■国吉の晩年は?国吉の晩年の制作活動は、どのような活動だったのでしょうか?
何で亡くなったのでしょうか・・・・
「胃潰瘍」という記載を見ました。
「胃潰瘍」で死に至ってしまうんだ・・・・・
没年は1953年 昭和28年 63歳です。
時代も時代だから・・・・
一方、「胃がん」と書かれているものもありました。
闘病の様子はあまり書かれていなさそうです。
■映画の中で扱われた遺作国吉の最晩年の絵・・・・・
映画の中で、プロジェクトリーダーが語った
「すごいよ」の一言。
どんだけすごいんだ・・・・
私も、気になっていました。
国吉はどんな晩年を過ごして、どんな絵を残したのか・・・
国吉と同じ17歳の少年が、旅立つ直前、
特別なはからいで、その絵を見せてもらえることに・・・・
えっ? どんな絵なの? ドキドキ・・・・
うわ~~~~ そうきましたかぁ!!!
そして、そういうエンディング・・・
うまいなぁ・・・・ うますぎる!
○
国吉康雄顕彰短編映画「国吉康雄を探して」そごう美術館に今、その作品の展示はしていないんだろうな。
今は、いずこに?
■晩年作品さがし「国吉」「遺作」「晩年」「最晩年」などのキーワードで画像検索。
えっ? これが遺作?
ちょっと想像と違いました。
ちょっと、拍子抜け・・・
この絵、私、見てきた・・・・・
はっきり言って、何にも感じなかった。
ピエロの絵が、いくつも並んだなかの一つ。
one of then でしかありませんでした。
何かを訴えかけられることもなく、なんのひっかりもなく、
その他の作品と同じように見てました。
(実際の展示は、模写として別展示されていたのですが
そういう特別な印象もなく、クラウンが並べられたうちの一つ。
あれ? どこにあったっけ? というあいまいな記憶しか残っていない
というのが初見の印象)
いや、ちょっとだけ、気になることはあったけど・・・
■絵が持つストリー性絵ってこれが
「最晩年の絵」だと思って、
心して観ると、
受け止め方も違ってきますしかし知らずに観たら、
ピエロの絵のうちの一つでしかないのです。
これが、絵画のまぎれもない現実・・・・
絵の裏にあるストーリーそれが、鑑賞の上で大きな影響を与えます。
それによって左右されて、見方が変わります。
■印象に残った足そんなわけで、最初は、じっくりなんて見てませんでした。
でも、この絵を見て気づいたこと、疑問に感じたことがありました。
ピエロの上の方に、
靴を履いた足がある。
しかも、
すっごい、太い・・・・・
それが、最初に、目に飛び込んで気になってました。
何でこんなところに、こんな太い足を描いたんだろう。
この足の記憶で、私は、この絵、見た・・・って
認識ができたくらい・・・
きっと、
何か意味があるんだろうな・・・・
でも、まだ、国吉のことわかってないから、わからない・・・・・
この構図が読み解けないジレンマ
■絵の履歴によって見えてくるものそして、今、映画を見て、遺作がどんな絵なのか調べたら
あの絵が
最晩年の絵ということがわかりました。
とても、遠い存在に思っていた絵。
私もいつ見ることができるかわからない・・・
と思っていたのに、
私、これ、すでに見ていた・・・・
しかし、何も感じることがなかった。
「遺作」という情報、そして
クラウンのマスクをはずした絵は、描かなかった。そんなストーリーが、添えられていないと、
自分の中の絵の価値の置き方が変わってしまうのです(笑)
何にも感じることなく素通りして帰ってきたのに、急に
受け止め方は変わりますし、
見方も変わります。
この絵は、
「遺作」という貴重な絵となり、
そこから、いろいろなことを意味付けて、読み解こうとします。
その絵の「プロフィール」が「あるか・ないか」で
こうも受けとめかたが変わってしまうのです。
しかし、真に価値がある、何かを訴えかけてくる絵って、
そういう情報を抜きに、何かを感じさせてくれるものなのではないのか。
絵の価値というのは、そのストーリーとセットになって
生まれる価値なのか・・・・
これまで、クラウンの絵で
