國學院大學が行っている「学びへの誘い」という企画の一貫です。


■学びへの誘いとは
國學院大學が所有する学術資産の内から、古典籍を中心に展示会を開催し、
開催地域との文化的な融合を図ることを目的として平成17年より実施されています。

「学び」とは、学生のみならず、誰もが生涯を通して行う行為であり、
切り口を変えることにより、新しい発見が生まれ、様々なものが見えてきます。
多彩な入口を提供し、学術の裾野を広げようとする試みです。



■今年度のテーマ
平成28年度は、出版文化としての江戸文学(近世文学)がテーマ
「江戸文学の世界 ―江戸戯作と庶民文化―」と題して、
庶民文化と密接な結びついた「東海道中膝栗毛」など江戸後期の戯作類を中心に紹介。



■参加のきっかけ
学びとは何か? 
それは、生涯を通して行う行為であり、
切り口を変えることにより、新しい発見が生まれ、様々なものが見える。

という言葉に共感し、後押しされて参加しました。
今回のテーマである「江戸文学」は、あまり興味のないテーマでした。
ただ、「出版文化」という部分に、関心があり参加してみたいと思ったのです。

江戸時代の出版物、浮世絵などを見ていると、これらがどのように擦られたのか、
また、この細かい文字は、どのように彫られたのか
この時代の出版物に対していろいろな疑問がありました。
そして、今の出版物、活字文化との比較など、
この展示は、これまで抱いていた興味を満たしてくれそうな気がしました。

そしてもう一つ、これまでも美術館、博物館を見学してきて感じていたこと。
古文書などの文字展示は、華がない
見ていてもつまらない。わからない
きっと、見方のポイントがあるはず
それがわかれば、受け止め方もきっと変わるはず。
そんなポイントを一つでも、知ることができれば、
これから、文字の展示を見る時にきっと役に立つはず。

以前、訪れた、真田丸の学芸員さんの解説でそのことがわかりました。

  ○2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」ブロガー内覧会②あんな疑問、こんな疑問

そして、同じ情報でも文字や展示物で見るだけなのと、
解説者の声で聞くのとでは、全く受け止め方が変わるというのは、
経験的に感じてきたことです。
わからない世界だからこそ、レクチャーのある時に訪れるのが吉です。

話を聞いても、結局、江戸文学のことはよくわからなかった・・・・
となるかもしれませんが、
出版に関してこれまで疑問に思っていたことが、解決できれば・・・
そんな気持ちで参加しました。


まさに、「学びの誘い」に掲げられているように、
本題よりも「切り口」を変えた「出版」の部分の方に興味を持ったわけです。

興味の対象が本題からちょっとずれていても、
そこから、江戸文学に対する興味が誘発されたり、何か発見につながったり、
学術とは言わないまでも、その世界の入り口の扉の前にでも
立てたらという思いで参加してみました。



■博物館のある大学
以前、イベントで國學院大學に訪れたことがあったのですが、
大学が博物館を持っていることを知りました。
その博物館は、縄文時代の火焔土器や弥生時代の銅鐸をはじめとする
日本文化を身近に学ぶことができる
という紹介があり、この博物館にも興味がありました。

日本の美術は、以前は桃山から語られていたようですが、
「縄文時代から始まった」と認識が変わったと聞いたことがあります。
また、岡本太郎が縄文文化に着目したという言う話もかじり聞きしました。

「縄文」ってなんだろう・・・と興味を抱き初めていたところだったので、
この博物館に何かヒントがあるかもしれない。
そのうち訪れてみようと思っていました。
たまたま、博物館内で行われるこのイベントを知ったのは、
一粒で二度おいしい・・・・企画でした。



■校内が違う?
蛇足になりますが、始めて國學院大學を訪れた時、
なんだろう・・・・  この大学は・・・と何かを感じさせられました。
建て替えられて間もないと思われるのですが、「新しいけど古い」「落ち着く」
そして、「そこはかとなく日本」を感じさせられるのです。
失礼ながら、國學院大學が、日本という国の国学を柱にした大学だとは知りませんでした。

なのに大学の建学精神を、大学の敷地に入ったとたんに全く知らない人に感じさせたのです
こんな感覚を受けたのは初めてのことでした。



■一連の設計はだれ?

