『④奥村土牛展:《城》《門》《群鶏》《龍》《雨趣》《啄木鳥》』コロコロさんの日記

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山種美術館 「奥村土牛 ―画業ひとすじ100年のあゆみ―」で行われたブロガー内覧会より。

館長さんから伺ったギャラリートークのお話や、展示された作品の解説、
あるいは「山種美術館所蔵 奥村土牛 作品集」の解説から
抜粋しながら、気になったものをピックアップしています。


■《城》 奥村土牛 山種美術館所蔵 1955年(昭和30年)66歳【①】
描かれたお城は別名、白鷺城と言われる姫路城
この絵と同じ場所に立っても同じようには見えないそう。
いろいろな部分を合体させたキュビズム的要素が見えるとのこと。


キュビスムとは
 20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始。
 多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。
 それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、
 いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め
 ルネサンス以来の一点透視図法を否定


「城」は天守閣を下から見上げる構図。【②】(部分)
そして画面の下の色白の白壁が大きく描かれている。
よく見ると、その壁の色の表現に工夫がみられる。【③】(部分)
城のにも注目  群青色の粒子の絵具が使われている。
この絵具はフライパンで焼いた絵具を用いておりキラキラしている。


【昨品集より】
 姫路城解体修理が1955年に着手されることを聞いた土牛は、
 翌年1954年に 1週間ほど写生のために滞在。

 その時の土牛談
 「何か解放されたようだ」
 「自由にのびのびと制作できる気分」

 その言葉は、作品の構図にも表れ、
 天守閣全体を画面内に納めるのではなく、
 「ろ」の門をくぐり横から城を仰ぎ見た姿を描いている。

 このような大胆でユニークな構図城郭の壮大さを強調する表現方法となる。
 
 土牛は、描きたいと思った対象なら何でも失敗をおそれずぶつかっていきたい。
 無難なことをやっていては明日はないと考えるようになっていたと言います。

 「限られた色数」「面」で構成する描法は、
 セザンヌの影響も伺えるとのこと。



【感想】
 「何か解放されたようだ」
 「自由にのびのびと制作できる気分」

土牛にこの言葉を言わせたものは何か・・・
何を意味する言葉なのかなと考えてみたのですが、
姫路城解体修理ということを目の前にしたことで、

今あるこの姿は、永遠なものではない
 1346年に築城された姫路城。590年に渡る年月を経て今に至るのは、
 こうした解体修理によって引き継がれてきた
ということを目の当たりにしたからではと思いました。

よく伝統とは、常に時代に即した改革が行われているといわれます。
それと同様に、こうした建物も長きに渡り、今に姿をとどめるのは、
いったん、リセットさせて再スタートするということを繰り返してきたからこそ。
今の状態にとらわれることはない。従ってその今をどう描こうと、それは自由だ。
そんな境地に至ったのでは?と思いました。


土牛が耳にした解体修理は、昭和の大改修といわれるものです。
1935年(昭和10年)2月から始まり、1964年(昭和39年)竣工(完了)
全ての建物を一度解体してから部材を修復し再度組み立て直す方法で、
国直轄事業として行われました。
29年に及ぶ国家プロジェクトは、1期工事、2期工事と長きに渡り行われ、
2期工事は、さらに1次と2次に分かれます。
俗に言われる昭和の大改修は、2期の第2次工事のことをいい
1955年(昭和31年度)~1963年( 昭和39年度)までの8年間で行われました。

土牛は、この昭和の大改修の工事の着手を耳にして、
スケッチを試み、《城》の作品に仕上たのでした。

大天守・東小天守・西小天守・乾小天守と
イ・ロ・ハ・ニの各渡櫓などの解体修理が行われる前の画業です。


ちなみに、平成の修理が、
2009年6月27日から2015年3月18日まで行われました。
お披露目されてからよく耳にするのは、白すぎるという声です。
漆喰は、塗られた当初は真っ白ですが、次第にカビが発生し、
うす黒くなっていくのだそう。
真っ白な壁が見られるのは今だけだと言います。

このように、修復を繰り返す中で、その姿は、常に変化をし続けていると
いうことが見てとれます。


今に至る長い歴史とともに存在したお城は、その時、その時で変化をする。
「今」をどうとらえてもよい。
その時代、時代のとらえ方がある・・・・
そんなことを土牛は、姫路城の解体を前に感じたのではないでしょうか?