マスクをとった絵はこれだけという情報もこの絵にストーリーを持たせ、解釈を容易にします。
死を目の前にして、これまで自分が演じてきた
道化の仮面を脱ぎ捨てて、すっきりした気持ちを表している・・・・
人生の旅立ちにむけ、重荷となっていた仮面を脱ぎ捨て、
本当の自分に戻って旅立つ・・・
■2つの祖国の狭間でアメリカに住み続けるために選択しなければならないこと。
祖国を捨て、忠誠を尽くす。
それは、一見、本当に日本を憎むように、軍国主義の批判もしたり・・・・
しかし、
日本人としての血に抗うことはできない。
いやおうなく、心の奥底で沸き起こる葛藤。
考えたら原爆は広島に落とされました。
出身地岡山のお隣です。
それを見て聞いて何も思わないわけがありません。
しかし、それはクラウンのマスクで覆い、
本心をひた隠しにし、さらに自らの心、自分に対しても嘘をついてきた人生。
そんな重荷を脱ぎ捨てて、安らいだ一瞬。
イサムノグチとか、大地の子とか、
2つの祖国に挟まれ苦悩した人の人生。
その一部だけですが、見聞きしたことから、
その人生の葛藤に重ね合わせてていました。
■白い顔の意味は?そして、道化師の顔の色。
頬、あご、鼻が白く描かれています。
特に頬の白は、血色、血管を表しているのではないか・・・
全てを脱ぎ捨て、しょっていた荷を下ろす。
ホッとした表情を、白の絵具で、血色として表現し、血が通った。
それは祖国、日本人としての血を意味するのかも・・・・
(イサムノグチは、混血、私生児という、
自分の存在そのもの、アイデンティティーに苦しめられたたけど、
国吉康雄は、純血の日本人。
その日本人としての血を押し殺して生きなければならなかった。
そこからの解放・・・
一方、「大地の子」の一心。日本人でありながら、最後は、
「私はこの大地の子です。」と語る。
そんな狭間で生きてきた人たちと、国吉を重ね、
この表情の色に、日本人として流れている「血」が表れている・・・
と感じました)
↑ちょっと飛躍しすぎ? 笑
「最後に、自分がかぶっていた仮面を脱いだ」
そんな解釈は短絡的?
国吉の心はそんな上辺の解釈で終わるわけがない。
ところで、顔の白さは、道化師のお化粧をとって、
残ったものだったらしいことが判明。
そうか・・・・ 道化師なんだもんな。
そのお化粧だったのか。
こうして、絵の解釈って、こじつけてしまえば、
いかようにでも、ストーリ展開できてしまうと感じてきました。
それが、想像力であり、創造力。
ちょっとした思考法のコツを身につけて、
それを習慣にし、慣れてくると、
全く関連性のないものでも、結構、結びつけて考えることができてしまうもの。
最近、そういう「思考法」を使って、絵画を見ている気もしています。
そのテクニックを使えば、名画でなくても、どんな絵でも、
解釈ができてしまうのではないか・・・・とさえ、感じます。
『エクゼクティブは美術館に集う』
という本の中で、ペットボトルで鑑賞ができるか・・・・と書かれていましたが、
私はできると思ってます。
あるペットボトルを見て、それに対して、書く気になれば、
原稿用紙10枚ぐらい書けるかと・・・・(笑)
つまり、桶屋が儲かる話もそうだし、
「謎かけ」なんかもそうで、そういう思考で、
美術の鑑賞を作り上げることもできてしまうのではないかと
思えてきます。
■目の前に描かれたものから推察いや、違う! これは、道化師の化粧じゃない!
マスクをした下に、白塗りの化粧なんてする?
そんなこと、しないよね・・・・
顔塗りしたピエロもいるけど、この道化師は、マスクをかぶってるわけでしょ。
だったら、化粧なんてしないはず・・・・
タイガーマスクがマスクをとったシーンが浮かびました。
やっぱり、白で「日本人としての血」を表したんだ・・・・
そうそう、国吉の白。
「クニヨシホワイト」と言われていて、
白という色に、いろいろな意味を込めている。
遺作に、これまでの白の集大成として、
全精力精力を込めて、何かを伝えようとした。
それが、国吉の体の中をめぐる、日本人としての「血」なのでは?