東洋経済オンライン広告企画の中で
学長と、設計を担当した日建設計の方との話がありました。

   渋谷発!
     ○國學院大學 赤井益久学長によるトップ対談


上記の記事を見ると、
先進的な技術を備えながら、日本文化を継承することも大切にす日建設計と、
伝統文化を継承し、そこに学び新たな価値を創造する大学との協同作業。

一歩、足を踏み入れた時に、大学の建物、敷地から何かを感じ、
ぼんやりながらも大学の柱まで感じさせる。
建築設計によって「建学の精神を伝える」ことを実現し成功させていることになります。

そして、ここには「何か」がありそう・・・・
と思ったとおり、今回のような学びのお誘いの扉が開いていたのでした。

建物、敷地、そこに漂う空気から、何か感じさせて、
さらに、その建物の設計思想などを知ると、
渋谷界隈の街づくりという「渋谷学」なるものが存在し、
またあらたな学びの視点を提示してくれています。


大学には、博物館を所有し、無料解放です。
学びの場の提供まで、無料です。

「学び」とは、学生だけのものではない。誰もが生涯を通して行う行為

それを、ビジョンだけでなく、社会人に還元して公開し、実践して示しています。
そんな目の前にあるチャンスを見逃してしまうのはもったいないです。


前置きが長くなり、ブロガー内覧会のレポートの本題から、かなりずれてしまいました。
本題の「江戸文学」に関するレポートは、他の参加者がされると思うので、
そちらにゆずることにして、出版文化について、
私が知りたかったことが中心になってしまいますが、
Q&A形式でレポートしたいと思います。



■江戸時代の出版について
以下は中村正明文学部准教授によるミュージアムトークのお話や、
図録から、そして調べたことを元に記しております。


Q どのように印刷技術が日本に入ってきたのでしょうか

ルネサンス期15~16世紀のヨーロッパで、
針盤・火薬・活版印刷術が三大発明と言われています。

日本へは印刷技術はどのように入ってきたのでしょうか?

安土桃山時代に朝鮮から活字印刷の印刷機が入ってきました。
この時、印刷は、金属で造られた一文字一文字組み合わせる活版印刷でした。
しかし、金属が高価であることから、木を使うことになったのですが、
金属と比べると木は、摩耗が激しく長持ちしません

そこで、一枚板の上にすべての文字を彫る製版と言われる方法に改良されたのです。
一つ一つの活字よりも持ちがいいということで、
日本の国土に合った改良を重ねながら、模索し発展。
大量生産することが可能となり、本が出版されるようになりました。

活版印刷が普及した欧州では、アルファベット26文字ですが、
日本では、かなに漢字というように文字数が多く、それを管理するのも
大変だったようです。(wiki pedhiaより)




■本屋はどう広がったのか?
本屋で商品として売られるようになり、マスコミとしての文学は、
江戸時代から始まりました。

【江戸時代前期】(1600年代)
本屋は上方(京)で誕生し、大坂へも波及。
一方、江戸は、まだ年の開発ができておらず、上方の本屋の支店(出店)があるだけ。

【江戸時代中期】(1700年代)
江戸も都市として安定し、独自の文化を背景に新規の本屋(地本問屋)が生まれる。
上方に対抗し(?)読者を増大する庶民を中心にして、庶民文芸が花開きます。



Q マスコミとしての文学がどう変化したのか?
【江戸時代前期】
京都では、中世の物語を中心とする「文学作品」が中心に出版。

それらは庶民がしたしみやすいように仮名でかかれていたため、
「仮名草子」と称されていました。

時代の背景としては、寺小屋が普及し、庶民の子弟が読み書きができるようになったことが挙げられます。


【江戸中期~後期】(1700年代)
江戸では、滑稽な笑いに満ちた江戸偽作が大量に刊行されました。
高尚なものから、次第に大衆に向けて、やわらかい文学へとシフトし、
遊郭の遊びを描いたり、マンガのような本、面白可笑しの滑稽本
人情本女性対象のお芝居本や恋愛本・・・・

というように、出版内容は、時代とともに変化し、軟化し、
庶民へと広がりを見せていったのでした。



Q 庶民とは?

庶民といっても、農村部の農作業者もいれば、町民などもいます。
当時の識字率はどの程度だったのでしょうか?
農民も寺子屋に通ったりしていたのでしょうか?

中心は都市部となりますが、農民の中にも、寺小屋に出入りするような人たちもいて、
そういう人たちの間で、読まれていたようです。

 【参考】江戸時代の識字率は世界でも断トツに高かった!?より
     江戸時代後期のわが国においては、
     江戸の就学率は70%~86%程度だったとされている。
     少なくとも識字率はそれ以上だったと考えられ、
     幕末の識字率は7割~9割だったと考えられる。



Q 1枚の版木でどれくらい刷られたのでしょうか?