壁など傷んでいていい感じがしたと、1979年の文芸春秋で語っています。
今、描くということは、時代の変化の中の最後の瞬間をとらえることになるわけです。

ちなみに昭和の大改修の前は、明治時代に行われており
工事は1910.7.10(明治43)から1911.7.15(明治44年)に行われました。
明治の改修から44年の月日がたっていましたが、
明治の改修では、全面改修が行われていないので、
部分的には、漆喰ははがれ瓦はひび割れ
350年の風雨にさらされ、天守閣は朽ち果てようとしていたそう。

本当は、空から鳥瞰図を描きたいと思っていたようです。
しかし、それができず、城をぐるりと回ってここの位置を選んだと言います。

白鷺城と言われる「白」を基調とした姫路城が、
時を経ていい感じに傷んで、黒ずんでいる。
この白と黒の対比は、姫路城の最後の瞬間。
限られた「色数」で描くことのへの可能性のチャレンジ。

セザンヌの影響を受けて、
「限られた色数」「面」の構成を試みる。

色の制限に加え、「面」と捉えて構成するのに、
ここらの構図がバランスのよいシチュエーションだったのかもしれません。


「限られた色数」「面」
ここに自由になるためのヒントがあったようにも思います。
「色数を限る」それによって、同じ色でも違う色を表現するために
プライパンで絵具を焼くという方法を用いたり、
立体でなく「面」という表現は、
3次元から2次元という制約ができた中で、新たな表現法を見出したり。

制限をされることによって、より自由になれるという話が、
赤瀬川源平さんの言葉の中にあった記憶があります。



自由に考える時と、条件が設定されたなかで考える場合、
条件が設定されることによって、より発想力が高まると・・・

「ろ」の門をくぐり横から城を仰ぎ見た姿を描く。
限りある中で思考することにより得た自由でもあったのかも・・・・



■《城》写生 奥村土牛 山種美術館所蔵 1955年(昭和30年)66歳【④】
スケッチの展示もされていました。
スケッチを重視していたという土牛は、城をじっくり観察しがなら描く中で、
ふっきれたのではないでしょうか?

城を観察する中で、城の「部分」に注目し、
それを切り抜くようにフォーカスする。
切り抜いたものを、組わせてコラージュするように構成していくと、
ちょっとずれたような感覚のキュビズム的な構図になったのでは?

大きな白い壁の上に描かれた黒い瓦屋根
この屋根は、焼いた絵具を使っていてキラキラとしています。
ここをポイントとして位置付けたと思われます。

この屋根が大きな下半分の白壁の切り替えしにあたります。
上部に建物が乗っていますが、歪みがあるように感じさせられます。
また、左の建物の屋根は、下から見上げた構図となっており、パースが狂った感じがします。
これは、この建物の「屋根の裏」に注目し、スポットをあてた結果であると思いました。

屋根の庇を見ると、すべてパースが狂っています。
キュビズムがルネサンス以来の一点透視図法を否定したことにもつながります。

描きたいところを描きたいように描いて、貼り合わせる
その結果、全体として、ちょっとぐらいずれたって、それはそれでいいじゃないか・・・・
という土牛の吹っ切れが、スケッチの中に現れていると思いました。



■《門》 奥村土牛 山種美術館所蔵 1967年(昭和42年)78歳【⑤】
【作品集解説より】(P114)
姫路城の回りにはいろは順に名付けられた門が15
その他の門が69 合計84の門が存在。現存するのは21
そのうちの一つ「は」の門を描いた。

前出の《城》を描くために訪れた際に(1955年 S30 66歳)
城郭内の門も丹念に写生。その時の写生を元にした絵。
12年後に描いたことになります。

平面的になりがちな門というテーマを
「黒々した門塀」「門から見える白壁」「壁の上に作られた銃眼」
瓦や地面の色を微妙に変えることで、縦と横の空間の広がりを表現。
黒々とした門扉、門から見える白壁、壁の上の四角い銃眼が描かれています。
実計とは違うとのこと。


【感想】
この絵が門と言われても、姫路城がどのようなお城なのか
構造とかがわかっていないので、
どういう門なのかが全くわかりません。

ただ、暗い世界から、外を覗く・・・
さらにその先の漆喰の壁面の銃ののぞき窓
視線を誘導させられました。

土牛自身の内証的な視線が、何かのきっかけで外へと向かい
その先の壁にぶつかる。さらに壁に空いた穴、鉄砲穴をみつけ
ピンホールのような穴から、その先の世界を覗き見る・・・【⑥】

暗い門の中から、光が強くあたる土塀を見つめる・・・・【⑦】(部分)
しかし、その視線は壁で遮られてしまいます。
ところが、その壁にはさらにその先にある世界を覗くかのような
のぞき穴をみつけ、そこに導かれる。【⑧】(部分)