なんて思えてきました。
■目は何を見ている?心の中というのは「
目」が語る・・・・
画家の表現における「目」って何かといえば
「目の玉」最期、
その描写で絵に命が注がれる・・・
しかし、この絵の
目の玉は片方しか描かれていません。
(そのように見えます)
「マスクをとって、すべてを脱ぎ捨てたよ・・・・」と一見、見る人に思わせているのですが、
片眼はマスクでおおわれたままなんです。
実は、完全にマスクをはずしてはいなかったのです。
とったと見せかけたフェイント・・・
心を映し出す「目の玉」は、片方を隠してしまい描いていません。
それは、最後の最期まで、国吉は本心を見せなかったということでは
ないでしょうか?
苦悩を隠しながら、見せることができなかった・・・・
The END を迎える最期の本当の心の内を描いたのではと思うのでした。
生涯孤独。最後の最期の瞬間までも仮面を脱ぎ捨てることができず
演じきらねばならなかった国吉。
アメリカという国に、最後の最期まで、操を立てたということなのでは・・・・と。
■もう一人の見つめる目ただ・・・・・
じっとそんな姿を見ている目線があります。
丸いボールに隠れて、クラウンを見ています。
赤鼻の黄色いもう一人のクラウン。
ボールの影に隠れ、手をかけて、
悲しいねぇ、寂しいねぇという表情でみつめています。
あるいは、国吉が胃がんだった場合。
当時だと告知の問題があります。
おそらく知らせてはいなかったはず。
本当は知っているけど、気づいていないふりをする道化師。
そんな状況を、別のクラウンが見ている・・・とか
1952年 ミスターエース作
1953年 没
その顔の上には赤い三角があって、矢印で示しているかのように、
階段のようなものがあります。
きっと、この下り階段の先に、クラウン、そして
国吉の安らぎの場所が
あるのではないかと思うのでした。
■国吉の絵に見る共通性《僕の遊び場所》という絵の中にも、家が連なり遠近感の中に
描かれています。
国吉の絵は、複雑でシチュエーションがわかりにくいです。
ところが、一部明るい部分があり、そこに遠近の抜けができているのです。
それが、
葛藤の先にある出口を意味しているのではないかな・・・と。
空の色も、青が特徴的に使われます。
苦悩の中に見出だす別の世界。まぶしい青い空。
「少女よ、お前の命のために走れ」
この言葉は、この絵の中にあるような、
現状を打破するよな外に通じる世界へ向かって、
走り続けろという意味だったのかも。
「少女よ、お前の命のために走れ」
その少女が向かう先に、前回、何か文字のようなものを認識しました。
今度、それを確認してみます。
■国吉最後のミスターエースエースというタイトルにも、いろいろ意味がありそうです。
トランプのエース。エースアタッカーのエース。
■絵は見る人の心を表すのかそして、最近、感じたこと。
「絵は、自分の心を映し出す」と言われ、自分でもそうだと思っていました。
ところが、それに抵抗を始めました。
山種美術館の公募展の大賞作品の人物の表情。
「なんとも言えない、何を考えているのかわからないものうげな表情」
と思いながら、私の心は物憂げ? 違うでしょ。
その感想によって、私の心をそこに映し出していると思われたらやだなぁ・・・
って
自分の心を映し出すとは限らない。っていうのが、
ここ数日の私の変化。
■絵が見る人の心を表した例例えば、風神雷神の目は何を見ているのか・・・・
それを探っていました。
⇒
風神雷神:④目線は、自分の見つめている目線 (2015/11/19)
絵画の目が何を見ているか。
それはその人の心を表す。と思っていました。
そういう絵の目は、様々な角度から見ても、自分を見ているように見えます。
その技術は、目の玉に方向性を持たせないこと。
中央に描くということがテクニックなんだろう・・・と思っていました。
再度、宗達の風神雷神を見た時。
風神「おっ、あっちに面白いものを見つけだぞ」
雷神「いや、こっちにも、面白ものがある!」
そんな会話が聞こえてきました。
2神の目線は、画角を離れ、ずっと先を見ているように見えたのです。
まさに、自分の今の心を表していると思いました。
その時、建仁寺の襖絵や法堂の龍から、
本当にいろんなことを受け止めていて、こんなものがあったのか・・・
何にも知らないんだな・・・
美術品のあり方、存在のしかたということに対しても
一種の衝撃を受けていたのでした。
その心が、映し出されるかのように、
風神、雷神は、私に
「もっと、もっと面白いものはいっぱいあるぞ~
探してみなよ・・・」
って語り掛けてきたのでした。
ところが、絵は「観る人の心表す」と言われると、
今、感じていることが、「私の心」?
