『菱田春草:③《落葉》木の回りに集まる落葉の謎(福井県立美術館所蔵)』コロコロさんの日記

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菱田春草の《落葉》 福井本

   ⇒○【竹橋】菱田春草展(←永青文庫本 福島本 比較)


木の根元に集中して描かれている落葉。どうも気になっていました。
自然に葉が落ちるとこんなふうには落ちません
  
  ⇒○写真①自然の落葉
     落葉が自然におちるとこの写真のような感じで広がります。
     カーペットのように敷き詰められて、
     根元のまわりに落葉が集まったりはしません。(たぶん)
     木の回りの地面の部分は、とてもきれいです。
     これは、人の手が入っていることを示しています。
     しかしこの木のちょっと奥には、「笹」がはびこっています。
     何もしないと森は、このように他の植物が進出してしまいます。
     この写真は手の入れられところと、そうでない部分。
     その対比がはっきり見てとれます。


ということで、福井本の絵の落葉は、葉が落ちた自然の状態ではなく
掃き集められているように感じられたのです。

根元に集めて木の養分にしているのかな?
落ちた葉っぱが、木の栄養となってまた木を育てる
生命のサイクルを表現しているってこと?
なんて考えていたのですが・・・・

春草の時代、落葉は堆肥として利用されていたはず。
だから、春草が描いた絵のように根元にわざわざ集めたりしないのではないか・・・・

森は、人が葉をかき集めて根元にまいたりしなくても。
自然に落ちた葉っぱだけで、循環していくもの。

なのに福井本の《落葉》は、わざわざ樹木に集めているようで不自然。
人工的なきれいさのように思えてずっと、ひっかかっていました。

一方、永青文庫本の《落葉》を見ると、葉はまばらに広がって描かれています。
一部集まって見える部分もありますが・・・

  ○【竹橋】菱田春草展より 
   (↑ 永青文庫本と福島本《落葉》の様子を並べて比較できます)

    ⇒○写真②根元の落葉
       自然に落ちた葉は、実際にはこんな感じで葉が広がっています。

    




■木の根元の落葉は重力?

根元に落葉が集まっていることについて、
着目されている方はいないかな?と調べてみると・・・・
次のような記述を見ました。

菱田春草《落葉》──ゼロの空間「勅使河原 純」(影山幸一)より
ーーーーーーーーーーーーーーーー
《落葉》は、描かれた葉が下に集まっている重力感と、
靄(もや)が立ち込めて地面の奥に消えて行く浮遊感、
私はこの二つの異なった引力に不思議な魅力を感じていた。

春草は知的な木の配置と色彩設計により独自の空間を創り出したのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

この根元に集められた状態が「重力」・・・・あるいは「引力」・・・
私にはこの状態が「重力」や「引力」には思えませんでした。
うまく言えないのですが、そういう力ではなくて単純に「人力」ではと・・・

自然の力、重力ではこんな葉の集まり方はしないはず・・・



■知的な木の配置って?
そして知的な木の配置・・・ってどういう意味なのでしょうか?

「木」の配置が知的ということ? 
「木の配置」から知的さ感じさせるには、
「具体的に」どう並らべてあったらその「木」は知的に見えるのでしょうか・・・・

あるいは、「描いた人の知性」を感じさせるということなのか?
ではそれは「春草のどういう部分が知性」を感じさせられているのか・・・

「知的」なのは「木」なのか、描いた「春草」のことなのか・・・・  
揚げ足取りみたいですが、もっと具体的に知りたいと思いました。


私は「密に木を描くことで、自然と人とのかかわり方を示唆しようとしている」
という意味で、それを描く春草の知性と受け止めることはできます。

しかし、それは、今の環境にいる私たちだから感じることができるのであって、
描かれた時代に、そのような「知」を込めた「木の配置」として
受け止めることができないのでは? と思っていました。

里山の破壊がまだ現実味を帯びていないと思われる明治のこの時代。
森を維持するという意識は特に持つこともなく、
当たり前にしていたことだったと思うのです。

そこに春草が込めた「知」を感じることは、できなかったのではないか。
今は、里山の維持を「先人の知恵」ととらえることができるけども、
当時はそんなことは知恵でもなんでもなく、
生活そのものであり、生きていくためのすべだったはず。
それを「知」として、感じとる人は、ほとんどいなかっただろうと・・・・





