師匠（おやかた）と　爰（こゝ）で遇（あ）ひたる　●年目　屋號も新（あらた）　『くろねこ茶店』 に : アイタル食堂 organic cafe&dining

朝飧(あさめし)を濟（す）ますや、百姓家（ひやくしやうや）の旅籠（はたご）より辭別(いとまごひ)。
名殘（なごり）を惜（を）しみつゝ次（つぎ）に向（む）かふは三河國（みかはのくに）。
かの狸爺（たぬきぢゞひ）の生國（しやうごく）として遍(あまね)く知（し）られ、
八丁未醤(はッちやうみそ)、酢（す）、味醂（みりん）は一際（ひときは）譽（ほまれ）れ高（たか）し。

街道（みち）をひた走（はし）り、晝過(ひるす)ぎには豐川（とよがは）より吉田（よしだ）*)に到達（いた）れり。
不圖(ふと)、『晝飧(ひるめし)は卍（まんじ）の嫌（きら）ふ自然食（じねんじき）』との聲（こゑ）ありて、
暫（しば）しの間（あひだ）詞（ことば）を失（うしな）ふ。
『かくのごときものゝため、わざわざ三州（さんしう）くんだりまで、、』と云ふのが僞（いつは）らざる心境（おもひ）。

廛(みせ)は陳腐(とるにたら)ぬ大厦（おほきなるたてもの）ゝ一階（した）。
その設（しつら）へも頗（すこぶ）る怪（あや）しく、主人(あるじ)の口許（くちもと）には無精鬚（ぶしやうひげ）。
流（なが）れ來（きた）る絲竹管弦（しちくくわんげん）も、
天竺（てんじく）とも、阿弗利加（あふりか）とも、雷鬼樂（れげえ）ともつかぬ訝（いぶか）しさ。

すると、そこはかとなく漂（たゞ）ひ來（きた）りしは鰻（むなぎ）を炙（や）く香(かをり)。
俄（には）かには信（しん）じがたく、傍(かたはら)におはします『味神樣（あぢがみさま）』に訊（たづ）ぬれば、
『これ鰻（むなぎ）なり。汝（なんじ）努々（ゆめゆめ）疑（うたが）ふことなかれ』との御託宣（おつげ）。
あな、ありがたき哉（かな）、寔(まこと)にありがたき哉（かな）！

蕃茄(とまと)は熟（う）れ、その色（いろ）、宛然（あたかも）燃（も）え盛（さか）る焔（ほむら）のごとし。
次（つ）いで『鰻（う）ざく』。
やはりあの芳香(よきかをり)の源流(みなもと)は紛（まぎ）れもなくこの鰻（むなぎ）。
些（いさゝ）か甜味（あまみ）が強（つよ）く、かの小塚原 （こづかッぱら）とは雲壤（うんじやう）の相違(たがひ)。

飯（いひ）は五分附（ごぶづ）きながら適度（ほどよ）き硬（かた）さ。
宿（やど）の朝飧(あさめし)の柔（やは）らかきこと、粥（かゆ）かと見紛（みまが）ふほどなりしかば、
當家（こちら）の飯（めし）は『四國（しこく）に遍路（へんろ）』、『寒天（かんてん）に蜜（みつ）』、
否（いな）、『地獄（ぢごく）に浮屠家（ほとけ）』、『旱天（かんてん）の慈雨（じう）』。

倩（つらつら）當店（こちら）の口味（あぢ）を檢（あらた）むるに、
油揚（あぶらあ）げの淡（あは）き味附（あぢつ）け、ほどよき齒應（はごた）へを殘（のこ）す枝豆（えだまめ）、
微塵（すこし）も煮崩（にくづ）れを起（お）こさず巧妙（たくみ）に煮含（にふく）ませたる東埔塞瓜（かぼちやうり）。
僕（やつかれ）が好（この）みに寸毫（つゆ）と異（こと）なるところなし。

纔（わづ）かに緑色西洋獨活（あすぱらがす）のみ些（いさゝ）か濃（こ）いめの味附（あぢつ）け。
未醤汁（みそしる）は當地（このち）に相應（ふさは）しからざる麥（むぎ）と思（おぼ）しき未醤（みそ）。
味神樣（あぢがみさま）、頻（しき）りにこれを襃（ほ）め、その在處（ありか）を主人（あるじ）に問（と）ひたまふ。
僕（やつかれ）が駄舌（した）では今一（いまひと）つその凄（すご）さが理解（わか）らぬ儘（まゝ）。

鱸（すゞき）の鹽燒（しほやき）も想定外（おもひのほか）に佳味（よきあぢ）。
元來（もとより）脂（あぶら）が少（すく）なく舌（した）に抗（あらが）ふこと多（おほ）き魚（うを）なれど、
皮（かは）の下（した）と骨（ほね）の周圍（まはり）は柔（やは）らかく滑（なめ）らかで脂（あぶら）に富（と）む。
鮭（さけ）でも啖（くら）ふがごとく骨（ほね）を舐（ねぶ）りて飯碗（めしわん）は忽地（たちまち）空（から）に。

菓子（くわし）、就中（わきても）小赤豆（あづき）の餡子（あんこ）が秀逸（ひい）づ。
見（み）た目（め）こそ名（な）のある廛（みせ）の餡（あん）には及（およ）ばねど、
くどき甜（あま）きに流（なが）れず、ほどよく果物寒天（くだものかんてん）に調和（したし）む。
敢（あ）へて寒天（かんてん）に黒蜜（くろみつ）避（さ）くるは、當店（こちら）の流儀（やりかた）ならん。

話（はなし）も彈（はず）むほどに、白髮天窓（しらがあたま）を丁髷（まげ）に結（ゆ）ひたる翁（おきな）。
主人（あるじ）ばかりか、味神樣（あぢがみさま）も能（よ）く見知（みし）りたる樣子（さま）なれば、
皆（みな）の顏（かほ）綻（ほころ）び、齊（ひと）しく胸襟（こゝろ）を開（ひら）きぬ。
話題（はなし）は珈琲（こおふい）に始（はじ）まり原發（げんぱつ）に至（いた）るまで多樣（さまざま）。

この翁（おきな）こそ、主人（あるじ）の師匠（おやかた）にして、
今宵（こよひ）夕飧（ゆふめし）に向（む）かはんとする『山猫軒』の亭主（あるじ）その人（ひと）。
星雲（せいうん）の志（こゝろざし）を抱（いだ）き歐州（おうしう）まで遠征（わた）りし怪人（くわいじん）。
實（げ）に、この親方（おやかた）にしてこの弟子（でし）あり。

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※注）屋號（やがう）が『アイタル食堂』→『くろねこ茶店』に變（か）はります。
*)豐橋（とよはし）