そう思うと、いやだな・・・とか、
絵からはそう感じたけど、私の心の中は違うんですけど・・・とか、
そういう研究をしている人に、
感想を伝えたら、そういう心の人なのか・・・・・
って見られちゃうじゃない・・・とか(笑)
それはやだなぁ・・・と思い始めているのです。
例えば、《ミスターエース》は、
本当の自分を見せたように見せかけて、実は見せていない・・・
そんな感想を抱いたら、私自身が、
そういう人って観られてしまうじゃない・・・(笑)
そしたら、やたらに絵を見た感想なんて、書けなくなっちゃうよ~
みたいに・・・・
■ずれたところから見る癖自分の絵の見方は対象と対峙はせず、
ずらしたところから観ている・・・ということが今回わかりました。
若冲の《池中群虫図》を見ていた時も、この中で自分はどれか・・・・
ということを考えた時も、見ているポジションをすみっこにしたり、
奥から見つめていたり・・・
土牛の《門》を見た時もそうでした。
○
若冲展:⑤「池辺群虫図」 この絵の中で若冲はどれ? そして自分の姿はどれ? (2016/05/05)
○
④奥村土牛展:《城》《門》《群鶏》《龍》《雨趣》《啄木鳥》 (2016/04/12)
今回も、主題であるクラウンの左横の道化師からの目線に移動させているのでした。
そして、自分が抱いた感想に対しても、
自分の外に出て、その感想に対して見ている自分が出てきます。
もう一度、《ミスターエース》を見に行きます。
見る前に感じたことを記録しておきます。
見てしまうと、見る前に感じていたことが、微妙に変わるので・・・・
あと、道化師の手のつき方がへん・・・・ 慧可断臂図よりもずれてる!
やっぱり、あの太い足の意味が、わかりません・・・・
そして、作品リストを見たら、この作品は、
模写だったこともわかりました。
ところで「道化師」「ピエロ」「クラウン」
どう違うのでしょうか。
国吉の作品では、「クラウン」ということでまとめられているけども、
使い分けはされているのか・・・・
この絵については、「道化師」と書かれているものもあったし・・・
言葉の定義、使い分けみたいなところが、やっぱり気になりだします(笑)
=======================
【追記】2016.6.10
アトリエを模した入り口の演出。
キャンパスに描かれた絵が、何かわかりませんでした。
これ、何の絵なんだろう・・・・
あっ! そういうこと・・・・
そうそう、この絵を見た時、太い足の前に、
なんだろ、この「よだれかけ」みたいなものは・・・・
と気になっていました。
そのことを、このアトリエで再現された絵を見て、
思い出しました。
道化師って、こんなよだれかけみたいなものしてたっけ・・・・
そうか、アメリカの道化師はそうなのね。
と納得してたのですが、やはりこのエプロンも白です。
白が、アイキャッチさせている・・・
一番最初に飛び込んできたエプロン。
それはもしかしたら、
「涎かけ」⇒「赤ちゃん」⇒「生まれる」⇒「祖国」
死ぬ間際というのは、子供の頃を思い出すと言います。
最晩年、道化師に涎かけのようなエプロンをさせて、
自分がこの世に生まれてここにいるということ。
そして生まれた国に思いを馳せているとか。
マスクをとったけども、全てをあらわにしない目の奥で、
見ているのは何か。
自分の生まれた国、生まれた時のことなのではないだろうか・・・
◎手の向きがへん
道化師の手なのに、なんだか手のつき方が違う感じ・・・
でも、これは抽象表現のうち・・・と思っていたのですが、
もしかして、マスクをとる手は、別の手?
自分の意志でなく、誰かに取られているとか?
◎「根拠」
絵を解釈する上で、
「根拠」という言葉を
自分の中で羅列していました。
自分の感想に対して、その根拠が見つけられない。
解説者に対して、その「根拠」は?