製版の一枚で刷られることにより、持ちがよくなったとのことですが、
一枚で、何枚ぐらいすられたのでしょうか?

200~300枚だったそうです。
もっと多いのかと思っていましたが、意外に少ない気がしました。
ということは、一文字、一文字を木で活字にしていたら、
もっと消耗が早いということですね。

今の感覚で発行部数を捉えてしまうと200~300というのは、
少ないと考えてしまいますが、当時、写本が基本だと考えたら、
一度にこれだけ刷り上げるのは、驚異的な部数だったと言えるのでしょう。



Q 相本の版木は一つ?
出版は、上方(京都)が中心にはじまり、江戸や大坂は支店。
次第に江戸独自の出版がされるようになりました。
江戸中期になると、相本といって、「上方」と「江戸」の両方で出版されました。
製版は1枚だけだったのでしょうか?


版木1枚で、200~300枚。
それだけすると劣化がおこり、新たに作られるそうです。
評判がよければ、それが繰り返されますが、出版してみないと
売れるかどうかはわかりません。
そのため、その都度、作られたようです。



Q 版木に文字はどのように彫っているのか

浮世絵にしても、出版されたものも、文字はとても細く小さいです。
こんな細くて小さい文字をどのように彫っていたのか、ずっと謎でした。
しかも、逆さ文字で彫らねばなりません。

製本の過程がパネルと展示されていました。


◆江戸時代の版本の成立過程
① 版元から作者への依頼
② 作者執筆  →「稿本」 文と大まかな絵を描いたものが「草稿」
③ 版元による稿本チェック
④ 絵師による「版下絵」の描画
⑤ 筆耕による文字の清書 「版下」 印刷用に浄書
⑥ 中間行事による検閲
⑦ 彫師による板木彫り
⑧ 摺師による摺
⑨ 製本
⑩ 販売

上記をかいつまむと、作者によって執筆された「稿本」が「草稿」
それをもとに、印刷用に、絵師が絵を描き
筆耕(*1)が文字を描き( *1写字や清書をする人)
浄書(清書)したものが「版下絵」です。
「版下絵」を「版木」に直接密着させて、そのまま彫られるということが
今回、やっとわかりました。

版木といっしょに彫られてしまうので、現存するものが極めて少ないのが「版下絵」
そのため、その存在を知る機会がないためなのか、
彫師が、アウトラインの下書きを直接、版木にして彫っているのかと思っていました。
彫師は、逆さ文字を描くことができ、絵心まであるのだと思っていたのです。
驚異的な能力で、作業だと思っていたのでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、鏡文字で文章を書きました。
古今東西、似たような能力を持った人がいるものだと・・・・



■版本の成立
上記の出版のプロセスを考えると、「版下」はその途中で失われてしまうもので、
残っているものは、限りなく少ないのです。

ところが國學院大學には、その貴重な資料が残っていて、
今回、2種類が展示されています。
そのうちの一つは、4編までしか刊行されず、
5編の版下は、実際に刊行されなかった続巻。
かなり稀貴重な展示なので、お見逃しのなきよう・・・・・

というように、お話しを聞かず、文字情報を見ているだけでは、
おそらく見逃してしまいそうな貴重な作品が展示されています。


■本のサイズに注目
今回のミュージアムトークの最初に、江戸時代の本を見るポイントの一つが示されました。
それは、本のサイズに注目して下さいとのことでした。

現代の用紙サイズの規格はA版、B版があります。
A版は国際規格で、19世紀末ドイツの物理学者オズワルドによって
提案されたドイツの規格です。
一方、B版というのは、日本独自の規格で、美濃紙をもとにされています。

浮世絵にも、規格サイズというものがあるのかな・・・と思っていたのですが、
(《神奈川沖浪裏》の構図を円と対角線で説明されるのを見て、版画の紙の
  縦横比がは決まりがあるのかな・・・と思ったので)
各種決まったサイズが、日本の和紙にもあったようです。

   ⇒○版型と寸法

ということは、江戸時代の出版本にも、効率よく紙をカットするため、
規格サイズというのは、ありそうな気がしますが気になるところです。
本のサイズを気にしながら、なにか規則性があるのかと
あれこれ、想像しながら見ていました。
しかし、サイズはバラエティーに富み、よくわかりませんでした。