そのように視線を導かれるのを感じたので、その印象を、
次第に、鉄砲穴の窓をフォーカスするように、近づいて撮影しました。【⑨】(部分)


のぞき窓からのぞいた、その先の世界をイマジネーションさせられます。
ところが、こののぞき穴は、あちらからの視線があることにも、気づかされます。
視線がどんどん遠くへ飛ばされていく感覚・・・
その一方で、壁をぶち抜いた穴からは、こちらを見つめられている。

これは、土牛自身の自分を見つめる思索を表しているのではないか。
見つめていても、どこかで何かに見つめられている。
それは、第三者でもあり、自分自身でもある。
自分自身を、自分が見つめている・・・・
そんな葛藤のようなものも感じました。

内証しながら、外に開かれていったけども、
やはり、どこかでそれを内証している自分・・・・



◆「は」の門の前でスケッチをする土牛(78歳)【⑩】
土牛先生がスケッチしている写真。
それと同じアングルになるよう、入り口の左斜め下からあおるように撮影しました。【⑪】(部分)
土牛先生は何を見ているのでしょうか・・・・

と思いながら、絵の中の同じポジションに位置どり、
土牛と同じ目線で見ながら撮影しました。【⑫】(部分)

ところで、よくよく見るとこの写真、ちょっとおかしくないですか?
土牛先生がスケッチをしているポジションで、この門を描いたとしたら、
描かれたような絵にならないと思うのです。
この門が描かれた位置は、もっと引いた目線から描いたはず。
むしろこの写真を撮影している人の位置から描いた構図ではないかと。

写真の土牛先生は、もしかして説明カット用に撮影されていたとか?
なんて、思ってしまったのですが、生真面目を絵に描いたような方
だったそうなので、土牛がこの位置から描くと、
このような構図に見えたということなのでしょう。

(この写真を見た時、なんとなく意図的なものを感じていて、
 この写真を誰が撮影しているのだろう・・・と思っていました。
 絵を描く土牛の目線で写真をとりながら、その構図の中に
 土牛を座らせた・・・・
 
 そうなんです。座っている土牛を撮影したのではなく、
 「座らせて」撮影した・・・という意図を感じたのでした。

 土牛先生にそんな指示を出せる人ってどういう人なんだろう・・・って

 この読みはちょっと鋭かったです。
 美の巨人でその理由がわかりました)


内なる世界から外を見ている古径の姿をこの写真は示唆しているのでは?とか。
この構図は、白い土塀で視線はストップしてしまいますが、
しかし土牛先生がここに座ることで、土牛先生の目線は、鉄砲の穴ではなく、
土塀にぶつかって、右に折れて、その先にある過去に描いた、
 姫路城に思いを馳せているのではないか?とか

姫路城の位置とこの門の関係を示唆するための、解説写真だったのかなぁとか。
(この門だけでは全くわからないので補足的な写真とか・・・)



◆裏から描いたってどういうこと?
ところで、「は」の《門》の絵について調べてみると、
「美の巨人」で、この門は、表からではなく、裏から描いていると言われていました。

しかし、表だ裏だと言われても、よくわかりません。

ということで、この門がどんな門なのか調べてみました。
  表からみた「は」の門 ⇒○はノ門
  裏からみた「は」の門 ⇒○美の巨人たちより

上記のリンク先を見て、「はの門」を
「表から」見たら・・・
「裏から」見たら・・・
どんな門なのか、そして門がどういう位置に存在するのかが理解ができました。

しかし、この絵だけを見ているだけでは、そういうことまでを読み取ることは、
行った経験のない人には、絶対に無理な話だと思いました。



■門を裏から見て描いた理由は? 
それは、土牛の内証的な視線。
心の内を描く上での暗さが適していた。
表からでなく裏から見たシチュエーション・・・・
内観のような状況とも一致する。

そして、自己の開放によって、白い壁へと向かい
内面を表す「黒」とのコントラストととして描くため?