■人工的な根元の落葉
木の根元が掃き集められたかのようです。
これは、明らかに人の手によるものだと思われます。
風によってと考えることもできるかなと思いましたが、
風でこのような集まり方はしないと思うのです。
特に理知的、論知的な春草ならそのことは、十分わかっていると・・・・

しかし、この時代、根元に落葉をわざわざまくということも
していなかったはず・・・
そんなことをしなくても、森の生態系は成り立つから・・・
なのに春草は、わざわざ掃き集めたように描いた。
なんでなんだろう・・・・

ここでも「人との共生を示唆している」からだと考えるのですが、
この時代に、そんな示唆は必要ないはず・・・・
とまた堂々めぐりになっていたのでした。



ところが・・・・・
  ⇒○落葉は森にかえす
  ⇒○木々の根元にまかれる


上記によると、落葉は、かき集められて根元にまかれていたのです。

明治神宮の杜は、未来に向けて引き継ぐために、
維持管理方法が、長年、引き継がれてきたと聞きました。
しかし、以前は、木の根元にまくなんてことはしていなかったと思うのです。

ここで、明治神宮の杜で引き継がれてきたことは、
自然を循環させるための「本質」的な考え方だったのだと思います。
その「本質」がしっかり引き継がれてさえいれば、
その時代に応じて何が必要なことなのか。
時代に対応した管理方法を、考え出すという知恵として引き継がれたのだと。
だから、今は、このように、落葉を集めて樹木のまわりにまくという
管理法になったのだと理解しました。


もしかしたら、100年後には、世の中は、
落葉を集めて根元にまくという時代になるということを示唆しているとか?




■永青文庫本との違い
永青文庫本の《落葉》は、根元に集まることなく広がっています。
そして、右隻の一扇に、緑の笹が描かれていることに気づきました
福井本では、この笹が描かれていません

   ⇒○【竹橋】菱田春草展(←永青文庫本 福島本 比較)

最終日、目をさらにして、福井本の《落葉》の端から端まで、
小さな、芽吹きが描かれていないかを見てきました。
福井本では、笹の他にも、他の植物の芽吹きは確認できませんでした。

(もしかしたら、見落としがあったかもしれませんが)


ということで、福井本では、より「人と自然の共生を意図的に描いた」
人の手で加わった状態をより明確にしたのではないでしょう?


そのままにしておくと、森は自然に生えてくる笹や木の芽で寝食されます。
 
     ⇒○写真③新芽や笹
        新たな植物が芽吹き、笹が生え始めています 

福井本ではそのことをより強調して、人の手が入った管理された状態を描いている。

     ⇒○写真④間伐された木
       混みあった森林から曲がったり弱ったりした木を抜きさり
        森林の中を明るく保って 真っ直ぐ育つようにします。

地面にはあえて何も描かないことで、「人の力の必要性」
描こうとしたのではないかと思ったのでした。

間引きすることによって保たれる森の自然、そして循環。
樹木の間隔を縮めて描いたのはそれを示唆するためだった・・・・


2016.2.27 記


【参考】⇒○【生物基礎】第4章 植生の多様性と分布(光合成曲線・植生の遷移) 植生の遷移


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【追記】■100年先を見通す眼力(2016.3.2)
「「菊慈童」に新たな光 生誕140年 菱田春草展を契機に」 
             2014年10月30日 南信州新聞  より

春草の時代の里山と人間との関係。そして、今の時代の里山との関係。
春草の時代の里山の管理、人と自然との共存は、
それが当たり前すぎる時代だったはず。
のちの都市化、それに伴う燃料などの切り替えなど、
想像ができなかったのではないかと思っていました。

