『モネ展:(8)白内障手術と晩年作品の変化 (白内障の症状の経過)』コロコロさんの日記

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■手術前、手術後の絵の変化
最終章「6章:最晩年の作品」のコーナーに展示された絵を、
白内障の手術によって、どう変化しているのかを確かめてみました。
白内障の手術をしたは、1923年です。


◆《日本の橋》
《日本の橋》は、1918年~1924年の下記の4点が、
「6章:最晩年の作品」のブースの、一番奥の壁面に次の順で展示されていました。
    [82]  [78]  [80]  [79] 

   上記4点は、1918年 に描き始めた作品で、その5年後
         1923年 1月と7月に白内障の手術、 
         1924年 手術後の1年、手を加えて完成しています

つまり絵が完成する1年前の1923年に白内障の手術をしたということです。
絵を描いている途中で手術をしたんだ・・・
と最初はとらえていたのですが、別の見方をすれば、
手術してからも同じ絵に手を加えたということでもあります。

ちなみに描き始めた翌年1919年は
視力の衰えが進んでおり、クレマンソーに手術をすすめられている状況でした。


■手術後の画風の変化
手術して見えるようになったと伝えられているようですが、
この絵からは、見えない状態と同じ色調、見え方
あえて完成させているように見えます。

もしかしたら手術をしても、見え方はあまり変わっていなかった
ということでしょうか?



■手術の経過と症状
今回のモネ展の図録から、手術前後の様子をピックアップすると

(参考資料)
  (*1) マルモッタンモネ美術館所蔵 モネ展図録 p136 p148)
  (*2) 2007年の大回顧展、図録の年譜
  (*3) 色彩を失ってもなお衰えない情熱 より
  (*4) 『クロード・モネ  MONET クリストフハインリヒ』 

1908年(68)(*1)始めて異常の兆候
       (*2) 春に体調を崩し、
       (*2)「だんだんはっきり見えなくなっていきます」と訴える。

1912年(72) (*2)夏頃、両眼白内障と診断
        (*3)右目に違和感  白内障を患っていた
        (*3)少しずつ目に映る色も描く色彩も変化
        (*1)目の容態悪
        (*1)見え方の変化、失明を恐れ手術拒否
        (*1)症状悪化 色の区別できない 
        (*1)絵の具のラベルを手がかりにパレットにのせる

1915年(75) (*3)赤が泥のような色に見える
        (*4)《睡蓮》大壁画制作のためのアトリエ建築

1919年(79) (*2)視力の衰えが進み、クレマンソーに
           手術をすすめられるが、決心つかず

1921年(81) (*4)衰える視力に意気消沈し絶望
           国家への寄贈をとりやめようとする

1922年(82) (*2)視力の低下著しく、契約の睡蓮大装飾画の制作が困難。 
        (*4)クレマンソーの強い要望で公式の寄贈契約に署名
        (*1)右目は光と動きを感知するのみ
        (*1)左目も読み書きができないほど悪化
        (*3)右目は光しか認識できない状態
        (*3)左目も読み書きが難しい状態にまで悪化
        (*3)ついに手術を決意

1923年(83) (*2)1月と7月、右目の手術を受ける。 
        (*2)矯正用の眼鏡をかける。
        (*1)1月と7月 右目の水晶体をとりのぞく手術をし成功
        (*4)2回の手術で視力回復  制作再開
          たびたび憂鬱と絶望に襲われながら引きつづき大睡蓮制作

         (*1)術後、視野が黄色がかって見える現象を訴える
         (*1)その後、現象は改善したが
         (*1)次に青が強く見える青視症の現象を訴える
         (*1)その後、特殊な矯正用の眼鏡をかけ解消・・・
         (*1)色覚異常を矯正する仕様
       
       (*1)左右の見え方から生じる二重像を防ぐため右目は不透明
       (*1)右は手術した目のために、少し黄色にし分厚い凸レンズ。
       (*1)黄色のレンズは、青が強く見える状況を改善し、
       (*1)さらに光を眩しく感じる問題も解決したといいます。

1923年 末  (*1)目はかなり見えるようになった



つまり、手術は、1923年に、2回に分けて行われており、
2回目の手術は7月でした。
その後、若干の不調を訴えているようですが、
眼鏡を誂えるなどして、手術をした1923年内には、
かなり見えるようになったということです。
手術後、回復までに数年を要しているわけでもありません。