それともう一つは、とっても単純なことになるのですが、この絵を見て、
この門はどういう位置関係にあるのかがよくわかりませんでした。
白く輝く土塀が側が正面だとしたら、引きがあまりになさすぎる・・・
これも、なんだか変・・・と感じることの一つでした。
この引きだと、正面からは描こうとしても描けないのでは? と・・・


そんなこともあって、この門がどういう場所にあるか、
全体はどんな門なのか、ネットでいろいろ調べていたのでした。




■数ある門の中からなぜこの門を描いたのか?
姫路城の門には、どのような門があるのか一通り見てみました。
なぜ、この門だったのか・・・・
その理由はわかりませんでした。

パッとしない感じの門。地味な感じ・・・
それが土牛の堅実な性格とマッチしたのかな?
と思ったのですが、もっと別の理由があるのだろうと思っていました。

それは、この門の位置関係とか、門の構造とか作り方とか・・・
何かわかりませんが、この門だけが持つ特有なもの
他の門にない何か特徴がきっとあって、それに土牛は惹かれたのだと思いました。

たとえば、他の門は、比較的広く開放的なところに(通り道の途中に)
設置されているように見えました。
遠くから門の存在がわかり、正面から見る「引き」があると思いました。
ところが、この門は、それほど幅のない緩やかな坂をのぼり切った
正面でなく、左手側のちょっとした死角のような位置に存在していて、
あら? そんなところに門があるのね・・・と、その姿を
遠くから認識できないような位置に存在しています。

  ○はノ門

そういう、我こそは門だ! という風体ではない。
遠くからここに門あり! と目立つことがない。
そんなことが、土牛の心をとらえたのかな・・・とも思ったのですが、
門の全体を確認できていないので、他にも、そういう門があるかもしれないし、
その場に行ってみないとわからないことなんだなと思ったのでした。


 Q なぜ、土牛がこの門を選んだか・・・・

それは、現地に行かないとわからないし、
数ある門の成り立ち、由来、機能、一つ一つを調べないとわからない。
その門の根源的な部分に心惹かれたのだろうと思われました。

あるいは「門下」といわれるように、
「門」をくぐってその属門に入ることを意味するもの。
「門下」その先生について教えを受けること。
人生の道の途中にはだかる「門」という象徴的な意味、
大きな壁のようなものとしてとらえていたりするのかも・・・・

あるいは、
「門戸を開く」というように、
「禁止や制限をしないで,交流・通商・出入りなどを自由にする」という意味。
あるいは「門戸」という言葉だけだと
1 門と戸。家の出入り口。
2 他と交流し、また外部のものを受け入れるための入り口。
    「外国に―を開く」「一般市民に対しては―を閉ざす」
3 初歩。入門。「哲学の―をうかがう」
4 家。一家。また、一流一派。

以上のような「門」=「門戸」と考えると
いろいろな意味にも解釈ができます。



■その答えは・・・・
美の巨人の動画がありました。館長さんも登場されていました

   ○美の巨人たち 「奥村土牛 『門』」   

当たらずとも、遠からず・・・・かな?

 OAの内容 下記にまとめました 興味があれば・・・
   ○奥村土牛 《門》 美の巨人たちより (2016/04/13)





◆なんかへん・・・と思った写真の構図
土牛がスケッチしている姿を撮影いた写真。
この位置と、描かれた門の構図の関係がおかしい・・・
と思ったのは当たりでした。

この写真は、写真家の土牛の四男が奥村勝之氏が大学時代、
父のスケッチに同行し撮影したものでした。
土牛は、門の扉の細部を描くために近くに近寄ってスケッチしていました。
そんなシーンをとどめたもののようです。


姫路城がどのような門によって構成され、どういう構造なのか。
そういう基礎知識がなければ、理解は難しい絵だと思いました。

文学や哲学的なものを題材にするのは、広く知れ渡ったものと捉えることができますが、
このような、限定された場所の特殊な門を、部分的に取り上げて
画家の内面的な部分の表現をするというのは、
解説なくしては、理解が難しいと思わされた一枚でした。

最初にこの絵を前にして、姫路城の「はの門」と言われても、
「はの門」の全景がまずわかりません。
切り抜かれたこの構図が、どういうシチュエーションかも、全く想像できません。
さっぱりわからないよ~

本音:そんな題材、掲げられても、説明なしに誰が理解できるの?

それが、私のファーストインプレッションでした。


この門の全体像、外観、配置などを把握したくて、
インターネットである程度ところまで概要をつかむことができました。
そんなことができるようになったのは、つい最近のことです。

この絵を見た当時の人たち。姫路城に行ったこともない人たちは、
この絵を前にしてどのようにして理解していったのでしょうか?