そんな時代に、「人と自然の共生」を、絵の中で示唆したとしても
春草の生きた時代には、現実的ではなく伝わらなかったのでは?
ということが頭の片隅にありました。

現に、ちょっと調らべてみても、春草の《落葉》を
「人がかかわる自然」がテーマであると言及されているのを
目にすることができませんでした。


しかし、確信することができました!
2014年、春草展に関する南信州新聞の記事の一説です。
引用禁止なので、リンクができませんが、

【「菊慈童」に新たな光 生誕140年 菱田春草展を契機に】
で検索すると、飯田市の「郷土が生んだ偉人 菱田春草」につながります。
その中の、「菱田春草に関する記事」のところに、pdfファイルがあります。
その中に次のような一言が・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
要約すると・・・・
「春草は、21世紀の混濁した社会環境を、眼病を患いながら、
 100年先の環境を見通す眼力があったのでは?」
ーーーーーーーーーーーーーーーー


里山の自然が壊され、人との関係が薄れていく未来
そんな時代の到来を春草は予見していたのでしょう。
多くの人が、春草のことを理知的と評していました。
その理知的な頭脳は、
「今の環境がこのまま行けばどんな社会へ向かうかが見えていた」
その時代へ向けてメッセージを作品に込めていたということなのだと。

春草はそのメッセージを伝えるために、今でも作品の中に生き続けている
そしてこれからも永遠に・・・・



100年の後の人々は、落葉を集めて木の根元にまいている。
環境が変化し、その中でこの森を維持していく方法。
そんな知恵を生み出して、この森を維持しているのでは?

そんな100年先の今の環境を見通す眼力があったのだ!
と思ったのでした。


春草の「理知的さ」について
文字がオーバーしてしまったので、次に独立させました。

  【⇒※】○菱田春草:③春草の理知的さはどこから それによってもたらされたメッセージ


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【追記】■《落葉》の本質 現場の強み (2016.3.2 3.3)
春草の《落葉》の本質はやはりここだと思う

藤倉造園設計事務所 :ブログ 日々の庭から 
  ⇒○今日の浅間山
  ⇒○やまおやじ
  ⇒○一歩前に踏み出せる年へ


いろいろと美術関係者が《落葉》を解釈しているのを拝見しました。
それらしいきれいな心地よい言葉、
あるいは、研究者的なちょっと難しい言葉や、美術的な表現としての価値。
から春草の《落葉》が語れています。
わかる気はするのですが、では、それをもっと具体的に知りたい。
と感じされれる部分があります。 

実際に、春草の描いたような森を体験し、生活した中からとらえる
感性にはかなわないのでは思いました。
専門的な美術的なことを理解していなくても・・・


以下引用
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「落葉」などの名作を残した日本画家・菱田春草は、
その作品を代々木で描いたといわれていますが、
そんな風景が、ず〜っと広がっていたようです。

私達が庭で再現しようとしている風景も、武蔵野の雑木林であり、
そのためにも、ここ浅間山の佇まいを、ことあるごとに胸に刻むことは、
とても大切なことです。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

ほんのちょっとのことば、添えられた写真。
これで、春草の《落葉》を通して、何を感じているのか、
何がいいたのかが伝わってきました。

私と同じことを感じている人、いないかな・・・
と思って見つけたのがここでした。


私は、これが春草の伝えたかった「本質」だと思っています。
よく、「本質とは何か」という話になるのですが、
人によって「本質」の捉え方が違うということを経験します。

今回は、美術界がとらえる本質と、私がとらえる本質とは違う・・・
ということを感じさせられました(笑)

特に、自然をとらえた作品というのは、机の上で、あれこれ言っても
その本質はとらえることができないと思うのです。
この《落葉》の解釈は、現場に出て、森を知っている人にはかなわない。

難しいことは必要ない。シンプルな簡単な言葉だけでそれは伝えることができる。






ーーーーー
【追記】■絵を見る側の力 (2016.3.3)
別冊太陽「菱田春草」p149 より

「春草は生前から実力が相当なものであったことは間違いない。
 世間一般的に傑作とされる地位まで登るには
 蒐集家などの作品を欲しがる側の力
 重要なファクターであったといえるだろう。」

と言われているように、描かれた当時、
100年先の日本を取り巻く環境を頭に描いてこの絵を見ていた人など、
おそらくいなかったのではないかと思います。
だから、「人と共存する自然」というキーワードがみつからなかったのかも。
しかし春草には見えていた。

そんな未来の私たちに向けられた春草のメッセージ。
春草が絵の中から、語りかけいるものは、もしかしたら、
これから100年先のメッセージも込めているかもしれません。
今の時代を暮らす私たちには、まだ見えていない未来への・・・・



■作品が葉する音
菱田春草《落葉》・・・・

この絵から聞こえてくる「音」 それは

・ガサガサ 落葉を踏みしめる音
・ハラリときから木から落ちる音 わずかな空気の振動。聞こえるか聞こえないかの音→ 振動
・鳥の鳴き声?

