『③どこまでがコピーで、どこからがオリジナル?』コロコロさんの日記

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琳派の私淑という世界に触れて、
模倣、模写、オリジナルっということについて、いろいろ
考えている時に事件がおきました。

そうです。あのオリンピックのエンブレム問題です。

あの問題が報じられた直後、こんなことを書いていました。
有名なお菓子のオリジナルについて日記にした時の、
前フリとして・・・・


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デザインの原点、発想の原点って?(ルタオのチーズケーキの原点) (2015/08/14)
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オリンピックのロゴが、劇場のロゴと酷似しているという問題がありました。

確かに似てます。
でも、こういうことってあると思うんだけど・・・・と思っていました。

人の考えることって、どこか同じようなものになってしまうもの。
以前、北野武が言ってました。
全く見たこともないような地球にはいない生物を描け
と言われても、本当のオリジナルなものは描けないと。
それって真意をついていると思いました。

何かを描こうとすると、いつか、どこかで見たことがあるものと似てしまうもの。
たとえば、足も手もない流動的なものを描いたとしても、
それは、アメーバが元になっていたり・・・・
人の考えることは、必ず何かに影響を受けていたりヒントをもらっている。
全くみたこともないものを考えたり描いたりはできない。
そう言う意味で、真のオリジナルなものは存在しない・・・・と。

今回の、オリンピックのロゴも、もしかしたら、
いつかどこかで見ていたのかもしれません
しかし、自分でもそんなことはすっかり忘れてしまっていて・・・・

でも、そのイメージだけがはっきり頭の隅に残っていた
そして、今になって、オリンピックのロゴを考えるときに、引き出され
デザイン化され酷似してしまった
ということもあるのかもしれない・・・・
だから、本人も気づいていない

あれだけ知名度もあるデザイナーが、意図的に
すでに劇場ロゴとして何年も存在しているデザインを
参考にして、あれだけ似たオリンピックのロゴを作ってしまう
ということは、いくらなんでもしないでしょ・・・・

盗用するなら、もう少しアレンジでもしてわからないようにするはず。
って思っていたのでした。

そして、離れた場所で、同じようなことを考えてしまう
そういうことだってあるのではないか・・・・

あるいは、頭の隅にかすかに残っていたデザインを
自分で考えたものだと思いこみ
そこに、デザインコンセプトを当てはめていった
そんなふうにも考えられる。

と思っていたので、本人が言うように、
この図案を見て、このデザインにしたということは
ないのだろうな・・・って思ってました。

もし、そうだとしたら、世界にお披露目されたら、
バレることぐらいわかるでしょ・・・・

プロとしての意地やプライドってものがあるはず。


ところが・・・・・ えっ? 嘘でしょ・・・・と思うようなことがおきています。

「サントリー、佐野研二郎氏デザインのトートバッグプレゼントを
 一部取り下げ ネット画像無断使用の指摘」

というニュースが・・・・

一般の方のブログ写真を拝借し、回転させて切り取っていたり・・・・
これ、あの小保方問題の時と全く同じ状況です。


インターネット時代、有名どころがこういうことをしてしまったら、
すぐにみつかってしまうもの。
それくらいの認識は当然、もっているはず・・・・と思っていたのですが。

あのモネやゴッホだって、日本の浮世絵を参考にして絵を描いています
どこまでがコピーで、どこからがオリジナルなのか・・・

でも流石に、画像を重ね合わされて、一致を魅せられてしまうと・・・・


■どこでもやってること
今回の佐野さんのデザイン・・・・
想像するに佐野さんがしていないのでは
かなりの量のデザインなので、お弟子さんたちにデザインを描かせ
それを佐野さんがチェックして、手直ししてOKを出す

佐野さんにしてみれば、まさか、スタッフが、一般人の写真を持ってきて、
加工して図案にしているとは思わないし、
そんなことチェックできないし・・・・
ということだったり? と思いながら、今後の展開をウォッチしてみます。


ファッションデザイナーも、有名建築家も、
そして、学究の学会発表だって、その下で手助けをしている人たちがいます。
その作品を自分のものにしてしまう・・・なんて話は、
ドラマなんかでもよく見る光景だし、実際にも?

そういった歪がこんな形になって出てきたのかなぁ・・・・とか。
小保方さんの論文不正も、その世界では、そういうことが
日常茶飯事に行われているから、解明されたんだ・・・って話も耳にします。


でも、大舞台でそういうことは、何がなんでもしないでしょ・・・・・
という常識。


コンテストに応募する写真を、加工するなんてタブー
と思っていました。
しかし、その加工技術や表現も含めて、コンテストの審査なのだそう。


そして、生まれた時からプリクラのある世代。
写真はきれに加工して見せるもの。
それが当たり前のこととして育ってきたと思われる小保方さんの世代。

学究系の写真でも、対象画像は、きれいなものに差し替えてしまう。
それが何か・・・・? そんな感覚だったのでは? 
と語っている人もいました。


着想があって、それはコピーができて、アレンジも加えられる。
原型をとどめるもの、原型をなくすもの・・・・
それらは、どこでオリジナルと判断すればいいのでしょうか?