■《軍鶏》奥村土牛 山種美術館所蔵 1929年(昭和4年) 61歳 35回院展【⑬】
近々、若冲展が行われます。
鶏で有名な若冲と、土牛の鶏。
それぞれが、基本観察を重視し、見続けるというスタイルをとっています。
何がどう違うのか、理解になればと収集。
比較の参考に・・・・

  【⑭】(部分) 太い首や足
  【⑮】(部分) つやのある羽根
  【⑯】(部分) 強さと大きさを表現
  【⑰】(部分) 軍鶏の鋭いまなざし



■《龍》 奥村土牛 山種美術館所蔵 1975年(昭和50年)86歳【⑱】

建仁寺で見た、海北友松の龍とタッチの比較としてピックアップ

  ⇒○建仁寺:④雲龍図 海北友松 描かずに描いた龍の姿をみつけよう (2016/03/25)



■《雨趣》奥村土牛 山種美術館所蔵 1928年(昭和3年)39歳【⑲】
淡い濃淡のついた胡粉で雨を一筋、ひと筋、一筋描く。
そんなに一本一本の雨を描く必要があるのか・・・とまで言われる。
緑の緑青を墨と胡粉を混ぜる。【⑳】(部分)
速水御舟の勉強会に参加した影響で、写実的、繊細な線描が感じられる。【㉑】(部分)
とのこと。



■《啄木鳥》奥村土牛 山種美術館所蔵 1947年(昭和22年)58歳【㉒】
一本一本の木々の向きが違う
写生から離れ装飾的に・・・



◆装飾的とは?
日本画でよく使われる「装飾的」という言葉の意味がよくわかりません。
「装飾的」とはどういうことなのか・・・・

写実的表現から、装飾的な表現に意向することは、
画家としてのステージをあがることになるのかという素朴な疑問がありました。

  【参考*1】


「装飾的」ということについて、学芸員さんに伺ってみました。

「装飾的」には2つの意味がある。
一般的に使われる「装飾的」という意味と、
美術界の専門的な「装飾的」という意味は、違うニュアンスで使われている。

この「きつつき」の絵でいう「装飾的」というのは、木の幹の表現が、
写実的なリアリティーから、リアリティーとは違う、より絵画的、装飾的な
表現で描かれていると伺いました。

「金」を使えば、装飾的となるのか?  そういうことではない。
「金」を使えるということは、技術的に高いものを持っているのか。  
技術と比例するものではなく、技術が上だと、装飾性が他界ということもない。


この絵を見た時に、菱田春草の《落葉》の幹の表現に
共通していると感じていたので、なんとなく「装飾的」ということが、
理解できた気がしました。

「装飾的」ということをテーマにMIHOミュージアムで、
今、「かざり」をテーマに4/17まで企画が行われている

先日の辻先生、山下先生の講演会や、福井美術館の学芸員さんの話から、
すこしずつ「装飾性」ということがつかみかけてきた感じはするのですが・・・

リアル表現から、それをさらにステップアップして、
飾るということを意識した、デザイン的に?抽象化する。
ということなのでしょうか?



■動物のかわいらしさを表現した土牛
揚げ足とりのようになってしまいますが、
動物の憎ったらしさを表現する画家がいるのか?
だれもが、「かわいらしさ」を表現するものではないのか?

昔は、先達の模写や、毛の一本、一本を描写。
生き物である生命力を描いた。

「かわいい」というのは、ある意味、現代的でもある。
現代の「かわいい」という文化にも通じている。



■作品の映り込み?
今回、写真撮影をしながら感じたことなのですが、
前回と比べると、映り込みが多かったように思いました。
前回の内覧会で、山種美術館の照明は映り込みが少なく、
ガラスの透明度が高いということを経験していたのですが、
照明の担当の方が変わられたのかな? と思っていました。

すると、土牛作品のほとんどが、アクリルガラスの中に入っているため、
どうしても、反射してしまうとのことでした。

美術館のライティングも、作品の額装によってまた見え方が違う
ということがわかりました。


光の当て方ということに興味を持ち。モネ展を、東京と京都で見ました。
今回の目玉作品だった「印象 日の出」は、アクリルガラスが越しに
光が当てられていました。

最初、気づかなかったのですが、途中でそのことがわかり、
あ~ら、そうだったんだ・・・・という感じに・・・・

美術館の光と作品の関係。奥が深いです。


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山種美術館ブロガー内覧会 レポート
   『奥村土牛 ー画業一筋100年のあゆみー』
奥村土牛 《門》 美の巨人たちより (2016/04/13)
④奥村土牛展:《城》《門》《群鶏》《龍》《雨趣》《啄木鳥》 (2016/04/12) ←ここ
③奥村土牛展:美術館内で、「醍醐寺」の桜と「吉野」の桜の饗宴 (2016/04/07)
②奥村土牛展:《鳴門》「抽象的」に描かれた渦潮 写実的にも見える?(2016/04/05)
①『奥村土牛 ー画業一筋100年のあゆみー』へのあゆみ (2016/04/05)
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