■絵の変化
(*3) 色彩を失ってもなお衰えない情熱より
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悪化する白内障のためか、モティーフは少しずつ輪郭を失い
色調は鮮やかで大胆なものへと大きく変化。
その力強い筆使いからは、色感を失う恐怖を抱えつつも、
衰えることのなかった絵画制作の情熱が伝わる。
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■どのように描いていたのか?
《日本の橋》は制作年代が1918年~1924年と広すぎるので、
実際にその間、どうやって描いたかがわかりません。

手術をはさんで、その前後で描かれているわけです。

手術は1月と7月。その間はお休み状態と考えられます。
さらに手術後も、しばらくはお休みをするのだろうと思ったのですが、
すぐに描き始めているようです。

もしかしたら、絵は術前にほぼ仕上がっていたのかもしれません。
そして、手術後、これら4枚の絵に、
仕上げの体裁を整える程度に筆を加えただけだったのかもしれません・・・

簡易的な加筆だったけども、完成は1924年ということに
なっているのかも・・・・
あるいは、これらの時代考証って、あとから違ってた
いうこともあります。
あまりに広い幅のある制作年なので、
この期間、ずっと描き続けていたわけではないかもしれません。
この6年間のある一定期間に集中して描かれていたけども
特定できないので、大まかな目安の年代とか・・・

そう考えると、白内障の手術と画風の関係を考察しようと思っても、
描かれた年代情報が、本当に正確なのかどうかという、
疑問点まで出てきてしまいました。

そして、会場を回っていてその答えが出ました。
解説に(図録だったかも)「ここに示した年代は、よくわかっていない」
と解説があり、年代と白内障の症状を照らして合わせても、
それが正しいかどうかわからない・・・
ということなのでした。


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【追記】2015.12.25
《日本の橋》の制作年について、美術館に問い合わせて調べてみました。
この1918-1924という幅のある年代は、何を意味するのか。
実際にはどのように描かれていたのか・・・

制作年が全くわからないため、これだけの幅を持たせているということでした。
1918年に着手されたということでもなく、
1924年に描き終えたということでもなく、
その期間のいずれかで描かれたのだろうということらしいです。

さらには、1918年、1924年という年代も、
何か根拠がある年代というわけでもなさそうな印象でした。
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■純粋に「手術後」描かれた作品は?
では、完全に手術後に描いた絵がわかれば、  
手術前、手術後の違いを、比較できると思いました。
ところが、この晩年のコーナーには、手術後に描かれた年代の作品がなく
なんだか消化不良を起こしてしまったのでした。


図録の[78]《日本の橋》(1918-24)(p124)解説によると
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これらの連作を描いている途中、1923年、白内障の手術のため制作を中断
視力回復後、制作を再開。24点の連作が描かれた。
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とありました。
「これら」とあるので[78]だけの解説ではないと考えてよいでしょうか?
この章に取り上げられた絵全体の解説と思っていいのかな?



■「手術」をはさんで描かれた絵
◆《バラ庭から見た家》《ジヴェルニーの庭》
下記の3点も、白内障の手術をはさんで描かれています。
こちらは、手術後に描いた期間が長い作品です。


○[86](p134)《バラ庭から見た家》  (1922‐1924)
○[87](p135)《バラ庭から見た家》  (1922‐1924)

   上記2点は、1922年 手術の1年前に描き始めて
         1923年 手術をし、 
         1924年 手術の翌年完成


○[76](p122)《ジヴェルニーの庭》   (1922‐1926)

         1922年 手術の1年前に描き始め
         1923年 手術
         1926年 術後3年かけ、没年まで描いた作品。


上記の《バラ庭から見た家》は、術後1年で完成したものと、
《ジヴェルニーの庭》は術後3年かけて完成した絵になっています。

絵の印象は、術前と大きく変わっているようには見えません。
手術して見えるようになった言われて、3年かけて描いているのに、
[76]《ジヴェルニーの庭》 (p122)は、こんな抽象的な絵を描いているのです。



■モネの晩年に関する雑感
モネが晩年をいかに過ごし、どんな画風の絵を描いていたか・・・
それを知っているかいないかで、
モネに関する知識度を伺い知ることができると感じていました。

そして、晩年の絵に対して理解できるかどうかは、
見る側の絵に対するキャパシティーや、人生経験などが
見え隠れしてくると・・・・
さらに絵画深く理解し、一家言のある方は、
この絵に対する捉え方は、違っていたり・・・・