あるいは、その理由は「根拠」とは言えないのではないか・・・・と。
または、鑑賞しながら考えていたこと。
その感想をもたらす思考は、どこから来ているのか。
その感想に至った過去の出来事、あるいは、
情報、知識と照らし、こういう経験がこの感想を誘発する。
こういうことを知っていたら、こういうことが考えられたり、
想像ができたりする・・・
自分の思考を、過去の出来事に照らし、
その流れを追いながら、今、この感想に至った
根拠として
認識していることに気づいたのでした。
ああ、昔、同じようなこと、感じた・・・・
あの時に見た、あれが関係してる・・・・
そんなふうに、
フィードバックしながら、歩いてきている。
今回のテーマ、命のために走る。
それは、
行きつ戻りつしながら、前に進むこと。
それが生きてるということ。
■連想される言葉この絵とは関連づけられないのですが、
「命のために走る」という言葉。
フィードバックしながら走る・・・ということが浮かび、
「ホメオスタシス 恒常性の維持」という言葉が頭に浮かんでいました。
最初に見た時にも、なぜかその言葉が浮かんでいたのですが、
関連づけられずに、すみに置いていました。
それが、今、私の中ではつながった感じ・・・・
生きるということは、恒常性を維持すること。
何かの刺激に対して、それを緩衝するように体は反応する。
それは、
心に対する刺激も同じで、平穏に戻そうとする機能がある。
そうやって、維持させながら、人は、人生を走り抜けていく。
う~ん、なんか違う気もするけど、
頭に浮かんだことでした。
◎太い足
国吉の描く女性、そして、このミスターエースも足が太い。
正直なことを言うと、なまめかしくて目のやり場に困りました。
道化師って、こんなカッコ、するもの?
男だと思ったけど、この足の太さ、これまでの女性の姿を見ると、
もしかして、女性だったり?
でも、違うなぁ・・・
ただ、道化師にしてはお腹が出すぎてない?
道化師って玉乗りしたりするから、スリムというイメージが
あります。
そうそう、セザンヌの《アルルカン》のように・・・・
そうか・・・・ 上部に描かれたあの太い足。
走り続けたから、こんなに太くなっちゃった?
「生死観」にたどり着いた画家は、その絵の中に隠喩的に、
「雄雌」を描くというのが、これまでの鑑賞でたどりついた
一つのセオリーなのですが、
このエースを最初に見た時に、
なまめかしくて男性のバレーダンサーを見た時の目のやり場のなさを感じていたのでした。
「男」「女」 何かここに込められているものがあるのでしょうか?
============================-
【追記】2016.6・11
クロストーク「国吉を育てた画学生の同盟〜アートスチューデントリーグ・オブ・ニューヨークについて」
講師:吉野美奈子氏 (彫刻家/アートスチューデントリーグ卒業生) ×
才士真司氏 (本店企画者/岡山大学准教授)より
国吉の教え子である
ブルースが語る国吉の話と、
日本で語られる国吉のイメージは待ったく違う。
暗い絵を描いていたけれど、
アメリカでの国吉象は明るい。
1800名の個性、主張の強い面々を束ね、
信頼もされていたし守られていた。
ところが、日本で語られる国吉論は・・・・
日本人は、そういうメンタリティーが好き。
かの地で、苦労し、
受け入れられず苦悩した。
そのようにどうしても語られてしまいがち。
しかし、そうではなかった。
その地で学び、今の時代、アメリカで活躍し、
国吉と同じ学び舎で、
国吉の言葉を聞いた恩師から聞く言葉。
それを吉野さんから直接、話しを聞くことで、国吉を感じて欲しい。
そういう目でまた、国吉を見たら、違う見方ができるかも・・・・
それ、図星かも・・・・
確かにそれあるよなぁ・・・・・
私たち、
お涙頂戴物語好きかも・・・・(笑)
そうやって考えると、あの
マスクをとる手は、
私たちたちの手なのかも・・・とも思えてきました。
国吉・・・・ 本心はどうだったの?
それを剥がして、
本音を引き出したいという私たちの心・・・・
国吉自身が、自分を見せるために、
マスクを脱いだのではないのかもしれない・・・
■遺作って?ところで、国吉の遺作は、これじゃないらしい?
