『モネ展:(4)2つの《睡蓮》 「夕方赤く染まる深淵な池」&「画面から浮かびあがる睡蓮」』コロコロさんの日記

コロコロのレストランガイド

メッセージを送る

コロコロ

日記詳細

4章「モティーフの狩人」の展示のあと、
5章「睡蓮と花 ジヴェルニーの庭」が始まるあたり。
ここの部分は動線がクランクになっていて、
ちょうど通路が狭くなっていています。
そこに、誰もが興味を持つ《睡蓮》の絵が2作品、飾られていました。



■展示の位置には理由が?
モネの《睡蓮》は大変人気です。
中でも抽象画ではなく、はっきりわかる《睡蓮》ですから、
だれもがじっくり立ち止まって見たくなる絵です。

そんな人気の絵を、2作も狭いところに並べてたら
人の流れが停滞して、進まなくなることは当然、予測できるはず。
人気の展示会で込むスポットは決まっています。
「入口」「コーナー部分」「今回のような狭い場所」。

主催者も、この場所が混むとわかっていたと思うのですが、
なぜ、この場所に、誰もがゆっくり見たい《睡蓮》を
2作も展示したのでしょうか?

同じようなことを感じている人は、何人かいるようでした。



しかし、主催者の立場に立て考えると・・・・
きっと何か意図があって、あえて並べて展示したはず。
作品をどこに飾るか、光をどう当てるか、見学者の動線は?
いろいろなことを模索しているのだと思います。



■いろいろな立場の視点で・・・
絵を見る時は、画家になりきってみたり、
あるいは、奥さんの立場になってみたり、子供の立場だったり・・・
モネの周囲を取り巻く人、
パトロンの立場、懇意にしている画家、モネの主治医になってみたり・・・

さらには、モネから離れて、この展示を開催する、
主催者側の気持ちになりきって
どうしてこんな展示の仕方をしたのかと考えてみるのも
面白い発見があったり・・・・

これまで何度かの展示会を見てきたのですが、
時々、何でこんな企画を思いついたのか
きっかけは、どこにあったのか・・・・
美術と全く違うジャンルのものと組み合わせて見せていたり、
同じ芸術の世界のことでも、業界的には、
それと、それは組み合わせない・・・・というものを組み合わせていたり。
機会があれば、伺ってみるのですが、とても興味深いことを、
知ることができます。




■63 《睡蓮》(図録P103)・・・ [青い睡蓮]
ポスターにもなっている、ブルーの水面に周りの景色が映り込んだ《睡蓮》。

最初に見たあと、家に帰って思い出しても
どこに飾ってあったのか記憶が欠落していました。
この絵を見て、尾形光琳の「紅白梅図屏風」の構図と同じ・・・
なんて思っていたのですが、おそらくポスターや
いろいろなところで目にした画像によるものだったと思われます。

主要な絵であるのに、飾られた場所の記憶がない・・・
それは、2度目に訪れて理由がわかりました。



■記憶に残らなかった理由
1回目は、とにかく、混んでいて、見るのが大変な状態の場所でした。
係の方が、「中央は通路として空けてご覧下さい」と
声を張り上げています。

90度にクランクした場所での展示なので、
2つの作品を見る人の膨らみが、中央のあたりは入り乱れ、
通行を妨げていたのでした。

この作品の左側には、僅かな空きスペースがあり、
そこにやっと潜り込み、陣取って見たのですが、
「中央で立ち止まらないで下さい」という声に促されるように、
見終わったらすぐに、次のブースに移動せざる得なかったのです。
この場所で、遠目で見るとか、正面から見るというのは、
顰蹙をかってしまう状況だったのでした。

そのため、この絵は、左側から見ただけ。
正面からは見ていないため、印象が薄くなってしまったのではと思われました。
人ごみばかりで、ちゃんと見ていないため、
どこに飾ってあったかも記憶に留めることができなかったのです。