■白内障手術、前後の変化の一過性のなさにジレンマ
白内障の手術後、実際には絵はどう変化したのか・・・・
そこが知りたいのに、「最晩年の作品」のコーナーに飾られた絵は、
どの絵も、「手術」をした年(1923年)をまたいだ作品なのです。


純粋に「手術前」「手術後」に描かれた作品でないと比較ができません。


手術したあとも、手術の前に描いた絵に手を加えているのですが、
それが、全体の画風に何か変化してたのかと思えば、
変化しているようには私には見えません。

どうしてなんだろう? なんだか混乱していました。

個人的な考えで言うと、手術前に描いた絵なのですから、
それは、もうなかったことにして(?)終わらせてしまい、
心機一転、新しい絵にとりかかる・・・って
考えるものじゃないのかしら(笑)

何で、見えない時の絵に、手を加えたのか。
加えるなら「見えた喜び」を表現するために手直しして
絵を変化させたいと思うのではないのかなぁ・・・
それをしないで、見えない時のまま、仕上げているように感じます・・・

見ていて、何を考えているのかわからないモネに
一種のストレスみたいなものを感じていました。(笑)

それは、「手術前」と「手術後」で、
ああ、こんなふうに変わったのね。
と、すっきり明確な変化を求めていたからなのでしょう。



■手術前の、いろいろな画風
1918年に描かれた絵を並べてみると、
《日本の橋》などは、抽象的な赤が主体の絵を多く書いています。
    [82]  [78]  [80]  [79] 


しかしその横には、鮮やかな「グリーンの橋」[81] (1918-19)があるのです。

色合いは違いますが、目が見えにくくなっているため、
両者とも、橋は形を失っているという共通性があります。

ところが、同じ年に描き始めた1918年の《しだれ柳》は、
ちゃんと幹が描かれていて、柳も、なんとなくわかるように表現をしています。
下記は、出口側の壁面に飾られていた
《しだれ柳》(1918-19)展示されていた順です。

    [72]   [73]   [74]

上記の《しだれ柳》と前出の《日本の橋》
両者は、描き始めの年代が同じ1916年、
同じ白内障の病状の時期です。
白内障の診断を受けてから6年目のことです。

同時にスタートしましたが、《しだれ柳》は2年で完成しました。
完成したのは、手術をする4年前でした。
《しだれ柳》と前出の《日本の橋》は同時スタートで、
作成時期が一部、重なっています。

《日本の橋》は、手術をした後まで引っ張って描いています。
同年にスタートしながらこのような画風の違いは
白内障の進行によるものなのでしょうか・・・・

《しだれ柳》の絵から、スタート当初は、
ある程度の形を把握することはできたと考えられます。
従って《日本の橋》も形を把握することもできたと考えられます。
その形を維持しながら描くこともできると思うのです。

モネはいかようにも描くことができた・・・・・
でも、《日本の橋》はフォルムを崩して描いた・・・

さらに、手術後も手を加えましたが、
以前から描いていた《日本の橋》と同じようなフォルムや、
色で完成させています。



一方、白内障の手術を受ける前年1922年に仕上がった
《しだれ柳》がこれです。  ⇒[75] (1921-1922)
形は、認識できないくらいの崩れ具合です。

《しだれ柳》
①【1918-19年】[72]  [73]  [74]
②【1921-22年】[75]

①を描いた2年後の作品が②です。
2年間でこれだけ急激な進行をするものなのか、
描き終えた1919年に、クレマンソーから手術をすすめられています。

白内障という病気の病態を知らないのでわからないのですが・・・
この乱れた②の《しだれ柳》を描いた翌年、1923年に手術を受けています。


手術後、どう変化したのか・・・・
それには、手術後に描き始めた絵を、
この晩年のコーナーに飾ってくれないと、比較ができません・・・・
そのことが、気になって気になってしかたがありませんでした。



■手術後の作品はいずこ?
1回目の鑑賞を終えて、どうも腑に落ちないものを感じながら、
今回の展示では、完全に手術後の作品というのは、出品されていなかったんだ。
というより、マルモッタン美術館では所有していなかったのだ。
と理解し作品リストの作成年を最初のコーナーから確認しました。


すると、なんと、手術後に描いた絵は・・・・


■「5章:睡蓮と花ージヴェルニーの庭」のブースに・・・
手術後に描かれた作品が、1点だけこのエリアに掲げられていました。

それは [67]《アイリス》 (1924‐1925)(p106)