最後の答え合わせでは、特に決まりのようなものはないとのことでした。
ただ、時代が進むと次第に、本のサイズは小さくなっていきました。
一般的に内容がやわらかくなってくるとサイズは小さくなるとのこと。

幕末から明治期に、小型の「豆本」と言われるものが盛んに出版されます。
これは、絵の多い児童向けの玩具だったことを考えると、
やはりサイズは小さくなり、内容は、軽くなっています。

子供の成長とともに、捨てられることが多く、現存するものが少ないので、
これもまた貴重なコレクションだそうです。
また、子ども向けといいながら、歌川広重、国政、国芳などの
一流絵師が携わっているものがあることも見逃せません。
読み捨ての玩具絵本として、軽視できない文化的価値を有すると言えます。

春画もそうですが、あの有名絵師が?! と思うような絵師が携わっており、
江戸時代から出版に携わる絵師たちは、
何にでも全力投球で、携わっていたことが伺えます。




■ミュージアムトークに参加して
今回は、とりとめなく、自分の興味のあることだけレポートしたので、
せっかくの江戸文学の体系だった全体の流れが、
わかりにくくなってしまったかと思います。
また、だらだらと文字で書いたレポートを見てもよくわからないと思います。

展示では解説の文字があり、そして、よくまとめられた図録もあります。
とはいえ、昨今の活字離れの影響もあり、文字を追うことが、
つらく感じる方もいらっしゃるのでは?
また寄る年波の視力の変化なども影響します(笑)
細かな図録の文字を追えなくなります。

そんな時、人の声による解説は、学習の手助けとなってもらえます。
ぜひ、ミュージアムトークに参加して、江戸の文学、
そして今の出版業界につながる江戸文学の出版事情に触れてみることをお勧めします。

出版社のことを今でも「版元」さんと呼びます。
なんで、出版社と言わず、あえて「版元」という呼び方をするのかが
ずっと不思議に思っていました。

以前、浮世絵の「版木」を見た時に、「版元」と呼ばれる所以が理解できた気がしたのですが、
やっと、「版元」の本来の意味を理解できた気がしました。
そして、「版下」という言葉も、江戸時代のなごりであることを知りました。


活字印刷の写植時代が、デジタルにとって代わり、
まさに印刷業界の黒船到来となりました。

しかし、黒船が到来して久しくなると、そんな大改革が起きたことなど、
過ぎし日のできごとして忘れて去られようとしています。

それでも今尚、「版元」「版下」という言葉が、出版業界に残っているというのは、
江戸時代に確立された出版という事業が、連綿と連なり
今に至っていることを意味しているからだと思います。

そして、今、こうして文字を打ち、絵を描く変わりに写真を撮影し、
ブログという形で掲載するという作業も、広くとらえれば、出版の一部と
捉えることができるのかもしれません。

江戸時代、庶民の世界に浸透して、開放されいく様子を見ましたが、
それと同じ流れをたどっているように感じました。

ぜひ、機会があれば、ミュージアムトークに参加してみてはいかがでしょうか?
下記のとおり、開催の予定があるようです。

(また上記の内容につきましても、聞き違い、思い違いなどなども
 あるかと思いますので、確認も兼ねて・・・・)




ミュージアムトーク

(1)日時:平成28年7月30日(土)14:00~14:30
   講師:中村正明(本学文学部准教授)

(2)日時:平成28年8月27日(土)14:00~14:30
   講師:中村正明(本学文学部准教授)



■さらなる学びへの誘い
ずっと疑問だった、浮世絵の小さな文字は、どうやって彫っているのか。
やっと解決しました。

しかし、多色ずりの浮世絵を、どうやってずれることなく、刷り上げることができるのか。
十字の印がガイドになっていると言うのですが、具体的に想像ができません。

また、一枚の下絵を、張り付けて切り出してしまうと、
多色刷りの場合、他の色の版の下絵は、どうなっているのでしょうか?
また、ずれないように何色も彫る位置決めは、どうしているのでしょう?