そして、今は春草の「声」も聞こえてくる気がするのでした。


ーーーーーーーーーーーーーーーー
【追記】■作品の中に生きる画家 (2016.3.3)
エミールガレは、作品の中で生き続けようとしました。
春草も、こうして作品の中で生き続け、メッセージを送り続けています。

「画家は作品の中に生きている」

ということが見えきたのですが、よくよく考えたら、それは
どの画家でも、大なり小なりそういうものなのでは?と思うのです。
つまり、最後、この言葉を使ってまとめれば、
それなりに画家の人生、人物像を表現できてしまう・・・みたいな(笑)

ある意味、表面的な言葉としても、使える都合のよい表現。

でも私が見てきたガレ・・・ モネ・・・ 春草・・・
彼らは、うわべだけの世界で作品の中に生き続けているわけではない。
それぞれにメッセージを持って生き続けている。
その具体的なメッセージを引き出ださないと、
「作品の中に生きている」という言葉は、表面的な陳腐な言葉に
なってしまうのではないか・・・・



■作品の中に刻んだメッセージ
菱田春草「落葉」 「空気」を描いた天才、濃淡と疎密で遠近感より

 「落葉は、視力を取り戻して雑木林を見た春草が、
  自らの存在を刻みつけようとして描いた作品なのだと思う」

絵の中に「自らの存在を刻み付けようとした」というのは、
言い換えると「作品の中で生きている 生き続ける」ということだと思います。 
ということは、どんな画家にでも、大なり小なりその気持ちはあるはず。
自分の名を、存在を後世に残したい。永遠の存在でありたいと・・・

作品の中で永遠に生き続けて、「何を伝えようとしたのか」
そのメッセージを読みとることが大事なのだと思いました。

春草は何かが違う・・・・・
なんで、春草はそう強く感じさせるのか・・・・
そこに込めたメッセージは何だったのか・・・

とずっと考えていました。

「人と自然の共生」

ということがまず、浮かびます。
しかし、この時代にそんな視点はない。
そこで行き詰るの繰り返し。

これと同じ視点で見る人がいないのも、そういう理由だからなんだ・・・と。


■春草のメッセージ
日本画・その先を行く 菱田春草と「落葉」より

>失いかけた視力が回復していったとき、林は、生命力、再生を暗示する無限のモチーフとしてうつった。

>春草は確信していた。「洋画といわれるものも、日本画も、日本人が構想し制作するものが、すべて日本画と見られる時代が来るであろう」と。

春草が100年先(?)を見据えて込めていたメッセージ。
こういう解釈を加える方が、どんなメッセージを伝えようとしたのか、
具体的に示してほしいと思ったのでした。
自らの存在を刻みつけようとした。作品の中に生き続けている。
という言葉とともに解説して欲しいと思うのでした。


>「今の日本は少し乾きすぎている。落葉の教えてくれていること、
  別の世界に人間のあるべき姿がある。
  うるおい、しっとりした世界の日本を思いおこせ、
  あの絵をみると、身がすくむ気がする。春草に導かれ取り戻すことができる。」



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■日本美術をどう見るか(2016.3.3)
○[a:http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/209337.html,視点・論点『日本美術を「見る」』

上記に《落葉の》解説がありました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
美術作品を見るとはどういうことなのか

受講者に同じ作品を見せ、それを見えた通りに言葉にせよという課題を出す。
結果は、誰一人として同じ記述をするものはない。
自分のもっている言語能力を自覚させる効果と、
各人が、自分が見ているようには人は見ていない、ことを納得させる。
「私が見ているものは私の言語の中にしかない」という気づき。
同時に「人には見えていても自分には見えないもの」がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ということに言及された《落葉》解説。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー
何かを見たということは、その時の環境や条件が前提、きわめて相対的な認識。
その背景には、その場の状況個々人の感受性、あるいは歴史認識もある。
美術を見るという行為は、必然的にそうした認識の違いを前提としているのです。
突き詰めて言えば、「見る」とは視力の問題ではなく
風土や国家によって成り立っている文化の問題ということができます。