思わず、それはないでしょ・・・・って思ってしまいました(笑)


5章の睡蓮や花の中に、飾ってしまったら、
ここ一帯に飾られた絵と同じ時代(1916‐19)と
同じ時期に描かれた絵だとばかり思ってしまいます。

《アイリス》 は、手術後の1924年 モネ83歳の作品です。
86歳で亡くなる1926年から、2年前の作品です、

しかし、このコーナーを見ている人の中で、
これが、手術後の絵であることを理解している人はどれだけいたのでしょうか・・・・
こんなところに、モネ晩年、手術後の作品が紛れているなんて、
思いもしません。


今回の展示会は、晩年に重きを置いた展示構成です。
「手術をする前」と「手術後」の絵の変化
それを知りたいと思う人は、いっぱいいるかどうかはわかりませんが、
関心を持つ人は、少なからずいると思うのです。



■時代順の展示
見終わってから友人と合流して交わした会話。

「モネの手術前、手術後の変化がわかってよかったわ・・・
 手術後は、やっぱり色あいも変わるのね・・・
 それにしても、時代順に並べてくれないと、
 作品の年代を見ながら行ったり来たりしなくちゃいけないから、
 疲れちゃうわ・・・」

と話していました。
あとで友人に確認してみたところ、
会場で手術後の作品が、「5章」にあり、
章をまたいで飾られていたことに気づいていたそうです。
そのため、見比べるのに、行ったり来たりしていた・・・・と。


私は、1回目に見た時、モネが手術をした年をしっかり
把握できていませんでした。
どの年から、どう絵が変わったか、はっきり確認できなかった、
というもどかしさを感じていました。
友人が、はっきり色が変わったって言ってたけど、
そんな絵、6章のコーナーには、なかったと思うけど・・・と思いながら。

戻ってから、作品リストを見たら、あんなに探していた術後の作品は、
「6章:最晩年の作品」のコーナーには、展示されていなくて、
「5章:睡蓮と花ージヴェルニーの庭」に紛れていたなんて・・・・




■再確認の再訪
そのため、もう一度、あの
  ○[67]《アイリス》(1924‐25)(p106)の絵を、
    手術後に描いた絵と理解しながら、見たいと思いました。

そして、手術後、3年間かけ、他の作品より多くの時間をかけて描かれた絵
  ○[76]《 ジヴェルニーの庭》(1922‐1926)(p122)

この2つの絵の色調や、モノの形の捉え方が
あまりに違っているので、もう一度、見直してみたいと思いました。


さらに、調べていてわかったのは・・・・
  ○大装飾画
    モネ最大の作品と言われる大装飾画。
    こちらは、1914年から作成が始まり、亡くなる1926年まで
    ずっと手を入れつづけたと言います。
    この装飾画は、赤の色は見えず、形も抽象画ほど崩れていません。
      
      リンク先の大装飾画が、いつの頃に描かれたのかは
      わかりませんが、晩年の色合い、形の表現とは違います。

  【参考】
   ○「睡蓮の大壁画」オランジュリー Ⅰ
   ○「睡蓮、朝」
   ○水の光と睡蓮に魅せられた男モネ

    上記で見られる色あいと、
    ○《 ジヴェルニーの庭》は似てもにつきませんし
    ○《アイリス》と比べても・・・



■モネは見えていた? 心の目で描いていた・・・
そんなわけで、
私たち、もしかしてモネの術中にはまってない?(笑)
モネは、どう見えていたかは関係がなく、
自分が描きたいように描いていたのでは?


晩年モネは、常に描き続けていたことが伺われます。
手術をしたあとも、すぐに筆をとったようです。

見えない、見えにくい、いろいろ状況があったようですが、
手術前も、手術後も、いくつもの作品において、
一つのキャンパスに向かい続けていました。

モネおじさんは、確かに白内障で苦しんでいたとは思うのですが、
描こうと思えば、いかようにも描けたのではないでしょうか・・・・

従って、手術をしたからと言って、
before&aftterのような明らかな違いというのを、
確認しにくいのだと思いました。

というより、モネは見えていた視野をそのまま絵にしていたわけではなく
心の情景を描いていたのだと思いました。

晩年のモネは、描く対象が見えていようが、見えていまいが
関係がなかったと思うのです。

モネの目が、心が感じ取った風景・・・
それは、モネの脳内に映像化されて残っていて、
その時に感じた印象を、キャンパスに映し出していた。


■色の科学  体の科学も描いていた?
「色」「形」というのは、「光」の反射であり、
その光を、スペクトルにまで分解して科学的とらえていたモネ。

  【参考】ひらめきの散歩道 より
   第72話 絵画が科学と出会った頃 その1
   第73話 絵画が科学と出会った頃 その2

さらにその光刺激を、神経細胞を通して脳内に伝達するという、
生理学的なことまでも理解しながら描いていた?