なんてことを考えていたら、すでに、定員一杯になってしまいましたが、

  「体感!浮世絵摺り実演・体験会&夕涼み浮世絵講座」 

と題して浮世絵の摺体験講座などが企画されていました。


他にも、
ミュージアム連携事業「夕涼み浮世絵講座」なども用意されており、
「新たな学び」にまたまた誘ってくれていました。


一つ扉を開けると、その先には、また新しい扉がいろいろと待っている
「学びへの誘い」講座でした。


写真は撮影許可済みです。


■写真について
「東海道中膝栗毛」「南総里見八犬伝」など、名前としては耳にしたことがある!
と思ったところを中心に撮影しました。
(他にも撮影しましたが、何を撮影したのかわからなくなってしまいました。)

それ知ってる! 聞いたことがある! というのは、身近に感じられます。
しかしそれは知っているというだけの「点」の認識でしかありませんでした。

こうして、江戸時代の文学ということに着目し、時代の流れに乗せると、
江戸文学が時代とともにどう変化していったのか、その流れの中で
どんな位置づけの本であるかが見えてきました。

都市部に寺小屋が作られ、農村部にも広がり、庶民が本を読むようになったことが出版の背景となりました。
さらには、庶民が安心して本を読める安定した世の中だった
という時代背景があってこそともいえます。

それまで、限られた人に向けられていた本が、
楽しい旅ものを扱うことで、より多くの人が手にすることになりました。
ここにも今のマスコミに通じる源流を感じさせます。

というように、作品が出現する当時の社会事情とともに、
民衆のニーズや、興味のありそうなテーマを考えて広めた版元。
「江戸文学」と「出版」とう流れで捉えると、
江戸という長い時代のいつ頃の、どんな位置づけの作品なのか・・・

それは、名前という「点」でしか作品を認識していなかったことが、
「線」で捉えてその位置づけを知ることができました。
さらに、そこに社会情勢をからめると、一冊の本が、
「町人による元禄文化」から、「庶民に広がった化政文化」へ変化して、
「面」で捉えて理解できたことになります。
江戸の文学全体と社会の流れを俯瞰して見えるようになりました。


先日、テレビで林修さんが日本史の勉強法について解説されていました。
歴史の記述方法には、
年代順に出来事をまとめる方法、「編年体」と、
時代の流れてで覚える(人物中心に)「紀伝体」があると。

事件だけを切り取って年号で覚えるえる「編年体」ではなく、
時代の流れで覚えることが大事。
「知は自分で整理するもの」というような話をされていました。


まさに今回の展示は、人物にスポットをあてる紀伝体を、
「江戸文学」にスポットをあてて、時代の流れでをまとめられた展示だと思いました。

そこに、さらに個人的に興味を持っていた、江戸時代の美術や浮世絵などの
歴史の流れ、変化なども重ねていくと、歴史が重層的な厚みが出て
理解がより深まると思いました。

中学で学んだ歴史は、年号を覚えることに終始してきました。
これは、歴史の「点」の部分にすぎません。
紀伝体という大人になって知った歴史の学び方は、
流れで捉える「線」の歴史観という捉え方です。

さらに、大人になって学ぶ歴史は、
自分がこれまで培ってきた興味を重ねて、ドッキングさて、
「面」でとらえる総合的な学びができると思いました。

「知を自分の興味と合わせて整理する」

自分の興味と歴史をカスタマイズして、自分の知にしていく。
そんな可能性の発見は、この講座の目的、学びの多彩な入口を
見せていただけたと思います。
学術の裾野もほんの少しだけ広がったかな?(笑)

(流れで捉える「紀伝体」も、それだけでは成立せず、
 「編年体」の年代をひたすら覚えた暗記がベースにあるからこそ、
  紀伝体のながれを、そこにのせることができるわけで、
 結局は、両方のアプローチが必要ということ・・・・

 基礎学力・知識がないと、思考するための基本材料がないため、
 思考力、考える力を持てないのと同じってことか・・・・ 笑)


「文学」や「絵画」などは、歴史によって産み落とされた産物・・・
ということは、なんとなく気づいていた気はしますが、
そのことに、意識的になれたように思います。

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【追記】2016.8.5
「体感!浮世絵摺り実演・体験会」に参加

アダチ伝統木版画技術保存財団の摺り師によるデモンストレーション。
摺の見学だけをさせていただきました。

アダチ版画・・・聞いたことあるなぁ・・・と思ったら、
浮世絵の作り方を調べている時に、動画を見ていたのでした。


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【追記】2016.9.12
「体感!浮世絵摺り実演・体験会」で見聞きしたことが、浮世絵の解釈に役立ちます。
その後、山種美術館で行われた
「浮世絵 六大絵師の競演―春信・清長・歌麿・写楽・北斎・広重―」にて
この時の摺体験の様子を紹介しています。

また、この講座でご挨拶をされていた藤澤紫先生の講座を聞くことができました。

【関連】
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