■小保方問題
こちらも、当初からいろいろ思うことがあって、
日記の下書きには、いろいろなことが書かれているのですが、
なかなか、裏もとれず、公開に至っていないのですが・・・


琳派400年とともに、模倣、模写。
そして現代では、コピ&ペーストという言葉で、
デザイン畑、科学畑でも、コピー問題が大きく取り上げられました。


そんな中でとても面白いブログをみつけました。


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大和絵・琳派・デザインそして自然「20世紀琳派田中一光展」三木学
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上記の中で次のような文章が紹介されいます。

さて、以下の文章をパクらずにどうやって紹介したらいいのか・・・
引用を明確にすればいいのか。
引用のボリュームは? 引用は表現を変えてはいけないとか・・・
要約はOKなのか? 

伝えたいことを引用すると全部になってしまうし・・・・
ということで、興味のある方は、ぜひ、出典元をご覧下さい。

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「今のデザインはスピードが早く、頭でっかちでつまらないマーケティング優先。すぐゴミになる。でも琳派の作品はどうだろう。時を超えて丁寧に時間をかけ、計算して構成されたものは、その古びた質も含めて楽しめるいまのデザインが一番気にし、影響されるべきは琳派なのではないか。」
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「20世紀琳派田中一光」展が開催されており、デザイン業界にとって、
最も重要な展覧会と言われているそう。
あの事件で、地に落ちたデザイン業界。
これまで築いた信用を回復するためのヒントがここに・・・

琳派400年、琳派がらみの展覧会やイベントの一つで
「20世紀琳派」と冠され琳派をもっとも体現していたのは、
デザイナーであり田中一光であるといいます。

外来の職種でもある「デザイナー」 
田中一光が違うところは、
徹底的に琳派の流れを汲んだ自然との親和性だといい、
琳派を生んだ土地、その歴史、自然に親しんで育ち、
あらゆる自然をモチーフにし、琳派の技法を使い、
自然の形象の抽象化、単純化は、西洋のデザインとは一線を画したようです。


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琳派はお抱え絵師のような派閥、流派、工房のようなものではない。本阿弥光悦が、様々な職人を集めた芸術村を作ったことに端を発する。本阿弥光悦と俵屋宗達は、現在で言うところのアート・ディレクターとデザイナーイラストレーターのような関係で、様々な作品を共同制作した。それが日本のデザインの源流といわれる所以である。
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よくわからなかった本阿弥光悦。
書道家でもあり、刀の目利きでもあり、何をした人なのか、
多くの人は知らない。そういう意味では、
アートディレクターが何をする人なのか、
一般的にはよく知られていないことと似ているかも・・・・



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琳派のデフォルメ、単純化、様式化、専門性と分業などは、近代デザインに通じるものがある。
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日本は、昔から共同作業をして、デザインというものを構築してきた
ということらしい。
専門化、分業化が急速に進んだ結果、となりは何をする人ぞ・・・
という弊害もありそうですが、そこは、
ディレクターの腕のみせどころということでしょか?


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田中一光の業績が、琳派のパクリといえるのだろうか?
琳派は俵屋宗達の『風神雷神図』を、尾形光琳が模写し、さらに、酒井抱一が模写している。言い方が悪いが、パクリの系譜であるともいえる。創始者の一人である、俵屋宗達の代表作『舞楽図屏風』ですら大和絵に描かれてきた「舞楽図」から、かなりそのままに近い形で写し取り、大胆に再構成した作品である。しかし、日本美術も、中国美術と同じように、模写によって技術を得るというのはあたり前のことだった。

かつては著作権の概念などない模倣、模写は、技術習得のためでもあり、新たな付加価値をそこに付ける素材でもあった。田中一光もそれに倣っているといえる。もちろん、琳派はすでに著作権が切れているので、模倣、模写であったとしても著作権侵害にはならない。
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著作権と言われだしたのは、いつのころからなのでしょう?
模倣、模写は誰もが通る道。
それと、簡単な作業でできてしまうコピペ。
本質的に違うということなのでしょう。


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そこで今日のパクリの問題に移ると、一つは模倣と著作権侵害という犯罪の間には、非常にグレーな領域がある。同じような要素でデザインした場合、結果的に似るケースが出てくる。一方、特定の著作物をヒントにした場合、程度問題によるが著作物の複製や翻案をしたと捉えられることがある。一つ一つの事例は裁判でしか答えはでない。模倣、盗用、盗作など類似した言葉がたくさんあるが犯罪かどうかがまず問題である。ただ、デジタル著作物のコピーなどは著作権侵害に当たるパクリの定義を著作権侵害に当たらない模倣まで含めるかで印象はかなり変わるだろう。
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同じような要素でデザインした場合、結果的に似るケースが出てくる。
たけしの番組でアートディレクターと言われる人が、
「登場してコメントしていました。
やはり、オリジナルはないと
○□△  これを使って真似した・・・と言われたら何もできない。

そしてたくさんの仕事をしているほど、様々な作品を見ている。
それは、自然に頭の中にストックされている。
それが、形となって出てくることはあるし、
パクってなくても、デザイン上、似ることはよくあること・・・・



