『国吉康雄展:[疑問2]国吉の絵画の素養はどこで? どうして絵画の世界に?』コロコロさんの日記

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日記詳細

国吉の渡米は、絵画を目指すものではありませんでした
ところが、アメリカを代表する画家として認められるほどになる
絵画の能力は、どこでどのようにして身に着けたのでしょうか

国吉の生い立ちと、渡米してからの動向をまとめながら、
その秘密を考えてみました。

【参考サイト】
 ○国吉康雄の来歴・・・福武教育文化振興財団
 ○国吉康雄 略年譜・・・東京文化財研究所
 ○国吉康雄年譜・・・岡山県立美術館
 ○『Do you know YASUO KUNIYOSHI?』) 
   すべては語らぬ画家の展覧会開催のための取材メモ 年譜  

■太字・・・・美術学校
【 】・・・・在籍期間


1889 9月1日 岡山市北区出石町で人力車夫の父のもと一人息子として生まれる。
1896 岡山市弘西尋常小学校(4年制)に入学、卒業後
    内山下高等小学校(4年制)に進学。
   
1904 ■岡山県立工業学校染織科 入学。       日露戦争起こる。
1905                        日露戦争終結 
1906  岡山県立工業学校    退学。       日露戦争終結の翌年。
    9月渡米 同年16歳で労働移民として単身アメリカに渡る
         英語修学を目的という説も
                          

1907 ■ロサンゼルスの公立学校、夜間部に入学。
      コミュニケーション手段だった絵をほめられ、
      美術を学ぶようすすめられる

    【労働】
     収穫期は果樹園 ホテルの掃除夫 鉄道車庫の掃除夫 ボーイ
     お金を稼ぐために様々な仕事に就きながら、英語も学ぶ

    ■ロスアンゼルス スクールオブ アートアンドデザイン【3年】通う
       2度めの決断

     
1910 飛行家を志し一時訓練を受けるが断念

1910 ■ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(ニューヨーク)【3か月】
   ■ヘンラインスクール ロバートヘンライの美術学校に移る
 
    ●アッシュカンスクールを原点とする画家との交流

1914 ■インディペンデント・スクール・オブ・アーツ【2年】通う
    生涯の友人、スチュアート・デイビス(1894年~1964年)にめぐり会う。
     国吉は、今後の画家としての人生を決定づけることになる、

1916 ■アート・スチューデンツ・リーグに入学 【4年間】学ぶ。
    主に指導を受けたのはケネス・ヘイズ・ミラー(1876年~1952年)
    ミラーはヨーロッパの巨匠による歴史的名画に精通していて、
    それが結果的に国吉にとって大きな意味を持った。

1917 独立美術家協会第一回展に出品。
    前衛的な画家集団ペンギン・クラブに加わる。

1918 アメリカ現代美術のパトロン、ハミルトン・イースター・フィールドの援助。

   色彩は透明感ありながら、同系色により重ねられた深い色合いを残す。
   近くのものを画面の下に、遠くのものを上に置く鳥瞰法
   時間経過を一つの画面に描く日本画的表現。
   アメリカンフォークアートを彷彿とさせる表現

     
1919 キャサリン・シュミットと結婚。生計を立てるため写真家としても働く。

1922 人生初の個展
   「東洋的」「日本的」魅力が評価。エキゾチックな魅力。
    しかし、 何が東洋的で、何が日本的かを説明しておらず
    東洋、日本、日本人に対するイメージで国吉を語る。
    欧米では、ジャポニズムが流行。
    「異質さ」を日本人であること。「源流に蓄えられている」ものし、
    「アメリカ人ではない」説明のつかないものとして
    「オリジナリティー」と捉えられる。

   パトロン フィールドの言葉
    国吉は、日本とアメリカの思想を読み取り、心の中で一緒に溶てしまった。
    

1933 リーグの教授就任



■いくつものスクールに通うことで得たこと
以上のように、1907年に初めてアートスクールに入り、
1916年、リーグに落ち着くまでの10年間に5つのスクールを、
渡り歩いています。