自然科学の原理を、キャンパスを通して転写した画家。
それは、たとえ光刺激を失ったとしても、身体の神経の伝達系によって、
残像を結ぶことができ、絵に転写することができることの証明。

ものを見るということは、光を網膜に映し出し、
その情報を脳へ送るという、情報伝達が介在します。
その光情報がなくなったとき、人体が作り出す代替機能を
自らが体現し、証明してみせた画家・・・・

それこそが「印象派」の本質・・・・
自然科学者の目で、自然科学の本質を、絵を介して表現した・・・・
さらに人体の神秘の裏にある科学も描いていたのかも・・・・


あの、激しい筆致を見て、モネの苦悩を感じとろうとしていたら、
ウルッときてしまいました。

ところが、もしかして、それもモネの策略?(笑)
なんて思ってしまったら、その感情は全くなくなり、
モネにしてやられた?・・・(笑)
なんて思ってしまったのでした。

こうなったら、モネの白内障を医学的な見地から考察して、
モネは、実際にはどう見えていたのか、
それを「どう描いていたのか」ということに、
迫っている人はいないのだろうか・・・・
と探し出してみたいと思っているのでした。




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【参考】
印象派を語る時に、新たな科学的な色彩理論が登場し、
その出会いによって、色彩表現が変わったということが語れています。
それまでの色彩理論がどのように変化したのかな・・・
と思っていたのですが、わかりやすくまとめられていました。
ゲーテの色彩理論なども含め、説明されているブログをみつけました。

風神雷神における「白」という表現にも、
もしかしたら通じるのでは? という気がしています。

第72話 絵画が科学と出会った頃 その1
第73話 絵画が科学と出会った頃 その2

上記より抜粋
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
モネをふつうの画家から“印象派”の画家に至らしめた
科学的な「知」とは何だったのか。

光と色に関する最新の自然科学の知識に出会ったと思われる。

シュブルールの色彩調和論
印象派の画家に大きな影響を及ぼした自然科学者はフランスのシュヴルール。

最適な色と思って糸を編み込んでも、隣に何色が来るかによって見た感じが変わる。この不思議さを研究。集大成版として『色名と色の定義に関する方法』(1861)を出版。この著作が当時の若い画家たちに大きな影響を与えた。

シュブルールの主張は、
色彩は視覚現象であり、純色の点で構成された画面網膜上で混色される』
つまり少数の色を対比して配置し、人間が目で見た時に脳の中で視覚混合させて
望みの色を認識させる新たな色彩表現が証明。

隣接した色は互いに強め合ったり弱めあったりして見えるのであり、
補色関係の配色は対比の効果を最も発揮するのであり、
補色を密集させて配置すると灰色に見える。

画家たちの従来の描画技法は、何色もの絵の具を混合して
望みの一つの色を出すという描画方法であった。
しかしシュブルールはそのようことは必要ないと言う。

<印象派の誕生>
シュブルールの主張や科学者たちの研究結果は
画家たちにとって世界観が変わるほどのショック

これまでの表現方法に飽き足らなかったモネのような若い画家たちは
大いに刺激を受けた。

絵の具は混合(減色法)すると彩度が落ちてくるけれども、
視覚混合(加色法)ならばあざやかな色の光が表現できる
明るい太陽の下の鮮やかな光景を表現する方法を彼らはまさに望んでいた。
三原色とそれらを混合したわずかな色をパレット上に置き、
それらだけで望む色彩を表現することができた。


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【関連】
■1回目
モネ展:④最晩年の「日本の橋」 モネの心の目は見えていた?! (2015/12/07)
モネ展:⑤モネと白内障 そしてモネの人生 (2015/12/11)

■2回目
モネ展:(6)晩年作品を見る人ウォッチング & 時を経て自分が見えたもの (2015/12/16)
モネ展:(7)晩年の「日本の橋」色調の違い  (2015/12/16)
モネ展:(8)白内障手術と晩年作品の変化 (2015/12/16)
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