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次に道義的にどうかという問題である。著作権が切れた過去の著作物だと道義的にも問題はないだろう。著作権という概念が存在しない時代の作品も、模倣であっても犯罪ではない。また、琳派や田中一光はその影響をまったく隠してないので、道義的にも問題はないだろう。

そもそも完全なオリジナリティというのはない芸術も科学と同じで、常に先人の創作物の影響下にある。著作権法は、無方式主義(申請や登録の必要がない)
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>完全なオリジナリティというのはない
>芸術も科学と同じ

ファッションデザイナーも、有名建築家も、
そして、学究系の学会発表だって、その下で手助けをしている人たちがいます。
その作品を自分のものにしてしまう・・・なんて話もあるわけです。



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しかし、広義に捉えるとほとんどすべての著作物は過去の著作物のパクリになる。(略)では人々が指すパクリは何を意味しているのか?

少なくとも、琳派は積極的にパクることで、新たな付加価値を生み出してきた。それが日本の創作物に対する寛容さともいえるかもしれない。琳派はパクることで、時を超えて大きな日本の美意識の潮流を引き継いできた。積極的な関与なのである。

それは日本の自然に対する美意識を引き継ぐことでもある。現行の法律下においても、著作権侵害をせずに、美意識を引き継ぐ方法はたくさんあるということが田中一光展を見れば一目瞭然だろうし、まだまだ他にも道はあることもわかるだろう。
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最近、美術館のギャラリートークでもパクリという言葉使われていました。
「○○と似ていいますが、○○よりも先に作品を書いており・・・・
 ということで、パクリではありません」

今回のツアーのバスでも、正倉院展のルイヴィトンのような琵琶に対して、
パクリに見える・・・

あの事件以来、「パクリ」そして「コピペ」ということが気にされだし、
至る場面で耳にする機会が増えました。



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もっとも大事なのは作品が素晴らしいかどうか、人々の心を掴めるかどうかである。おそらく現在の人々のいうパクリは、犯罪かどうかよりも以前に、創作者として卑怯な行為を行っているかどうかを指しているのだろう。つまり、新規性や進歩性、創造性がなく、第三者の作品を模倣をしている場合、それが犯罪と認定されなくても、卑怯な行為であるとし、侮蔑的な意味も込めてパクリと言っているのだろう。
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ただ、いろいろな場面で、その製品の大元になったものが、
透けて見えることがあります。
あっ、あれを真似したのね・・・・ 元ネタわかっちゃった・・・
って思う時、その作成者に対する心象というものも
大きく左右される気がします。
好意的なら、まあ、許容範囲・・・・
嫌悪感を感じるようなところだと、パクったという視線を送ってしまいます。


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田中一光は、琳派の伝統に沿い、多くの絵画の図柄をモチーフにしながら、デザインとして新規性、進歩性、創造性を十分示している。そこに新たな付加価値、オリジナリティが発生しているのである。そして、その元となる自然の形象の単純化が、琳派の芸術家と現代の人々との価値観の継承や共有、共感を生んでいるのだろうと思う。
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そして最後に、大きな種明かしが・・・
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ちなみに、この展覧会の展示構成、ポスター、カタログデザインは、今回の騒動の中心人物である佐野研二郎氏が担当した。カタログの中に「あなたにとって琳派とは何か?」というアンケートがあり、著名なグラフィックデザイナーたちが答えている。琳派をいかに捉えているかが、各自の咀嚼力やデザインにおける制作姿勢を恐ろしいほどに明確にしており、リトマス紙のようになっているので必読である。このブログの一番上に記載しているのは、佐野氏の回答である。まさに現代におけるデザインの危機を端的に表した言葉であり、本人は自覚的であったことがよくわかる。
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さらに佐野氏は
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「今回の展示のグラフィックを依頼されるまで、正直にいうと恥ずかしながら琳派のことをあまり知らなかった。デザインの原点、というとかつての琳派の方々には笑われるかもしれないが対象を大胆にデフォルメし、余白をとって見やすくする様はまさにデザインだ。すくなくとも、かわいい、とか、かっこいい、しみじみする、という反応を意識してつくられているのは確かだ。しかし簡単にMacでつくる現代と決定的に違うのがその質感と密度だ。」とも答えている。
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なんて皮肉なめぐり合わせなのでしょうか。
パクリと言われてもパクリではないことが証明されてしまう琳派。
それに対し、パクリの張本人が語っているという・・・

琳派を知らず、琳派に出会い、琳派を語る・・・・
そこでは、何を考えていたものか・・・・




そして、対話式鑑賞会を実践している美術教師も
この問題に取り組んでいました。
   
    ⇒オリンピック問題と授業づくり




【関連】■オリジナリティー 
⑤改めて、着眼点にこだわる理由 (2015/11/16)
④琳派における模写・・・・そして複製 ・・・コピー (2015/11/16)
③どこまでがコピーで、どこからがオリジナル? (2015/11/12)  ←ここ
②琳派におけるオリジナル そして「食」や「写真」 (2015/11/12)
①「オリジナリティー」「自分の視点」について(2015/11/12)
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