この絵は、
右側から見ると、睡蓮が浮いて見える・・・・・

そのことをあとで知ったのですが、その方向から見ることを
最初の見学では、許される状況ではなかったのでした。



■見方を制限される場所 2度目は見学状況が見える
そして、新たにわかったのは、この場所の構造上、
「左側」がすぐ壁なので、横から見る視線も、
他の作品と比べて、かなり近寄った状態とならざる得ませんでした。


同様に、もう一方の夕方の《睡蓮》は、
「右側」がすぐ壁となり、横から引いて見ることができない状況でした。

これまで、見てきた主要な絵は、左右、どちらのスペースも取られていたので、
その気になれば、いろいろな方向から、離れたり近寄ったりして
見ることができました。
ところが、このスペースは、見る位置を、すごく制限されている場所だったのでした。

左右、いずれの振った角度から、見ることがしにくい
構造の場所だったということが、わかりました。

が、1回目に見ていたときは、まだ、左右から見ると、
違って見えるということに気づいていませんでした。


2度目となると、絵を見る状況の判断もできるようになり、
設置場所の環境、人の状況なども冷静になって
見ることができるようになっています。

初見では、とにかく、「絵を見る。そしてなるべく近づいて見る」
人ごみをかきわけ、いかに絵に近づくか・・・・
そこに主眼が置かれていたということに気づかされました。

この特徴的な場所に設置されている2枚の絵。
ということで、2度目は、この「2枚の絵の飾られていう状況」
という俯瞰した視線で見ていた気がしました(笑)


では、展示の順番どおり、オレンジに輝く《睡蓮》から・・・




■64 《睡蓮》(図録P102)・・・オレンジ色の睡蓮
モネの《睡蓮》としては、あまり見ない色合いの睡蓮です。
赤い夕日が水面に写りこんでいるのでしょうか?
水面からは、オレンジ色のような光を放っています。
そして、木々は、これから迎える闇夜を想像させるかのように、
薄黒い色を、水面に落としています。


音声ガイドより
ーーーーーーーーーーー
空色、木々が映り込んでいますが、
《睡蓮》のモチーフで一番大事なことは、
空の一部が映り込むことだそうです。
それによって、急に吹く風や過ぎ行く雲
そして、急に止む風光がおぼろになり、その後再び輝く
刻一刻と変わる鏡のよう。
これらすべてが色彩を生み出す・・・・
ーーーーーーーーーーーー
   
  そんな絵はこちらです↓
     ⇒クロード・モネ《睡蓮》1907年 / Newmoon is hoped for より



この絵は、横から見るのではなく、
正面で離れて見ることによって、睡蓮が浮くのを感じました。
音声ガイドで「縦長の構図」であることを強調していたので、
きっと「縦長」にも意味がありそうなのですが、それはわかりませんでした。


さらに、この絵には新たな遠近感が存在していることに気づきました。
明るく光のあたった水の部分の透明度が高く、
池の底の方へと広がっているのです。
水の深さという遠近感が表現されていました。

これまで見てきた遠近法は、
画面の縦方向に対して奥行を感じさせる手法でした。
画面に対して、突き抜ける方向の遠近法
ここには存在していると感じました。

水の明るい部分中央後ろの部分の暗さと対比され、
遠くから見ると、明るい部分が強調され、透明度をまして、
どこまでも深い奥行を見せるのでした。




■平面の世界を三次元、四次元で表す
以前、武田双雲さんの「書」を見た時に、
平面に三次元の世界を「書」で表現しようとしていると語られていました。
それは、墨の濃淡で表しているようなことを言われていたと、
記憶しているのですが、それと共通するものを感じさせられます。

また、さらに四次元の世界を表現しようとしているとも。
それは時間の変化だとおっしゃっていたと思います。
モネもまた、風や雲などを通して、一枚の絵の中に、
時間の経過を表わし四次元の世界を描いたのかもしれません。

あるガーデン賞で受賞した方も、
庭は三次元の世界だけども、そこに「時間」を加えて
四次元の世界を表現したい。と言われていました。

何かを突き詰めている人が、たどり着く
共通の着地点に感じられました。



■見る方向がある絵
この絵は、15の連作のうちの一つ。
赤系のめずらしい色なのですが、デジャヴ感がありました。

2007年の大回顧展に図録にあり、
似たような色合いの絵を見ていたのでした。


あとになって気づいたのですが、この絵は、
正面から見て欲しい絵なのではないでしょうか?