とくに日本の伝統絵画の世界では、見えるものを描きながら見えないものを表そうとする傾向がある。
見えないもの、それは空気かもしれない。季節や時間かも、温度や湿度かも、
感情や意志のようなものかもしれない。
その作品をどう見るかという鑑賞者側の感覚や意識は、
それだけ一層活性化しまた複雑化せざるをえません
こうしたやっかいな作品ほど芸術としての魅力を増していくと思われる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


そこで、見えるものの例として《落葉》が取り上げられていました。

(私は、「《落葉》は見えるものを描いた例」なのかなぁ・・・
 「見えないものを描いた」のではないかと思っていました。
 「見える落葉から、見えない春草の警告」を発している絵だと
 感じていました。)

 さらに先に読みすすめたら、「見えるものから、見えない世界」を描いた。
 と解説がされ「新しい視覚空間」を描いたとされていました。
 しかし、私は、春草が描こうとした見えない世界は、
 もっと根源的なメッセージではないかと思ったのでした。)


ーーーーーーーーーーーーーー
 ジョウビタキがとまるクヌギ、その下のスギの若木、ケヤキ、アオギリ、カシワなど、樹木は上部や根本が切り取られた構図で配されています。春草の眼は、見えることのよろこびを確かめながら、武蔵野の雑木林を捉えています。生来の観察能力によって、木々の幹の肌合いの違いから落葉ひとつひとつの形状までを見えた通りに写し取ることからはじめた春草は、試行錯誤を繰り返しながら構図や表現を模索しました。しかし、完成したこの《落葉》は、結果として、春草が観察した現実の風景とはなっていません

 私たちがいくら武蔵野の雑木林を歩き回ったとしても、この絵の前に立った時の特別な視覚を見つけることはできないでしょう。なぜなら、それは絵画であるからこそ味わうことのできる視覚空間であり、この絵の中にだけ存在する贅沢な絵画空間だからです。春草のねらいは、伝統的な日本画の表現のうえにあらたな奥行きの表現をさぐることでした。春草は目に見えるものを描くというシンプルな原点から出発して、絵画の中に新しい視覚空間をつくりあげたのだということができます。実際には存在しない、本来は見えない世界をつくり出すことに成功したからこそ、この作品は絵になったというべきかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


春草の中に描かれた見えないものとは「絵画の中の新しい空間」・・・

美術界の「本質」というものが、このあたりにあるのかなと思いました。
作風や描き方など、これまでにない新たな境地の開拓。その模索・・・

それは美術界の一面。
しかし、門外漢も外から見る私たちにとっては、
そんなことはどうでもいいこと・・・(笑)
(と言ったら語弊がありますが・・・)


ジャンルを問わず、底に流れている「通奏低音」のようなもの。
その世界の専門でなくても、万人が共通の理解ができる考え方を示す。
それこそが「名画」なのではないかと・・・

「人と自然のよき関係が、長き未来をつないでいく」


当たり前と言えば、当たり前すぎるメッセージです。
しかし、受け取る側の理解や経験、育った環境、生活した環境などによって、
いかようにも受けとめることができる奥深いメッセージだと思うのでした。


私が感じさせられた、描かれている見えないものは・・・

  木々を不自然なまでに密集させ・・・これを伐採しなくてはいけない「人の手」
  根元になぜか集まった落葉・・・・それを集めた「人の手」
  描かれなくなった笹・・・ それを刈り取った「人の手」

見えている「落葉」から、「見えない人の手」を想像させました。
そして「永遠につながっていく人と自然共生」の大切さが伝わりました。
そのためには、私たちは何をしていかなくてはいけないか・・・・
そんな目に見えないメッセージを、描いたのだと思うのでした。


森に行ってみようよ・・・・ そこにはヒントがある・・・
ということで、私も森にでかけ写真を撮影してきました(笑)