>新発見の絶筆「オールド・ツリー」の紹介など
「晩年」「最晩年」が違うことを知りましたが、
「遺作」 って最後の作品ってことじゃないみたい・・・
○
wiki pedhiaより
死亡した者が残した(遺した)文学や音楽、絵画、漫画などの作品。
作者の死後に発表される未完成作品のこともある。
未発表の作品や制作途中の作品が複数存在する場合は、
すべて遺作と呼ばれることが多い。
最期作品と思ってたから、遺作展ってなんかへんだ・・・
とは思っていたのだけど(笑)
でも、これが、最後の作品ということでないと、
全く、解釈が変わってしまう・・・・
⇒
遺作はいつから最後の作品という意味になったのですか?ところで、映画の中では、「遺作」って言ってたよね。
再度、確認したら、「遺作」=最後の作品ってこと・・・ って
説明してたし・・・・
「絶筆 《オールド・ツリー》」が新発見されたということは、
《ミスターエース》は、最後の作品ではなくなります。
最後の作品だと思って感じたことは、どうなってしまうのでしょう。
ちょっと、考え込んでしまいました。
作品そのものから感じること。
そして作品の背景によって感じたこと。
でも、その背景がまた違うということになったら・・・・
それはどういうことになるのでしょう。
======================
【追記】2016.6.12
■模写と実物との違い
この絵は学生さんが模写したものです。
実物とどれくらい違いがあるのか。
並べれば違いはわかる。
が、単独で見ていたら、ほぼ同じ・・・
実際の方がもっとお腹が出ている。
描き手は、意図的に実物とは変えるのか。
個性が出る・・・・
ピエロはもっとスリムなのではないか。
涎かけみたいなエプロンをしている?
「もしかして、固定観念を持って見てませんか?
ピエロとはこういうもの・・・・という」
ちょっと意外でした。
何かが違う・・・・そういうところから、何かを引き出そうとしていたけど、
それが固定観念を持って、見てしまっているということ。
あれ? ここ変・・・・
と思うのは一種の固定観念ということ!?
■太い足を理解するためのヒント
本物は、今、ベネッセミュージアムに。
本物を見たらわかるかも・・・・
しつこく、ヒントだけを伺う。
少女に走れ!と言って走り続けたら、足がこんなに太くなってしまった・・・とか?
国吉は看板を描いていたこともあるそう。
その看板ではないか・・・という話もある。
でも捉え方は、いろいろあっていい。
国吉自身は、意味を持たせて描いてはいないと語っている。
ということは、その意味を考えることは、無駄なことのようにも思えてきた。
答えはないということ?
「答えはあります」
それは今、あなたが考えたことが答えなんです。
■目の表現について
京都で見た龍の八方にらみ・・・
午前中は、ぶっちゃけ寺、再放送で、眠り猫の目線のことをOAされていました。
そして以前、ガラスに風神雷神の絵を描いていた作家さんと、
目線の入れ方について話したことがありました。
偶然にも、その作家さんと、帰りにデパートに出店していて遭遇。
ミスターエースを見せて、その目線について話していたら、
左の目の位置が中心に来るように描いていますね。
目を中心に持ってくることで、どこから見ても自分を見ているように見えるようになる。
描く人の視点だなと思いました。
(続)
⇒====================
【関連】
○
国吉康雄展:⑥巡り巡って国吉に漂着? (2016/06/18)
○
国吉康雄展:⑤国吉と直島 そして 私と直島(2016/06/16)
○
国吉康雄展:④日本初公開 修復された《クラウン》 (2016/06/15)
○
国吉康雄展:③「クニヨシブラウン」「クニヨシホワイト」 (2016/06/15)
○
国吉康雄展:③ユニバーサルウーマンって? (2016/06/15)
○
国吉康雄展:③太陽は輝いていなければいけないの?(2016/06/15)
○
国吉康雄展:②-2 最晩年作品 《ミスタ―エース》と自己対話型鑑賞(2016/06/09)⇒(2016/06/20)
○
国吉康雄展:②-1 最晩年作品 《ミスタ―エース》と自己対話型鑑賞(2016/06/09)
○
国吉康雄展:①《西瓜》 どっちが熟れてる? (2016/06/07)
○
国吉康雄展:①サブタイトルはないの? と思ったら・・・ (2016/06/07)