ちなみに、オレンジの睡蓮の絵に当てられた照明の方向は、
うろ覚えなのですが、真ん中から正面に向けてあてられていたように思います。

そんな意図が主催者側にあって、
横に広がれないクランクのような場所に設置したのではないか・・・・
この場所は、右側が壁で、横に広がれなません。
また、左側は、もう一つのブルーの《睡蓮》を見る人たちと重なり、
横から見ることがしにくい位置関係なのです。



では、次、ブルーがきれいな睡蓮の絵です。


■63《睡蓮》(図録P103)
次は本丸の、浮き上がる《睡蓮》です。
人もまばらで、右側から見てみました。

確かに、確かに・・・・
睡蓮が浮いて見えます!

絵はこちら・・・
   ⇒クロード・モネ《睡蓮》1903年



なぜ浮いて見えるかは、すでに調べがついて(笑)
ネタばれしています。


上野の東京都美術館で大人気のモネ展で絵画「睡蓮」を見て感じたデジタル世界が目指すべきところ より
ーーーーーーーーーーーーー
キャンバスに置く絵の具の量秀逸なぼかしにより、
絵の具の厚みが光を反射し、キャンバスから浮き出して見えるのです。
ーーーーーーーーーーーーーー

上記の言葉を、私なりに感じた言葉で具体的に言うと、
「睡蓮」の部分は、絵の具が厚く重ねられています。
そして、横方向の細いタッチが幾重にも重なっています。
一方、水面は筆あとが見えないくらいの平坦な塗り方。
上記の説明では、「秀逸なぼかし」と表現されてますが、
薄く塗りながら、筆跡がのこらないように、
かぎなくフラットな状態を保つように描かれています。

この筆の描き方(凹凸状態)によって、
当てられる光の方向が、大きな意味を持つのだとわかりました。


◎「左」からの光 を「右」側で見る
この絵は、「左方向」から光が当てられていました。
すると、凸凹で描かれた睡蓮は、光を乱反射します。

それを右側から見ると、
ぼんやりと浮かび上がってくるのではないかと思わます

一方、水の部分は、なるべくフラットに描かれています。
「左」から当てられた光は、水の部分が平面なので、
入射角と反射角の関係で、「右」方向に規則正しい(?)
一定の反射をします。(乱反射と比べて)

これら2つの大きく性質の違う光が、鑑賞者の目に届き、
「睡蓮」と「水」のコントラストがより明確になり、
睡蓮が強調されて浮いて見えるのだと思いました。


◎「左」からの光を 左から見たら
「左」から光をあてているので、同じ「左側」で見ると・・・
これは、1回目に見た方向です。

描かれている水の部分は極力平にフラットなので、
左からあたった光は、反対側の右方向に反射してしまいます。
その状態を左側から見ていても、
光と同じ方向から見ていたので反射されて戻ってくる光が少なく
逃げてしまっているので、
よくわからない、印象にも残らない絵となってしまったのかも・・・
そんなことが想像されました。
最初、睡蓮が浮いたように見えなかったのは、あてる光と同じ方向から見ていたため、
はっきりとしたコントラストを感じにくかったのでは・・・と。

さらに、睡蓮の描き方は、手前と奥の睡蓮の筆の兼ね方が違っていました。
「睡蓮の大きさ」でも遠近感を出しています。「色のトーン」も違います。

限られた画面に、全面、水だけを描き、睡蓮を描く。
水平線があるわけでもないのに、水の中に配した睡蓮に
「大きさ」や「色」で遠近感を感じさせる。
これだけでもすごいことだと思うのですが、それだけではありませんでした。


上部に配された睡蓮の筆は、細いタッチで重ねが浅く描かれています。
手前の睡蓮がは、筆の重なりが強いので乱反射をおこして、存在感を放つ
奥は鈍い反射
それがさらなる遠近感を強める効果を加えているのだと思いました。


モネは自然の本質を表した画家だと思ったのは、
こういう光の原理を、キャンパスに描きだし、
私たちに見せてくれた
ということではないかと思うのでした。

光が持つ根本的な性質。
それを「絵の具と筆」を使って、ある意味コントロールして、
移りゆく自然を表現しようとしたのでは・・・・?