  ♪ 目に映る~  全てのことは~ メッセージ~ ♪


「ほ~ら、この写真を見たら、春草が言いたかったことこと一目瞭然じゃない?」
「絵の新たな空間表現は、美術界における斬新性かもしれないけど、それは2次的なこと。
 もっと大切な根源的なことを春草は伝えようとしたのだと私は思うわ」
「失われゆく自然を守ってくれている人の手がある、
 守られている自然を見たら、その痕跡がはっきり見えてきます・・・」


私の「見えない声」を写真に込めてみました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【追記】■ぼんやりしていたことが見えてきた(2016.3.5)

初めてこの絵を見た時に感じていた、この絵のぼんやりした部分。
その理由が見えてきました。

  ⇒○菱田春草:①《落葉》(福井県立美術館所蔵) 初めて見る1回のチャンス(2016/02/19)


○リアリティーがある絵なのに、霧がかかったように感じさせられる絵

観察能力に優れた春草でしたが、結果として、
春草が観察した現実の風景とはなっていません
この絵は、武蔵野の雑木林を忠実に再現したしたものではない。
この絵の前に立った時の特別な視覚を見つけることはできない。
それは絵画であるからこそ味わうことのできる視覚空間
この絵の中にだけ存在する贅沢な絵画空間だから。

樹木が密集している。木の葉が根元に集まっている。
笹など繁茂する植物がない・・・・
リアリティーがあるのに、リアルではないと感じさせられたのは、
絵という空間だからこそ作り上げられる空間だったから。

そしてなんとなくは感じていたこと。
画家は目に見えるそのままを描いているわけではない

それは、モネが視力を失って描いた絵・・・・
あれは、実際にモネが見ていた世界ではないという結論に達していました。
ガレも同じ・・・・ リアリティーを追いつつ、ガレの眼が形となって表れる。
そんなことから、春草もリアリティーを感じさせる絵だけも、
そこには春草の解釈が込められている

その部分がリアリティーとのギャップとなって、あれ? あれ?という、
霧がかかったようなぼんやりさを感じさせているのではと・・・・


春草のリアリティー=観察眼は、
物理学者であった兄の影響が多分にあったと考えられます。
それが、春草の理知的さを形成したと思われるのですが、
科学そのものを学んだわけではなかった。

それが、リアリティーを感じさせるのに、ぼんやりとした霧の中にいる。
そんな印象を与えたのだと理解しました。

    
  【⇒※】○菱田春草:③春草の理知的さはどこから それによってもたらされたメッセージ



 

○「私が見ているものは私の言語の中にしかない」
裏を返せば、「私の言語」が増えれば,見えるものが増えてくるということ。
「私の言語」とは、ある意味、知識であり経験ともいえます。
そして、年を重ねていくことでもあるといえます(笑)

学生時代に、同じ課題を出されていたら・・・・
子供の頃に森で遊んだ経験、そこで森を見ているけども、
それだけでは、当然のことながら、今、私が見えているものを
見るものはできませんでした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【追記】2015.3.7
木の回りに落葉が集まっている・・・・・

「葉が集まる」そのことにちて、次のような記述を目にしました。

⇒○菱田春草展(9)~第4章 「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない(2)
ーーーーーーーーーーー
木の根元には落ち葉があつまり平面を形成し、それが広がれば地面です。さらに、それは自然と観る者の視線が集まるようになっています。したがって、見る者は木の根元から根元へと視線を移動していくことによって、地面という広がりを認識するように導かれます。
ーーーーーーーーーーー

上記の記述は、「永青文庫本」についてのものです。
ただ、「木の根元に落葉を集める」ということに言及されているという点で、
興味深く拝見しました。
「視覚を集める効果」、そしてそこが地面を描くことなく「地面を意識」させるため。
というのは、私には持ちえない視点でした。


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【関連】
菱田春草:⑤《落葉》描かれた広葉樹は、「カシワ」? 「トチ」? (2016/03/04)
菱田春草:④《落葉》5回の詣でから(福島県立美術館) (2016/03/04)
菱田春草:③《落葉》(福井県立美術館所蔵) 木の回りに集まる落葉の謎(2016/03/01) ←ここ
菱田春草:②命にかかわる目の病気とは?(2016/03/01)
菱田春草:①《落葉》(福井県立美術館所蔵) 初めて見る1回のチャンス(2016/02/19)←関連
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