それぞれのスクールは流儀が違うそうで、それは、とりもなおさず、
アメリカニューヨークのアートシーンを渡り歩いたともいえるとのこと。


「伝統的絵画法」を学び、次に、
「人生こそ芸術の主題」という創作哲学で写実的表現を・・・
そして「ゴミ箱派」と言われる都市で発見する主題を独自のスタイルで描く
(これは、ニューヨークの下層女性を描くことにつながりました。)つぎに
ヨーロッパの最新動向を紹介しアメリカ美術に新しい潮流をおこす学校
というように転々とし、最後、リーグにたどりつきます。


アメリカに渡り言葉の不自由さから、絵を使ったコミュニケーションをすることによって、
絵の能力を見出され、それを契機に、美術学校を渡り歩くことに。

どのスクールを選ぶかというのは、ある意味、
アメリカに一人渡り、そこで生きてゆかねばならない国吉の、
嗅覚が選び取った学校だったと言えるかもしれません。
本能的な勘が働き、結果として良い方向へと転がった。
その過程で、一つの流派に留まらないアメリカ美術界の時流を体得し、
アメリカの今を、染み込ませていったのだと思われます。



■絵画的な素質について
しかし、もともとの絵画の素質がなくては、このような功績を、
残すことができないのではないでしょうか?
それついては、先天的な部分も大きかったのではと考えられます。
岡山県立工業学校染織科を選択したというあたりにも、
その片鱗が見られるのではないでしょうか?

染色、工芸、デザインという美的感性を求められる世界。
ある程度の、力量や興味がなければ、選ばない選択です。

また、1912年 23歳  渡航5年目に描いた
人体デッサンが目黒区美術館からきていました。
絵のことがよくわからない者の目からみても、
かなり高いデッサン力なのではと感じさせられます。
もともとの画力が高かったことが伺われます。



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■17年しか日本にいなかった国吉の
 ジャポニズム的な素養は、いかにしてつくられたのか
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・岡山の工業高校で染色科 日本的デザインの勉強をした。
・渡米後は、西洋絵画の手法を教える学校に通う

・日本の版画、浮世絵に造詣が深い(妻、サラ談)
光琳、雪舟を敬愛する画家にあげる
墨の濃淡表現に見えるインク画を多数描く
・帰国時に描いた墨絵は、画材に対する研究がされていたことをうかがわせる
・晩年、黒一色で描くインク画にも回帰
 
(『Do you know YASUO KUNIYOSHI?』) 
      すべては語らぬ画家の展覧会開催のための取材メモ より



◆生まれ故郷の環境による
国吉の生まれt出石町は、戦国時代に岡山城下町として開府されて以来、
商人町として栄えた。
明治期には後楽園が解放され行楽客で賑わう
出石町は対岸の藩主の庭園が県へ移管され、
明治17年に『岡山後楽園』として一般に開放
そのような環境のもと、岡山城、後楽園が身近な存在として、
城下町や造園を通して、日本的な文化を吸収していたのでは。

 参考:岡山政経塾10周年記念 シンポジゥム◆ 
   2.研究発表   (2) チーム21まちづくり研究科



読書 その二十四 オリエンタリズム より
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クニヨシの初期の作品は、ユニークな東洋風とモダニズムの調合。 
基本的には東洋的
その全ての生命体の中に、そのユーモア
その後退していく面の画法的デザインの概念、その幻覚性からの自由さ。

この東洋的なものは先天性に因るところが大きい
それは彼のニューヨークでの学生の日々以前は、
どんな芸術も少ししか見ていなかったからです。 
実にそれは、西洋の古典的なもの、伝統的な日本のスタイルからの
急進的な離脱でした。
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17年間しか日本にいませんでした。
とは言っても、育った環境が育んだものがあるのかもしれません。
小学校の時には、本の中の挿絵を「引き写す」ということをしていたり、
大きな洋画作品も見ていたと話しているそう。

染色科では、着物の模様のデザインと染色を学んでいたということは、
色付けということの素地や、模様を配する構図のセンスも、
培われたのかもしれません。
国吉の絵には、いくつかの同じモチーフが繰り返し登場します。
それも、着物のパターンというとらえ方が、反映しているのかもしれないです。


もともと先天的に絵の才能を秘めていた。
それが、染色科に向かわせ、2年という短い時間ではありましたが、
そこで、日本的なものも学びつつ、絵画の基礎的なことも培われた
そして、渡米し美術学校を転々とする中、
もともとの吸収力と、日本からやってきたという他民族性。
それは、アメリカという国の構造ともあいまって、融合していった・・・

そんな理解に至ったのでした。


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