モネの目は、自然科学者の目でもあったのではないかと・・・・



■自分で発見
2回見たことで、そんなことに気づいたのですが、
この浮き上がる睡蓮を、自分で発見された方がいます。
みくさんのブログを、改めて拝見してみると・・・

   ⇒モネ展感想 夫婦で芸術の秋デート 東京美術館へ

表現は違いますが、全く同じことを、初見で気づかれています。
言葉は短く簡略ですが、浮いて見える見え方の理由の原理は
同じことを言っています。

ご自身で、浮き上がる睡蓮に気づき、
なぜ浮き上がって見えるのか・・・・
その考察まで、初めて見た時に、
自分で気づかれているのは、すごいです。


絵の見る方向を変えると、違った見え方をする

そんなことに気づいた人、他にもいないかな?
と思って、こちらにたどり着き、
最初に読んでいた時は、絵の具の使い方など、
あまりよく意味が、わかりませんでした。

読みながら、この絵、どこに飾ってあったっけ?
って思いだせなかったのです(笑)

実際に2度目を見てから改めて読むと、そうそう・・・
それ、私も感じた!って・・・・
でも、私が自分で気づいたって思っていたのですが、
すでに、書かれていたのです。

自分で気づいたと思っていたのですが、
すでにそれ関することについて、書かれているものを、
理解しない状態で見ていたということです。

自分で気づいた! と思っいましたが、
それは、「デジタル世界が目指すべきところ」 で、語られていたことをもとに、
自分で理解し考えたことだと、理解していました。
しかし、みくさんが書かれたブログの内容も、
無意識に影響されていたのかも・・・・と思ったのでした。

話題のオリンピックエンブレムなどの問題に通じると思います。
なんとなく読んだ、見たものが、間接的に影響する。
ということもあるのだろうな・・・・って。




■《睡蓮》の製作年は?
この2つの《睡蓮》の絵は、モネの一生の中では、
どの時期に描かれたものでしょうか?

睡蓮の第2期ともいえる、画面はすべて水で表され
水平線も画面の上下もわかりにくくなる時期であることは確かです。

では、どちらの絵が先か・・・・

展示順からして、てっきり、夕景の方が先だと思っていました。
ところが、青い睡蓮は、1903年、
  オレンジの睡蓮は、1907年  で青い睡蓮が先でした。

青い睡蓮が描かれた1903年というのは、
第2期の睡蓮の連作が始まった年
水いっぱいの画面の中に睡蓮を描くという構図の、
初期作品ということになります。


そしてその4年後の1907年、オレンジの睡蓮が描かれました。
深く深く透き通るような水を表現されている「夕刻」の睡蓮。


「青い睡蓮」は、オレンジの睡蓮ほど、水の深みが感じられない・・・
と思っていました。
展示の並びから、青い方があとの作品だと思っていたので・・・
でも、その時で、主題の捉え方、何を中心に描くかなど
違うのだろうから、青い方は、透明度を低くして描いたのだろう。
と思っていました。

ところが、オレンジの方が4年後の作品とわかり、
4年の月日は、水の表現も、洗練させるとと感じさせられました。

より水の深さ、キャンパスの奥に向かう奥行の表現方法を獲得した・・・
そして、睡蓮の絵の具の盛り方が、青い睡蓮よりも、
盛り上がりが少なくなっていて、
その後、抽象化していく片鱗が、睡蓮の中に見えるような気がしました。



■主催者の展示の狙いは
人気の絵画を、あえて人がたまって混雑するような場所に設置。
それは、なぜか・・・・

「デザインには必ず意味がある」 

誰の言葉か忘れましたが、人のすることには、必ず意味があるもの。

そして最近も、羽生弓弦さんの振り付けで対談した、
野村萬斎さんの言葉の中にも、同じようなことを発していました。

「型は自分で解釈していくもの。この型に何の意味があるのか?

  わからないからと、放っておかないで理解する。
  そういうものだと思わずに、
  "天・地・人を司っている"ということがわければ、解釈も変わる・・・

とても印象深い言葉でした。


「すべのものには、必ず意味がある」


そして、音楽についても・・・
日本と西洋も音楽、それを身体でどう表現するか。
西洋的な人は音をすべて体現しようとリズムをすべて刻み振り多い。
日本は、省略の文化。わざと音がない部分を作り、パン!と跳び、ドーンと落ちる。

野村萬斎さんは、日本の狂言だけでなく、世界の音楽シーンも理解し、
それを踊りで表現するときの、演じ方。そしてリズムの取り方・・・
フラメンコの話も出てきてまさに、世界の音楽、踊り、その表現方法を
俯瞰した視線でとらえており、
その中で、狂言の音、舞い方というものを捉えていらっしゃるのだなと・・・



話がそれてしまいましたが、
このように、モノには、必ず意味があると捉えれば、
わざわざ混み合う原因を作りかねない位置に飾られた絵画には、
必ず、意味があると言えるわけです。



■変化の比較を見せたかった?
主催者は、この2つの絵を隣り合わせて、比較させて見せたかった・・・・

水の深さ、透明度の違いの表現、時間の移り変わりで見える景色の変化。
そして、モネが年齢を重ねて描く時間の経過による、描き方の変化・・・・



■製作年を逆展
見学の流れからして、古いものを先、新しいものを後に展示・・・
して欲しいという要望を持っています。

しかし、そこには、企画者の考えがあるため、
展覧会では、いろいろ順番が変わります。
そのため、見る側の混乱もおきるのですが・・・・

こうして2つの《睡蓮》を並べる時、
あえて時代を逆展させて、古い方を先に掲げたのはなぜか・・・・

先に青い睡蓮を掲示したら、何が変わるのか・・・




■見る方向を制限したかった?
2度目に渡って、この2つの《睡蓮》を見て感じたのは、
この絵には、見て欲しい方向があるということでした。

オレンジの《睡蓮》は、「正面」から・・・・
青い《睡蓮》は、「右」方向から・・・

その見る位置に誘導するため、動線を制限するためには、
この場所が、ベストポジションだったのでは?!


古い作品のオレンジ《睡蓮》が先に展示されたのは、
動線に沿ってみると、自然と「正面」から見る位置になります。
青い《睡蓮》は、どの程度の混雑と、
人の停滞を予測していたかはわかりませんが、
右方向は、広い会場へとつながるので、
真ん中で人を停滞させず、右側に人を流して、
そこから、見せようとしたとか・・・・
係の方は、常に「真ん中には立ち止まらず空けて下さい」と、
言い続けていました。

これは、あくまで想像ですし、自分が絵を見て感じたことに照らして、
こじつけてるという面もなきにしもあらずですが(笑)


何で、こんな場所に飾ってしまったんだ・・・・
と一瞬、思ってしまったのですが、
「それには、何か必ず意味がある」と思えば、
また、新しい楽しみになると思ったのでした。


ーーーーーーーーーーーーーーー
【付記】今後、モネの解釈で参考になりそうな、野村萬斎さんの言葉。

萬斎対談・そして羽生選手の新境地
   →「それはスケートに生かせるなと。ダイナミックさというか、迫力というか」
    「自然の原理も一緒だと思うんですけれども、伝わりやすいのかなと思いますね」


人が喜ぶということ
   →「その空気場を味方につける。まとう、っていうことができると、人は、喜びますね」
   →「その人がリズムを支配しているというような見え方がするときには、
     見てる人間が本当に、見ててよかった生きててよかった
     ここにものすごい生き物がいる、ていうような感動を与えるのでは」

荒ぶる神
   →都のに人を喰らう鬼、須佐。
   →鬼とは、強烈であることの化身でもある。
    羽生選手は、「SEIMEI」への挑戦を、自分自身を喰らう、と言った。
    それは「過去の自分を超える」という意味だ、と。

   →その荒ぶる鬼の魂が、気高く勝利する「和」の精神と調和したのなら、
    どんなにか美しい事だろうと思う。

   映画の最後に晴明は言う。
    「鬼がいなくては、人の世は味気なかろう。たっぷりと退治してやろうぞ」



羽生結弦×野村萬斎3・・・・
  →「身につけているものが違うとアレンジする必要性があるとか、どこを見せるのかという意識。

  →「音を見せることも重要かもしれないけど、音を見せた最後、羽生選手が見えなきゃいけない」
  →「例えばこう…足で鳴らせないなら、手で打って天に響いたっていう…」
  →「音をまとい、音を司った感じで…最後の音を"ダーン!"って
    立ったものが、そのまま照射していったような…。
   "ドーン!"ってワァって、それが広がったって言う方がかっちょええ気は…。
   演出家・野村萬斎とか、振付家・野村萬斎的には思いました」

  【場を支配するためには、場を味方につける】



一つ一つが、モネの描き方に通じる何かがあるような気が・・・・


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■日曜美術館:モネ 光を追いつづけた男(2007年6月10日放送) より
ーーーーーーーーーーーーーーーー
この展覧会に注目するのが、西澤潤一さんだ。半導体の研究で世界的に有名な科学者は、無類のモネ・ファンである。かつてパリのマルモッタン美術館で、モネの「睡蓮」が誰にも気付かれることのないまま、逆さに掲げられていることを、モネの影の描き方から見抜き、指摘したことがあるほどのモネ通だ。
西澤さんにとって、モネの魅力とは、冷徹な科学的まなざしを持ちながらも画面いっぱいに「温かさ」があふれていることだ。感覚的な画家だと思われてきたモネは実は分析的な画家であり、自然を時間や光に分解してさまざまな相を描き出すことに成功した。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

モネは自然科学者だった・・・
首都大学学長さんも同じことを・・・・

一方、
■セザンヌ
19世紀 写真と近代絵画  オンフールの自然に向うセザンヌの絵
画家にとって光は存在しない より

セザンヌは光学理論に則った印象派のやり方を手厳しく批判する。近代科学の視点は、自然を分断し、ある要素だけを取り出して真理だとする。その真理だとされることの一つが印象派が取り組む光の分解と合成だ。自然から分断した光の現象。それをいかにこねまわしたところで自然の部分的な現象を追うに過ぎないではないか

点からは自然の一面しかとらえられない印象派でいえば光の現象としての自然だ。そうではなくて、科学の理念に縛られず、感性(彼のいう感覚-サンサシオン)を研ぎ澄ました本来の自己に立ち戻った地平から自然に向うこと

科学が世界/人間を分断してしまったという現状。それに対して、人間自身の感性を通して自然に向かい合い、世界/人間の全体をもう一度自分たちの手に取り戻そうとする営み、それがセザンヌのめざす絵画であり、彼のいう「感覚の実現」である。

ひとことでいえば、絵画とは自然の本質をとらえること....。(略)セザンヌ自身はただ、画家の感性の求めるところに従い、より直接的に自然と向かい合おうとしたにすぎないだろう。だが、時代の状況が呼び寄せた関心事として、異なる領域でありながら現象学の求めるところとセザンヌの求める絵画は重なっているとみられる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

印象派のモネの科学者としての目を否定。
画家の感性から、自然と向き合うセザンヌという画家の存在。
今年の夏、ポーラ美術館で、セザンヌ展を見ました。
あまり興味のある画家ではなかったのですが、
ガレの企画展を見たくて・・・
そんな考え方を持った画家だとは知りませんでした。
こんなところから、興味のきっかけになるかも(笑)
ページの先頭へ